うつろいゆく思考

鈴浦の個人的経験とその時点で考えたことを綴るブログ.

20171010

ある人の訃報に落ち込む.長い間,通院治療を続けていると聞いていた.全く面識は無いのだが,自分が昔住んでいた街の記憶とリンクしており,どこか気になっていて,そうならなければいいけどという不安が現実となった.

翌日,遠方から長年世話になっている人が来札し,8月に会ったばかりだけども,街に繰り出す.一軒目は調べて予約までしたのにイマイチ,二次会は間違いのないところを選んで,落ち着き,気が紛れる.翌日は土曜だが,研究集会は続くということで,早々と解散.

やり残したことがあって大学に戻るものの手につかず,長い間放置していた「卒業式まで死にません」を読み始め,一気に読了.昔の記憶が走馬灯のように蘇る.狭い住居で薄い仕切りの向こうに不機嫌な親が居る状況の記述にグッとくる.

勢いで,デスクに積み上がった本の山から「酔うと化け物になる父がつらい..」を手に取る.壮絶.この化物になる父と同様,私の父は酒に弱く,好きでもなかったのだろう.自分と暮らしていた頃に飲んでいる姿を見た記憶がない,

それが,私の上京後,ぼちぼち仕事を始めるようになり,その付き合いで,飲み始めたようだ.実家に帰って,父の友人に会った際,飲酒運転の自損事故で自分のクルマを廃車にしたと聞かされ,寂しいみたいだから,もっと帰ってきてやれと忠告を受けた.

自分としては,久しぶりに実家に帰っても.お互いに干渉することはなく,夜に戻ってこない日も度々あるし,好き勝手に暮らせて良いんじゃないのかと思っていたが,もっと話をしておけばよかったと後悔している.

両作品ともネットで話題になって出版され,今でも閲覧可能らしい.これだけの内容を紡ぎ出せるんだから,どちらも,ひとかどの人なんだと思うが,悩みは深く,一人はこの世に存在せず,もう一人も苦しみから抜け出せていなさそう.

親子関係の他にも,イジメやDVなどで問題は複雑であるが,家族間独特の信頼関係があるようなないような,いずれにしても,依存関係があり,超えてはいけないような一線を乗り越えてしまうことがあり得るということだ.

それが許されるのが家族だとか,血の繋がりだとか,考えている人が一定数いて,個人がそう思うのは止めはしないが,他人に押し付けるのはやめてほしい.親も子もお互いを一個人として認めあえたらそれでよく,どこまで立ち入れるかは家族かどうかに関係ないのではないか.認めあえないなら距離を置けばいい.

月曜が祝日であることなどすっかり忘れていた.Macbookが明日は亡き父の誕生日だと通知してくる.ハッピーマンデーが始まるまでは祝日で,国として祝福してくれているというジョークをかますのがお決まりだったが,誕生祝いなど一度もしたことがない.

合理的な人で,自分の誕生祝いにお金を使うぐらいなら小遣いを減らすとまで言ったことがある.好きなことに使えというあの人なりの配慮だったのかもしれないが,辛いこともあった.

つい最近,また自分の子供時代の写真が送られてきた.坊主頭だ.これには苦い思い出があるのを知らないんだろう.そうしてくれる人は,良いことだと思い込んでるに違いなく,誰の言葉だったか,地獄への道は善意で敷き詰められている,というのがあったが,気弱になるとこんな感じで追い詰められていくのかもしれない.

小学校の2年か3年だったか,近所に床屋が新たに開店し通うようになる.ある日,父が丸坊主で帰宅してきた.もともと角刈りの短髪だったから.そんなに急な変化でもないとも言えるが.そう言えるのは他人事だからだ.

お前も次から丸刈りにしろと言い出す.素直に受け入れられなかったが,結局は逆らえない.通常の調髪とバリカンによる丸刈りでは価格差があって,それで節約できると考えたらしい.今ならカット千円という店もあるんで,そのような悲劇は回避できそうだ.

中学生なら,当時は部活や,そうでなくとも,管理教育の厳しかった時代と土地柄のせいで,丸刈りは珍しくなかった.しかし,小学生ではレアな事例で,必然の結果として,イジメの対象となる.

まあ,応戦できる方なんで,その場限りのことだし,自分が加害者側に回ったこともあるわけで,恨みつらみを言える立場ではないとしても,辛かったのは円形脱毛が目立ったことである.短髪でなければ覆い隠せるものが,丸刈りでは,十円玉ぐらいになるとどうしようもなくハゲが目立つ.現実には,多くは丸刈りということだけでイジってたのだろうから,気にし過ぎかもしれない.

某国会議員の,この禿げー,違うだろ−,という叫びが,小学生の間で大流行したというのは,経験としてよくわかる.コドモはピュアなだけに残酷だ.しかし,言うまでもなく,いじめは子供だけの問題ではない.

円形脱毛症の原因は未だに未解明なんだと思うが,きっと,遺伝的になりやすい形質があるに違いなく,私と父はそうだった.若い頃に父は脱毛で相当苦しんだらしい.他人の話は大げさだから真実はどれほどのものかわからないが,それは別の機会に父自身も悩んでいたと語っていたので間違いないだろう.実際に何度も見たが,自分もそうなるとは思ってはいなかった.

その大げさな話の続きによると,そのことで職場仲間達から,端的に言えば,イジメを受けたらしい.職場を飛び出し,悪い仲間とつるむようになる.そして,常識はずれの,不可逆的な行動に出る.

それぞれの出来事の繋がりに必然性が感じられず,そんな単純な話でないのは明らかなんだが,自分のもっている情報はこれしかない.その悪いとされる仲間も含め,父の友人たちとは食事時によく会っていたし,自分自身も諸々のことで世話にもなっていたんだから,もっと話をしておけばよかった.いつか父から詳細を聞ける時が来るだろうと楽観視していたが甘かった.

経緯がどうだったかとは無関係に,コドモは与えられた現実を受け入れるしか選択肢が無い.小学校時代の友人なら皆知っていたはずだが,よく考えてみると,あからさまにしていた訳ではないのになぜ知っているのかは微妙である.ちょっとしたことから噂が広まるのは早いということだろう.

そのことで,自分が嫌な思いをした記憶はないが,都合よく忘れただけかもしれない,周囲のオトナが気を遣ってくれていたことはよくわかった.

自分がどれだけ強いか知りたかった,力だけが必要だと頑なに信じて,というのは,昭和時代の単細胞男子の陥りがちな過ちだったが,今はそれを恥ずかしく思うのは,自分がオトナになったのか時代に即した社会常識を身に着けたということなのかわからない.父はその価値観をずっと持ち続けていたように感じるけども,おそらく,ケンカは弱かったんだと思わせる記憶がいくつかある.

それ故,自分を強く見せるためにああいう状態に至ったんだと想像する.シンプルに言えば,見てくれを盛ったということだ.ホント,アホだと思うし,そういう行為に至る気持ちを理解はできないけれども,そうするしかないという追い詰められた心情を察するしか無い.

今時の若者がSNSで話を盛るというのが妙に気になっていた頃,まるっきりの捏造はどうよ,という余計な正義感から,とあるつぶやきが気になり,その現場にいあわせたと思われる人々が知り合いだったこともあり,確認して,いかがなものかと本人に指摘したら,あっという間に不可視設定となり,その後いつしか,精神的変調をきたした.

よかれと思ったのだが,これも地獄へのいざないなんだろう,後悔している.どうしてそんなウソつくのよという話は,今も変わらずありふれているが,もう指摘することは無いだろう.若者のSNSは見ないほうが良いのかもしれん.いや,若者だけではないんだろう.

自分を大きく見せようという話の盛りは,SNSに始まったことではない.学歴詐称なんてのは昔からあって見つかれば社会的には白い目で見られた.この情報化社会は世界を大きく変えて,この人どういう人なんだろうと思ったらネット検索ですぐに知れる.

例えば,自分の周りでは,病院で医師に診てもらえばどこの医学部出身,どういう病院を渡ってきたか調べるのがフツーになっている.公人には情報公開が求められるんで,見つからない人は業績がなくて公開するものがないということだ.大学のセンセイも然り.

このブログだって,学生へのメッセージと称しているが,昔の知人はもちろん,娘の学校の友人がネットサーフで飛んで来ることまで想定しなければならないと思っている.実名でモノを言う人は経歴詐称なんかできないし,過去を盛ることも無理だろう.今現在のことは言うまでもない.

ネット利用に関するお子様たちへの啓発活動で使われている,自宅玄関前にも貼りだせるツイートを,というのはうまい表現だ.それじゃあ何も面白くないでしょという気がするものの,若者は衝動的に行き過ぎることがあるから,世界中の誰もがというより,実生活の身近な思わぬ人がみるかもしれませんよという注意喚起の方が効果があるのかも知れぬ.そういう衝動が抑えきれない者に何を言っても無駄だと思うが.

実際,SNSでの話の盛り具合が話題になることが最近多く,「ねほりんぱほりん」でのセレブを装うフツーのOLや,「誰かが見ている」に描かれる女性たちは,たとえ,フィクションだとしても,大いに参考になった.偶然にも,これをタイプしながら,録画を観たSONGSでオザケンが三割増しという話をしていて,日本書紀まで持ち出して語った,着眼点は流石である.

つい先日,盛岡で物理学会があり,とある事情で,予定外に発表することになったんだけども,気持ちが落ち着かず,なかなか,最終日にある発表の準備に手がつけられない.久しぶりに会う人々と飲んでホテルに帰っても,何もする気が起きず,そんな早くに眠れる訳もないので,ネットで調べた店に行く.何故かガラガラ,酔っていただけの気もするが,落ち着く店で,連夜通うことになる.

こちらはチキンハートだから,細かく素性を明かすことはしないし,尋ねられることもない居心地のいいところだった.皆さん,自分語りが基本なんだが,それでも,どこから来てるとか,生まれはどこみたいな話から,上手く入り込んできて,なんとなく打ち解ける.東北の労働環境やその中での盛岡の位置づけがわかって新鮮だった.毎晩,人は替わって,同じようなことが繰り返されるんだけども,三日目の人は明らかに飛んでいた.

話が進むうちに,何故かそういう話題になって,実はと告白が有り,自分も父がそうだったと思わず口に出る.中学卒業以来,何度か話をしたことがあるが,間違いなく,絶句される.もう話すことはないかもと思っていたが・・・.こちらの経験を幾つか話をした後,私より随分若く見えるんだけども,どうしてそうしたのか尋ねると,若気の至りですね,との回答.そう答えるしか無いわな.

後悔はしてないと強調していた.父も同じだった.心の弱さと強さの両面を象徴するものという印象である.そこに踏み出すきっかけは人それぞれなんだろうが.

ネット上での,死にたい,とか,死ね,とかいう言葉は,辛い,とか,助けて,にリプレイスしておけば大抵のケースはよさそうなんだけども,直接的な表現は無くとも,希死念慮が感じられるアカウントは心配になる.どうしようもないんだが.

周りが羨ましくて辛くなったら,三割増しの表示になってるんだから話半分に聴く能力を養えばいい.理不尽な扱いを受けて辛くなったら,それを晒してしまえば,今時のSNS社会ならアノニマスな正義の味方がたくさん現れて助けてくれるに違いない.面倒なら,そのコミュニティから脱出すればいい.親の管理下では難しいかもしれないけども,出来ないことはない.

不満はないが,生きる意味が見いだせないとか,自分が社会不適合者だと思い込む,なんてレベルだと,どうしたらいいだろう.それでも,生きていく意味を見いだせる人だけに生きる権利があるわけではないし,社会不適合というのは,今いる社会の話で,そこから飛び出せたら変われるんではないだろうか.

さらに読みかけだった「半径5メートルの野望」を読む.この人はスゴイ.フツーの人でもここまで意識高く走り続ければ,どこかには辿り着くんだろう.炎上にもめげないメンタルを鍛えるのに参考になるかもしれない.まあ,フツーじゃないな.弱ってる人はより凹むかも.

ネットへの毒吐きでも満たされないような闇を抱えると,今の若者でも,父や盛岡の人みたいな行動に至るんだろう.繰り返すが,正直,アホだと思う.でも,それで心の平穏が保たれ,それを受け入れてくれるコミュニティがあることを自分は知っているわけで,今現在属するコミュニティを捨ててその外の世界で生きていこうという気概なら止められない.違う座標軸を見つけてその方向に延びていくんだと思うしか無い.

そもそも,その2つの社会が分断していることが大きな問題で,前回触れたOUR KIDSの提言は,人種というよりは,classによる住み分けが起きていることが問題で,少なくとも,子供の間に異なるclassの間の交流を深めることが重要だと強調している.そんなことは自明なんだけども,残念ながら,社会は異質なものを排除することで多くの組織が維持されていて,そこに留まるにはその迫害に耐えるメンタルの強さが必要である.耐えなくて逃げればいいと思うけどね.

自分が言えるのは,もし特殊な方向に不可逆的に大きく振れようとする人がいたら,それで自分が満足ならいいのかもしれないが,もし将来に子供を持つつもりなら,やめておけと言いたい.自分が差別する側の社会の価値観に染まってしまったのかと考えると,差別を忌み嫌いながらもそれを肯定しているようで,辛いものがあるが,コドモは親を選べない.

自分は今は受け入れられているけれども,それに耐えられないケースもあるだろう.でも,親がハッピーでなければ,コドモが大きな荷物を背負うことになるので,どこかでバランスをとるしか無い.父と別れる最後の朝,葬儀屋のオヤジがナイスなコメントをくれて,心和んだことは忘れない.いい人に任せたと感じた瞬間だった.

学内のとある会議で議長である自分が非常に派手なシャツを着ていたことが話題になっていたと,飲み仲間が教えてくれた.自分が学生時代に着ていたシャツで,当時から,派手だという自覚はあったんだけども,そんなふうに自分の居ない場所で話題になるほどだとは思っていなかった.

それが嫌なんてことは全く無く,むしろ,独自性を示したいという人にはその程度でも十分に目立つということを主張したい.うまくすれば,あの人はそういう人だとラベル付けがされて,印象に残りやすくなる.独自性が高いと思われるか,奇抜でおかしいと排除されるかは,紙一重だが,派手なシャツが嫌になったら着替えればいいんだから.

居心地がいいとか悪いとかが気になったときには,BLUE HEARTSに限る.なんか辛くなったら「人にやさしく」,自分がクズに思えたら「終わらない歌」,差別を感じたら「青空」を.

彼らにはそれなりの学歴があって,どちらかと言えば,正統派の社会の側に居るという事実は重い.横浜銀蝿も尾崎豊もそうなんだけども,真のならず者が勢いで突き進んだら,わけの分かんないとこに行き着いて終わりなんですよ.

ドカンにヨウランにガンのくれあい,ってもはや日本語として理解不能だと思うけども,ツッパリとか言いながら最後は結局は学校行くんですよ.盗んだバイクで走り出しても,星空見つめて,自由になれた気がした,とまた来た道に戻っていければ,それでよし.若者はガス抜きして乗り切ろうという教えかと.

北大まで進学してくれば,世の中に出れば十分に高学歴の部類である.この中で大きな差がついてしまったように思えても,そんな差は世の中に出たらたいしたことではない.今はそう思えないかもしれないが,ここで何年か過ごせたと言うだけで一定の地力があると自信を持てばいいし,それを活かせれば,より楽しく生きられるだろう.それぞれに合ったコミュニティが何処かにあるし,それぞれが充分に考えられる能力を持っている.

ここで立ち止まってしまった人々は,むしろ,別の道を探して,これまで想定していたのとは異なる社会に飛び込んで,社会を変えるとまでは言わなくても,少なくとも,自分を変えるチャンスを得たと思えば良いのではないか.そんなふうに考えられるんだったら悩まないんだよと言われたら黙るしか無い.悩む人と対峙するには,こちらもそれなりに力を蓄えていなければ向かい合えない.

父が一命をとりとめたものの先が永くないと感じたとき,自分は,父に介護が必要になったらとか,孤独死したらどうしようとか,自分が困るということばかり考えていて,自分のほうが弱っていたということだろう.父ひとり子ひとりでは最後は自分が面倒をみるしかないという呪縛から解き放たれることはなかったが,今から考えれば,それは自分の思い上がりだった.

それは父にも伝わって,あれこれ言うと,放っといてくれと言われたことがある.今更ながら,その言葉が心に突き刺さる.心配だなんて言いながら,実際には,こちらが面倒なことに巻きこまれたくないということを見透かされていたんだろう.いや,そんな呪縛にかからないように,自由に生きろと教えてきたのに,何やってんだというつもりだったのかもしれない.

究極的には,自分がハッピーでなければ人に優しくなんて出来ないんで,あれが精一杯だったんだと思うしか無いが,親孝行のつもりが,そうなっていなかったことに気がついたのは,正直,辛い.学生に対しても,同じなんだろうか.お互いがハッピーになるようにこころがけているつもりの現状が,自己満足や自己保身に陥ってると指摘されたら,キツイなあ.

YOU TUBEでBLUE HEARTSを聴いて気を紛らわすと,サジェストの中に,バブリーダンスが出てきた.ダンスも確かにキレキレでスゴイんだけども,その装いが30年前のあの頃そのもので,今時の若者がメイクと服装を同じにすればあの時代に戻ってしまうのは衝撃だ.日本人ちっとも変わってないということではないか.母親ならまだしも,おばあちゃんからボディコンの衣装を借りたという話もあって,それこそ盛ってるのかもしれないが,人間そんなに簡単には変われないという象徴のような気になって暗くなる.

こうなると,逃避的に,荻野目ちゃんの歌唱力に元気をもらいながら,あとはその次に勧められている河島英五をクリックして,どうして椎名恵がここに・・・なんてやってるとどんどん時間が溶けていく.

連休最後の夜に「そして父になる」を観る.前回は,福山,なにやっても福山にしか見えんと感じたが,今回は,いい演技だと思えた.ちー兄ちゃん役だったのをふと思い出した.そして,取り違われた子供たちがいい味を出している.家族関係について考えさせられた週末だった.人のことを心配する前に,自分が化物にならないよう気をつけよう.

20170809

心が叫びたがってるんだ.とある週末,東京の家で娘が観ていたのをついつい一緒に観てしまった.主人公の女子ほどではないにせよ,同級生の男子ぐらいのことは,親が離婚した子供には似たような経験があるもので,高校生の恋愛感情もうまく描いたアニメ映画だと思う.

札幌では観ない朝ドラを観ていると,失踪した父を思いながら懸命に生きる演技はベタベタだけども,有村架純がかわいい.同世代男女が集まる飲み会で,今更どうしてだか,芸能人だったらだれが好みみたいな話になり,かすみんかわいいでしょ,と主張したら,気持ち悪!と軽蔑の眼差し.

じゃあ,誰なら納得するのよと尋ねると,メリル・ストリープぐらい言っとけ,という話で,それはそれで,自分は,クレイマー、クレイマーを思い出し,うまい役者だとは思うものの,自分の中では悪者の意識が抜けず好きになれない.

そういう事象のみを集めるからだろうが,やはり片親であったということは意識せざるを得ないということもあるのかもしれない.それぞれの家庭にそれぞれの事情があるはずで,父母揃って子供が居るという家庭が標準というのはいいとしても,それ以外の家族形態を例外視するのは本当にやめてほしい.

もう関わらないと心に決めた人から,何を思ったのか,自分が乳児の頃に母と写ったラミネート加工された白黒の拡大写真が東京の家に送られてきた.ホントに何も思うことはない.今読んでいる OUR KIDS というのが,アメリカの格差社会を浮き彫りにする内容で,読んでいて大変辛いのだが,biological parents とあるのは,いい呼び方だと思ったので,実の父とか母なんてのはやめて,生物学的な父母と呼べばいい.

そう言われれば,明確に特定できるし,attachment が得られるかどうかはどれだけ一緒に過ごしたかで決まるんだから,信頼関係の構築に血の繋がりを重視する人を否定はしないけれども,血のつながりと関係なく得られる深いつながりもあり得ることを認め,様々な家族の形態が許容される社会であってほしい.

またある飲み会で,思いがけず,離婚して子育てしているという話を聞いて,そうなんだとしか言えなかった.自分の子供時代は偏見も多かったけど,今でも,きっと,いろいろあるよね.めげずに頑張って欲しい.陰ながら応援してます.

忙しい中,この3ヶ月もよく飲んだ.一番の驚きは,自分の結婚式で介添人をお願いした男が札幌に転勤になったと連絡をくれたことだ.すぐに,メールをやり取りして,近況報告と昔話で盛り上がった.少なくとも5年は会っていないということだが,全くそんな気はしなかった.昔は異常に痩せていたと言われたのが一番のツボだった.生活も無茶苦茶だったし,性格もそうだし,よくここまで長く付き合ってくれると思う.有り難いとしか言う他無い.

この数年のことだが,ワイン会と称する集まりがあり,いつもは札幌で集まるところを,久しぶりに遠征した.ジンギスカン・寿司・ワイン・宅飲みとフルコース.気の置けない人々で様々な話題で盛り上がれ,これも本当に有り難い仲間たちである.

その二日酔い状態を引きずり上京.そこでも,20年以上メンバーが固定した飲み会がセッティングされ,新宿のビアガーデンに行こうと集まろうとするも,台風の影響で豪雨.新宿駅に向かう途中に聞こえてきたのが群青日和だったのは偶然なのか.

今日は,その群青日和を熱く歌い上げる男と一緒にある労働に対する慰労会と称する飲み会.明日も入試だからと,1次会で切り上げるも,自宅で独り2次会.眠れぬ夜に更新.もう自分の人的つながりのほとんどが飲み会になっているのは誰もが知るところだろう.それも人生.

内視鏡手術を何度も受け禁酒した期間に始めたゲームで,ついに,TL40に到達.総歩行距離が2500kmを越えている. 生きる目標をひとつ失った気がする.どうしたら良いかわからない.アンノーンを探してさまようしか無いのか.どうしたら見つかるのか,誰か教えてください.

20170504

新学期が始まり,いつの間にか,ゴールデンウィークがやってきた.久しぶりに,私の所に4年生が2人やってきて,きちんと,指示を守り週のはじめに報告に来る人々で安心した.今学期は,諸事情から急遽,週に4コマ未経験の講義を引き受けることになり,特に,2つの演習科目の問題作りに苦しめられているものの,多くの方々の助けもあって何とかしのいでいる.

歓迎会が続いて,このページ読んでますという学生が沢山居て,そんなに飲んでて大丈夫ですか?と心配されたりした.教員という立場を利用して,毒を吐くのにつきあわせて申し訳ない気分にもなる.

もちろん,文章化することによる気持ちの整理というのは,日記を書いたり,つぶやいたりすることと同じで,自分を客観視し,精神状態の平静を保つのに役立つことも確かで,単なる現実逃避である

様々な学生と話をしたんで,それについて言及したほうが良い気がするけども,自分の中で区切りをつけねばいけないことがあったので,今回はそれについてまとめておく.

父の一周忌を過ぎ,相変わらず納骨もせず過ごしているけれども,どうしようもなく気持ちが落ち込むことがなくなったのは,時が解決してくれたということなのだろう.このブログを遡って全部読み,チェの画像も探り当てたという学生が居て驚いた.そこまで戻らずとも,ある人に父の死を伝えられないでいるというのは,自分の中では大きな問題であると以前ここで触れたが,その後の話である.

その人とは,生みの母の姉夫婦である.単なる伯父伯母というより,育ての親と言うべきかもしれない.両親がどういう経緯で結婚したのか知らないが,自分が4歳の時,離婚したこともあり,興味もなかった.しかし,それ以前に,生まれてすぐ,育てきれなくなり,姉夫婦に託されたという事情があったのは,覚えているはずもない.

伯父曰く,父の親戚を回るも引き取ってくれるところは見つからず,自分たちが育てることにした,という話だが,それは何度も聞かされている.

今回,娘の小学校卒業以来,一度も顔を出していなかったところを,中学卒業を機に,会いに行こうと決心して,妻娘は東京から新幹線で,自分はセントレアに飛び,名古屋駅に集合した.スケジュール調整に難航して,唯一見つかった,年度末最後の土曜日に日帰りだ.

孫を見せに行くようなものだが,自分の口から伝えていない父の死についてどう語ろうかと,会ってからも逡巡していると,逆に話があると別室に連れていかれ,長い話が始まった.

これまでに話してないことをこれから言うといいながら,また,おきまりの子供時代の話が始まった.確かに,初めて聞くこともいくつかあったが,想像の範囲内だ.4歳までの記憶は,基本的に,父とおじおばから聞いた話で構成されていて,おおよそ,相補的なので,どちらから聞いたものかもはっきりしている.おぼろげながら,母とその再婚相手と思われる男性と引き合わされ拒絶した記憶があるのだが,それが真実なのかは確認していない.

保育園に入ってからの記憶は確かだと思う.一時期,別の女性も一緒で,自分の中で母の記憶といえば,ほとんど消えかかっているけれども,彼女なんだが,それはまた別の話で,その後は基本的に,父との二人暮らし.しかし,長期の休みは,生みの母の姉夫婦に預けられていた.冷静に考えると,不思議な人間関係である.私が預けられている間に,何度か,姉のところに母がやって来たが,自分から口を聞いた覚えがない.一緒に来ればよかったのにねぇ,という趣旨のことを言われて,何言ってんだこの人は,と思ったことを記憶している.なつかない自分に掛ける言葉はそれぐらいしかみつからなかったんだろう.

今回も強調していたが,伯父は,私を本当の子供だと思って育てたつもりだということだし,養子にしたかったという話は,父もかなり悩んだと言っていたので,そうなんだろう.そうしなかった父は,いろいろな意味で,賢明な選択をしたと言える.結果論だが.

ただ,少しずつ,話にほころびが見えてくる.決定的だったのは,大学進学に関わる話題だった.胃が痛くなるような話し合いの末,自分の希望を取り下げ,伯父の指示に従ったのは,結果としては悪くなかった.希望を貫き通したとしたら,それも別の人生というぐらいのことだろうと今は思う.しかし,その時に生まれたわだかまりは後を引きずり,大学を卒業し,卒業証書を渡して親孝行したことにして,疎遠になったのは,単に研究に忙しく名古屋に帰ることがほとんどなかっただけのせいではないのかもしれない.

彼の話によれば,私に内緒で,高校の先生に相談に行き,志望校に合格できるか尋ねたという.私の志望していたところは安全圏だが,実際に入学したところは難しいだろうと言われたとのこと.

完全な作り話と断定できるが,それで何を伝えようとしたのかがわからない.当時,自分の成績の話なんてしないから,実情を知らなかったのだろう.毎週のように受験した模試でA判定しか取ったことが無いのを伝えてあげるべきだったか.少なくとも,高校の先生がそんなことを言うはずはない.二次試験で失敗し,落ちたかもと伝えたことが,印象に残っていたのかもしれない.

あとは,基本,父の話だ.とうとうと,いかにひどい人間だったかということを強調するような話が続いた.父自身からも迷惑をかけたと聞いていた事実も含まれ,自分自身も悩まされたことなので,気持ちは分かる.しかし,実質的には彼らは何もしてないはずで,直接に対面して話をしたという部分以外は,ほとんどが想像の話と思われ,作り込まれたと思わざるを得ない部分も少なくなく,聞くに耐えなかった.

迷惑もかけたし,父のことを嫌っていたと感じていたから,家族だけで葬儀を済まし,全てが終わったら伝えればいいと思った,と弁解した.しかし,四十九日を過ぎても,気持ちはおさまらず,いまだに遺骨をどうしたらいいのか決めかねている状態で,ここまで来てしまったと.

よくそこまで作り話を平気で語り続けられると,その時は,うんざりしたが,私の冷たさがそうさせたに違いなく,腹に据えかねたのだろう.親に捨てられたところを育ててやったのにとか,父のダメさ加減を言い続けるというのには,気分は悪いが,事実だから我慢しよう.けども,いかにもバランスが悪いと感じるのは,止められなかった.その違和感をこらえきれず,おかしいのは母の方も同じでしょうという気持ちをぶちまけてしまい,それで話は終わる.

最近,大学でも,平然と嘘をついて,ある意味,脅しをかけてくる人が出て来て問題になったことを思い出した.もっともらしい事実を前面に出し,それを補強するための材料を捏造するというのは,何かをゴリ押ししようとするときにありがちなことだ.

その問題に関しては,より高所に立つと,責任ある立場の人が,大きな問題の存在から眼をそむけ,こちらには何か提案してくださいよと低姿勢でありながら,ウラでは,またうるさい奴が何かほざいているなんて他の人間に愚痴っているような事態の方が深刻である.部下が偉い人の気持ちを忖度して,というのは普遍的な現象なんだろう.これは,つい話が逸れたが,また別の機会にしよう.

嘘でもつかないと,自分を保てなくなることがあり得るのは,私自身はよくわかっているつもりだし,中学までは,そんな話ばっかりで,他人の話をマトモに信じることの方が少なかった気がする.自分自身も人のことは言えない.自分の周りは,そういうのが当たり前の社会だったし,それが嘘だとバレても,それが何か?で済まされることが多かった.伯父もそういう生き方をしてきたのかもしれない.前述の責任ある人のように,ウラとオモテ,あるいは,本音と建前を使い分けると言えば普通に聞こえるのかもしれないが,同じ穴のムジナだ.

そもそも,ウソをつくことより,ウソだと証明する方が,圧倒的にコストがかかるので,ウソをつき続ける方が得であるという状況に陥ると,抜け出せないのだろう.どうしようもなくなったら,コミュニティを移動すればよいのかもしれない.あるいは,しばらくおとなしくしていれば,許してもらえる世界に生きているのだろう.単に関心を持たれてないだけなのかも.

特に,若者と年寄りに,そういう傾向が顕著のように思える.インターネット空間に,フェイクが溢れかえることを理解できない脳天気な人々は,周りにそういう人々が居ない,守られた社会で生きてきたのだろうか.深くものを考えず,差別的言動が平然と出てくるのに恐怖を感じることがたまにある.

その一方で,いいところの子女にも,話を盛るのは当然という価値観が拡大しているようで,むしろ,若者の方がそういう状況をよく理解しているのかもしれない.あるいは,自分が学歴を過剰に評価していただけで,昔からそうなのか.

年寄りも,昔は良かったぐらいなら放置でいいんだけども,過去を捏造する例をいくつも見て来ている.単にボケてるだけなのかもしれないが.自分も歳をとると,虚構の世界を作り上げてしまうのだろうかと不安になる.少なくとも,嘘を語らずに済む現状が幸福であることは間違いない.

高校に入った時の,その雰囲気の違いに対する戸惑いは,忘れがたい.警戒感のなさに驚いた.それは安心できる空間であることに,なかなか,気がつかなかったとも考えられるが,シンプルに言えば,結局は,持てる者がありのままで恥ずかしい思いをすることなく,開けっぴろげでいられるだけで,そうでない者に対する差別意識が垣間見えたところに引っかかった.

嘘がないという前提に立てれば,ロジックが通る世界なので,そこは,慎重に対応すれば,不快な思いをすることは回避でき,その点では良かった.高2までは猛勉教してたんで,成績も良く,その点では引け目を感じることがなかった.ほとんどの先生のことは基本無視しつつ,間違いを見つけた時はしっかり指摘してたから,煙たがられていたに違いない.直球で人を貶めてくる教員も居て,おあいこだと勝手に思っている.

大学に入ると,付き合いはより多様になり,実は,自分の個人的経験を話すと面白がられて,それで独自性があっていいのではと考えられるようになったことが,前向きに生きられるようになったきっかけだと思うし,こういう文章を書くことに意味を見出すことにつながっている.まずは,自分自身が,自分をありのままに受け入れて,理解してくれる人を見つけていけば,それが幸せにつながる生き方のひとつだと思う.

そう思うようになると,作り話にまともに付き合ってはいられない.もう,伯父と語り合うことは無いだろう.

本当は,別に気にかかることがあり,話をするのを躊躇していたのであった.それが,彼らと私,そして,父と母の関わる話である.直接に話すのは諦めたが,ここで全世界に公開するので,そのうち伝わる気がする.知らない方が幸せかもしれないけれども,それは伝える人が判断するだろう.

伯父と伯母が私に母の事を語ったのは,それぞれ,一度だけである.まずは,結婚して20年になるのだが,結婚式に彼らも呼んだ,その夜の話だ.

さらに,それから話を10年戻し,どの大学に行くかの議論の際,知り合いもいない京都でどうやって暮らしていくんだと問い詰められ,それはなんとかなるからと説得したんだけども,結局,東京に行くことに決めたら,生活費はなんとかしてやると言い出した.

その額,毎月10万円.大金だ.それさえあれば,難なく暮らしていける.でも,それに手をつける気にはなれなかった.どう考えても,彼らの暮らしぶりで,そんなお金が出てくるはずがなく,長くは続かないだろうと予想していた.

だからこそ,それは使わないと決め込み,自分も頑張れた.それでも,いざとなればそれに頼ればいいと思えば心強く,苦学生だと思っている人も居たようだが,そういう後ろ盾があり,追い詰められることはそうそうなかった.景気の良さにも助けられ,結局は,予想に反して四年間続いた仕送りに,手をつけずに済んだ.自分が奨学金として得た総額よりはるかに大きな金額が手元に残った.

大学院進学後,自分が自立したときに,彼らの気分を害さない方法を考えて,返そうと思っていたのに,それは叶わなかった.では,どうしたか.詳細は省くが,全部,父のために使った.じつは,結婚前に少し手をつけ,結婚後,間も無く使い切ってしまった.後から,もっと意味のある別の使い方があることに気がつくのだが,遅かった.

結婚式の夜に語られたのは,そのお金の出処が,母だったという事実.正確には,そのご主人と言うべきか.

その場は,平静を装い聞き流したつもりだが,自分にとっては衝撃だった.私から母を奪った罪滅ぼしみたいな話をされ,何を言ってるんだか理解するのに時間を要した.

客観的に見れば,あり得ないほど,いい人達である.私が素直に対応すれば,ほぼ中卒の学歴のない人々が力を合わせて,ひとりの子供を大学に行かせ,学者にしたと思えば,今流行りの美談のひとつになったのかもしれない.

現実はそんな美しい話にはならなかった.伯父のその説明を聞いて,父との暮らしが思い出され,無理して大怪我はするわ,働けないわ,一人で厄介な子供を育てるわで,苦労しただろう父が不憫に思えて仕方がなかった.それの埋め合わせをお金でなんて,ふざけるなと.

父と過ごした年月が全否定されたようで,もう,耳を揃えて,全額叩き返そうと思ったが,発想を変え,これは運命だと,全額,父のために使うことにした.そう決めてから使い切るまで,そんなに時間はかからなかった.

これを聞いたら関係者は誰もいい気分はしないだろう.20年間沈黙を守ってきたが,今回の話を受けて,自分の心の中にしまっておくことはできなくなった.それでも,父には知られないですんだのは良かったと信じる.出処を聞いたらそんなのいらないと突き返しただろうし,後から知っても,嫌な思いをしただろう.

口数の少ない人だったが,幼い時は,尋ねればきちんと答えてくれた.伯父や伯母には本当に世話になったと感謝していたし,母のことも,悪く言ったことは一度もない.私の祖母,つまり,父の母の介護で大変な思いをさせたとまで述べていた.そもそも,父が,論理のおかしな部分は指摘しても,他人のことを悪く言うことはほとんどなかった.中学以後,まともに話をしなかったのが悔やまれる,

何があっても,まずは,自分に非があるのではと考える人で,人様に迷惑をかけない範囲で,自由に生きたいと言うのが口癖だった.現実にはそうならなかったのは,本当に運が悪かっただけだと思うし,私はむしろ父の意に反することをしたかもしれない.

今回は,残念ながら,そのお金の話は出なかった.その話になったら,自分が何をしたかを語ろうと思っていたのに,そう都合よく事は進まない.責められ続け,耐えるのに精一杯で,話を続けるのは無理だった.しかし,最後に余分なことを口走っては,ガマンして聞いた意味がない.

話を終えて,皆のいるところに戻ると,伯母が額に入れて飾ってあった大学の卒業証書を持って来て,大切なものだから持って帰れと言う.もう,充分,よろこばせてもらったし,こっちはいつまで生きてるかわからんし,と.

修士の修了証は父に渡したはずだが,どうなったかわからないし,博士の学位記は,どこかでコピーの提出が求められ,必死になって探したくらいだから,その丁寧な扱いに,彼らに渡して良かったと改めて思った.

その伯母が,母について語ったのは,私が小学校高学年ぐらいの頃だと思う.10歳だったと記憶している.

彼女は私が幼い頃から,とある商品を扱うセールスレディーを生業としていて,顧客を回るために車であちこち出かけていた.専業主婦ではなかったから,幼い子供を預かるということは,実の子だったら保育園に預けるんだろうが,他人の子だから,自分の仕事に連れて行くということになる.

当時は,私の身近な範囲では,運転者ですら,シートベルトを着用する人は見たことないし,まして,チャイルドシートなんてあるはずもない.急ブレーキを踏めば,助手席の子供はダッシュボードに頭をぶつけるのが必然であり,その経験は,一度や二度ではない.

ともかく,彼女と二人で車に乗っていたある時,母の話をし始めた.前振りはなんだったか記憶がない.ただ,話の核心は,どうして両親が離婚することになったのかということで,シンプルに,どうしても二人が合わなかったのよ,と言い,本当にすまないけど,許してほしいと繰り返した.きっと,その時,何かがあったんだろう.

歳の離れた妹と,自分の甥に当たる,その息子の離別をどう説明するのが正解なのか,そんなものがあるはずはないが,自分にはベストな対応だったと思う.それ以外,男と女の関係を説明のしようがないだろう.オトナの事情というものがあることを初めて思い知らされた時だと思っている.

話の途中から,涙がこぼれ落ちたことは忘れないのに,その時,どのような感情を抱いたのかは,全く思い出せない.その前にも後にも,母には特別な感情はなかった.家に女手があれば良かったのにと思うことは,幼少時には,数知れないが,顔も思い出せないような疎遠な人に何を期待すればいいのか,ぐらいに思っていた.その告白があったことには,伯母に感謝しているし,父子で生きていくことを確固たるものとして受け入れる方向に背中を押してくれたと思っている..

ただ,自分が子育てを経験した今では,色々な思いが無いでもない.成人してすぐに子供ができて,仕事もない,お金もない,後ろ盾もないなんて状況だったら,育てられないのは当然だし,意思疎通の取れない赤ちゃんを相手にするのは難行苦行そのものだ.

若い頃は子供ができちゃったら困るぐらいに思っていたのに,結婚してからは,逆に,子供が生まれるのは奇跡的だと考えるようになった.三十路を過ぎてから授かったこんな自分でも,背負ったり,ベビーカーで連れて,公園に行ったり,本屋にこもったり,時には,飲みに行ったりもしながら,衣食住を共にするうちに愛情はどんどん深まる.最近,身近で若くして出産した例があって,本人と直接話したことはないけども,頑張って育ててくれればと陰ながら応援している.

GW初めに,菊次郎の夏,を観て,色々なことを思い出した.映画やドラマを観て,自分にあった出来事を思い出すことがどれぐらいあるのかは人それぞれなんだろう.祖母に育てられている少年が,父は居なくて,母は遠くで働いているという設定は,私の身近でも何人か居た.会いに行ったら,実は,別の家庭を持ってたというのも,あり得る話だ.それを子供に伝えていないのはあるとして,周りの大人がそれを知らないということはない気がする.

親の結婚式の写真を観て,会いに行こうと思うのは,自分にはその経験はないけども,今の自分の不遇な境遇が,何かの事情でたまたまそうなっているだけで,解決すればフツウになるのではと夢を抱くのはよくわかる.それが幻想であると理解した時の絶望をどう乗り越えるかが試練なのだが,それは描かれていない.ただ,どうしようもないように見えるオトナ達が優しく接してくれることの有り難さは,子供の頃は分からなかった.それを理解するのが正解という主張なのだろう.

誰にでも,自分では制御し難い,世に溢れる理不尽や不条理が,人生のどこかで降りかかってくる.大学の学生には,論理的であることをの重要性を説いているが,それは,お金がなくとも自分自身の中に取り込める武器になりうるからである.しかし,それが万能でないのは言うまでもない.

金持ち喧嘩せずで,さらにお金があれば,大抵のことは解決するのは真実としても,人の気持ちを変えるのは簡単でない.貧しければ余裕がなくなる分,気持ちのこだわりは強く,虚構話にすがる人も少なくない.ちなみに,裕福か貧しいかは,自分の中の基準からの相対評価にすぎず,自分が幸福に思えるかどうかと持てる資産にほとんど相関がないことは,若者に伝えたい.

ここで述べた私的な経験が,理不尽なことなのかは,それぞれの人生経験によって違うだろう.自分にはそう感じて,その場その場では,心を閉ざすことで独力で乗り切ってきたつもりだったけども,確かに,多くのオトナの支えがあってのことだ.

今思えば,どうしてそんなに親切にしてくれるんだろうという人,話を親身に聞いてくれて肩を押してくれる人,ただただ,その場を盛り上げ楽しい気分にさせてくれる人,色々だ.

遠足で母の同伴が求められれば隣に住むおばちゃんが付き添ってくれた.母の日に似顔絵を描くなんてイベントがあればまた別のおばちゃんを描く.遠足や何かのイベントで給食が出ない時に個人的に弁当を作ってくれた先生は一人二人ではないし,家族旅行に私を連れて行ってくれた友人の家族がいくつもあった.

しかし,心を閉ざしたせいと言っては単なる言い訳にすぎないかもしれないが,それらの助けを何とも思わなかった.視野が狭かったんだろう.小学生も高学年になると,そういう目で見るなよと不満だったし,むしろ,当時に,二分の一成人式なんてのがあって,父にも産んでくれた母にも感謝しましょうと強制されたら,ブチ切れていたに違いない.

今時の小学校で,そういう家族の形もあるということが配慮されているのか大変心配であるが,教員の配慮はあったとしても,あそこの家庭は・・・と他のお母さん方が噂するのを耳にすると,何も変わってないのかもしれない.想像力の欠如と言うのは簡単だが,世間は厳しいということか.

今の時代は,自己責任論がはびこり,弱者に優しくない世の中になっている.幼い頃から,機会の平等が意識され,自己肯定感が高まるよう,褒めておだてる教育が主流で,誰でもやり甲斐を持たなくてはいけないと思い込まされて,自分探しに取り憑かれるも,そんなの見つからないのがフツウである.そうして社会に放り出されて,自己責任ではあまりに酷ではないか.

やり甲斐なんて無くても生きていけるし,食っていけるだけの稼ぎがあることは必須だが,あとは好きなことしてればいいでしょ.好きなことを仕事に出来れば,幸せかもしれないけど,どちらかと言えば,苦労なく出来ることを仕事にすればいい.

人生の多様性について知ること無く大学にまで来ると,少し道を外しただけで,絶望感に襲われるかもしれない.順調に進んでも,親類や身近な人との絡みで,不条理に遭遇することもあるだろう.初めての経験なら無理はない.

そんな時にも,周りには誰か助けてくれる人が居るものだ.もう生きている価値がないのでは,と感じるような状況も,実は,同じ経験をしたオトナが何処かに居る.何かを諦めなければならない時に,それを受け入れるのに時間が必要な時もあるが,その先にはまた別の道がかならずある.

自分は教育者としては,短期的な目標を着実に達成し,成功体験を積み重ねることで,生き延びるためのスキルを磨いてもらえるよう,効率を極限まで高め,集中して結果を出せるよう厳しめな指導を行っているつもりだ.

でも,同時に,生きるためには無駄も必要で,世界観を広げていく重要性も強調している.若者はやりたいようにやればいい.誰かの敷いたレールに乗って生きられれば幸せかもしれないが,もうそれは特権階級にしか乗れない切符が必要な気がする.当然ながら幸せのカタチはそれだけではない.色々な人生があることを知って,苦労はできるだけ遠ざけ,楽しく生きる術を身につけてほしい.

テレビやネットのニュースを見て,誰が離婚した,子供が置き去りにされた,なんて話を聞けば,他人事とは思えず,もういい歳になったのに,昔のことが思い出される.でも,それは自分の気持ちの問題であろう.忘れはしないだろうけども,今回の経験をひとつの区切りとして,もう,親との関わりについて,あれこれ悩むのは終わりとしたい.48年で思い出として固定されるのなら,それはそれで,幸せなことだと思う.

しばらく続いたこの葛藤を克服するのに,多くの人に助けられた.研究室の学生達は,何の理由もなく唐突に誘われて,よくあれだけ付き合ってくれると思う.この春に卒業した男は,3年間,研究に飲みに,最後まで音を上げることなく,最高のパフォーマンスで応えてくれた.現役学生もしかり.

他にも多くの学生達が声をかけてくれた.この2年,何度も夜の街に繰り出し,ススキノで解散して帰宅したら朝の8時だったこともあるような付き合いの男の一人が,体調をひどく崩したらしく,心配している.能力の高い人間的にも面白い男だ.早期の回復を信じている.

大学の同僚達も,あれこれうるさい男に,付き合ってくれることに感謝しかない.東京に行けば急に呼び出されても出てきてくれる人々がいる.

ここまで読んでくれた人は,よく知っている人かもしれないし,話をしたこともない人かもしれない.それでも,何らかのきっかけがあって,このページを開いたはずだから,何かの縁があるんだろう.いずれにしろ,有難いことに違いない.

よほどのことがない限り,もうこんな長文を書くことはないだろう.それでも日々気がついたことがあれば,書き綴っていこうと思う.

最後に,両親の結婚20周年を盛大に祝ってくれるようなできる娘と,離れ離れの家族の暮らしを懸命に支えてくれている妻に,素直にありがとうと言いたい.

明日,死んでもいいような文章になってきたが,これから応用数学と電磁気学の演習問題を考えて,関係者に迷惑をかけぬよう,このゴールデンウィークで立て直すつもりだ.早く,何でもないようなことが幸せに思える,日常に戻りたい.そして菊次郎ではないが,自分の境遇のこともたまには振り返りつつ,悩める若者にいい加減なことを言いながら励ます酔っぱらいで居続けることで,世の中へのこれまでの恩返しになればいいのだが.

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