うつろいゆく思考

スローペースながら,不定期に更新中.学生のための情報発信を目的として始めたつもりが,近況報告に成り下がっている.友人が,読んでいることを伝えてくれるのは有難いのだが,お前の文章は長すぎると言われた.同意するしかない.


2012年4月

震災から1年.いつまでこんな書き出しで始めることになるのかわからないけれども,自分の無知さを棚に上げるとして,震災と関わりある情報に驚かされるようなことが続く限り,変わらない気がする.その中でも気になるのは,原発の使用済み燃料プールの存在だ.余震が起きるたびに心配になる.ごく最近も,東京出張中,深夜に緊急地震速報で携帯電話が鳴り,かなり焦った.冷静に考えればわかることだったが,使用済み燃料は再処理を前提に,原発とは別の安全な場所に保管されているものと勝手に思い込んでいた.それがあの事故でぼろぼろになった建屋にあると聞いて,不安にならない人はどれぐらい居るのだろう.

不安になったとして,どう行動すべきか?安全性を検証出来る能力が自らにあれば,自分自身の判断に忠実であればよい.そうでなければ,判断に必要な情報を集める必要がある.基本情報は政府,あるいは,電力会社の公式発表であろうが,今回の事故では,「実はメルトダウンしてました」という信用を失う決定的な嘘が発覚し,いまさらながら,庶民は政治になど関心を持たずとも自分の身の回りのことだけを考えていれば良いという社会ではないことを自覚した方がよい.もっと悲観的にいえば,お上の言うことなど信用せず,自分の身は自分で守るしかないということか.

実際,原発事故直後から,外国人の多くが日本から脱出した.各国政府の安全よりな対応もあったのだろうが,ネットで見られる記事に散見された彼らの「政府の言うことを信じているのか?」という趣旨のコメントが,今となっては身に染みる.東京に居る私の知人でも,しばらく西の方に脱出したのは数人に留まらない.自分は確か3月16日から上京していたはずだが,そのときテレビでヘリコプターからの放水を見て暗澹たる気持ちになった時,東京をしばらく離れる決断をしたという話をしてくれた友人も居る.

ここでは,緊急時にどう対応すべきかという話をするつもりはないので,この話題は適当ではなかったかもしれないが,自分がどういう対応をしたかと言えば,たまたま,重要な仕事があったんだけれども上京した.その時の東京を見てみたかったというのが正直な気持ちである.実際どうだったかを1年前の文章に記述したので,ここでは繰り返さないが,自分はそんな人間だ.よく言えば,楽観的.悪く言えば,能天気.

それでも,信頼に足る判断材料があれば別だ.関連した話題で言えば,例えば,放射線被曝の問題.もともとの放射線管理区域とはどのような基準で定められたのかということがまず気になるんだけれども,この際それは無視して,空間放射線量や食物の汚染度に関するデータがたくさん存在するようになったのはいいことで,個人個人で基準を決めて判断できるレベルになってきた.

過去の事例から一度にたくさんの放射線を浴びれば害があることは分かっているが,低線量で長時間被爆した場合の影響はよくわかっていない.それでも,より慎重に危険を過大評価しておいて,総被曝量が同じなら影響は同じとしてしまい,過去のデータからある線量までの影響が分かっている時,それ以下の被曝をどう解釈するかが問題になっている.

私のよく知る,ある,非線形問題の専門家は,放射性元素が崩壊し高エネルギーの粒子が放出されそれが細胞を傷つけることで問題が発生する,というモデルを考えると,生命には自己修復機能があるのでそれを取り入れた時間発展方程式を考えれば,影響を及ぼすには一定の閾値があるとするモデルが妥当だろうと主張していた.酒の席だったこともあるかもしれないが,妙に納得してしまった.

それを信じるかどうかは見解が分かれるだろうが,いわゆる,線形に外挿する近似が過大評価になることは予想出来るし,もっと大きめに,その下限以下は同じ影響としてしまうのが,最も影響を大きく見積もったということになる.一度,総被曝量と,例えば,それが原因で死ぬ,あるいは,癌になる確率などが関数として与えられれば,それをどう受け止め,どのように行動するべきか,という問題になる.

ところが,この確率というのは,誰もが口にできる言葉ではあるが,概念として生活に根ざしているとは言い難い.最近,平均値の定義を理解できていない大学生が少なくないという調査結果が話題になったが,統計力学を教えていると,問い方が複雑になっていることを差し引いても,根本は似たような状況である気がする.

五分五分の確率という状況では様々な条件があれば,それに応じた最適化戦略があり得るが,ここでは,小さな確率で生じる稀なイベントを考える.そのイベントを評価する変数があって,その値がXとなる確率をP(X)とすると,その積を取り,Xの全ての取り得る値についての総和が期待値である.影響の大きさと確率を考慮した量で,これを元にそのイベントの重要性を判断するのは合理的なやり方だろう..

この観点から考えれば,宝くじを買うの損であるという結論になる.もちろん,買う人を擁護するとすれば,販売額全体と比較して自分で購入する量が十分小額であれば,大きな利益が得られる確率は小さいながらもゼロでないわけで,それに賭けてみるというのは個人の自由である.しかし,多くの人にアドバイスする立場の人間なら,手持ち資金を増やしたいならギャンブルなど期待値が負となるようなことには関わるなと言わなければ,平均的には,信用を失うことになるだろう.

儲けようという話ではなく,事故に遭うことを想定するとどうなるか.例えば,損害保険や医療保険,生命保険に加入することの意味を考える.金銭の動きだけを見れば,宝くじと同様に必ず期待値は負で,胴元が儲かる仕組みになっている.ということは,納める保険料をこつこつと積み立てる方がいいような気がする.もちろん,こちらは保険をかけなければ,一定の確率で損害を被るゲームに強制参加させられているようなものだから,一攫千金を狙う話とは区別する必要があろう.

宝くじを定期的に購入している人と保険に加入している人を比較すると,少なくとも私の周りでは,保険加入者の方が圧倒的に多い.聞いた所によると,掛け捨てタイプなら原価は半分ぐらいで,宝くじと期待値は変わらないはず.貯蓄性のある商品はもっと高いだろうが8割は超えないだろう.2割も手数料を取る投資なんてありえないので,それは無意味だ.株や投資信託を買った方がいい.結局,快楽を求めるよりは,苦痛を減らす方にコストを掛けたいということか.蓄えのない若いうちは家計を支える者の義務として,というような勧誘を受けたこともあるが,平均的なリスクとしては,世帯主に死なれるより離婚して子供を育てなければならなくなるリスクの方が圧倒的に大きい気がする.それをリスクと呼ぶのは不適切かもしれないが.

話がそれてきたが,言いたいことは,確率的な事象があって,それにどう対処するかは個人の責任というか自由だということ.周りにとやかく言われる筋合いはないし,自分の判断を他人に押し付ける必然性もどこにも無い.もちろん,期待値が負のイベントに積極的に参加することはしたくないが,福島事故以後の日本は放射性物質がまき散らされ,今現在も放出が続いていて,融け落ちた核燃料を取り出そうにも近寄ることさえ出来ない,という状態で,被曝を意識せず生きることは不可能だ.もう,国民がそのようなイベントに強制参加させられたと言えよう.

もちろん,本質的にはその確率を正しく見積もることが重要であり,それは大変難しい.一年が経過して,多くの人々の努力により,空間線量については信頼に値する測定がなされているし,食べ物についても測定が強化されていて,個人でもある程度リスク判断が出来るようになってきている.データを提供してくれる人々には本当に頭が下がる.政府としては,1億2000万というサンプルの平均値で考える必要があり,コストを考慮して,その他のリスクと比較して無視できると発表するしかないだろう.それで気にならない人はそれでいいし,個人としては他のリスクに埋もれるような小さな確率でも,気にする人は,データさえあれば,それを下げるよう行動することが出来る.

そもそも,一番心配なのは原発の作業員であり,福島から逃げ出したいと思ってもそれが叶わない人々だ.東京近辺のホットスポットと呼ばれる地域では,子供のことが心配な人は少なくないだろう.若者が,もう子供は生めないな,などと発言するのを聞くと,こちらからはどう話かけていいかわからない.誤解があればそれを解くべきだけろうけれども,自分で危ないと判断した評価にしたがって行動する事を誰も止められないし,安全とも危険とも言い難い状況では,何を持ってよしとするかは個人の判断に委ねるしかない.

それを人に推奨するわけでは決してないが,自分は小さな確率で起こるレアイベントに悩まされながら過ごすのは辛いだけだと思う.それが本当に小さな確率でしか起きないというなら,それが私自身だけの問題にとどまることであるならば,例え,大きな問題でも無視して生きていきたいと思う.引き当ててしまったら,運が悪いと諦める.古い話で,しかし,今もその危険性に変化はないはずだが,BSEが問題になった時,牛肉の輸入を規制し,イギリスに滞在歴のある人間からの献血まで制限した騒ぎの中でも,ヤコブ病による死亡者が100人のオーダーであると知ってからは,全く躊躇せず,イギリスでも牛肉を食べた.最近では,ユッケによる食中毒問題があったが,牛トロ丼を食べ続けた.北大生協食堂のメニューから消えたのは本当に寂しく思う.

レアイベントを心配して生きるのは嫌だけれども,ほんの小さな心がけでその確率を小さく出来るのなら,そうすることに抵抗がある訳ではない.震災直後に東京のある友人が,札幌で売られている缶ビールの固有製造番号を調べてほしいという.あの時から,水にストロンチウムとか混入してたら怖いでしょう,と言っていて感心した.札幌に居る時にクラッシックがあればそれを頼むのは,その影響が大きい.

それはほとんど話のネタであって,自分は放射線被曝よりアルコールで肝臓を悪くするリスクを気にするべきである.そういう文脈ではなかったが,最近の飲み会である人が,自分はもういつ死んでもいいと発言した.両親は他界,子供も居ない.絶望ということではなさそうだが,冗談という感じでもない.それでも,普段の粛々と仕事をこなされ,きめ細かな配慮のある様子から,人生で色々なことを経験し考えた結果なんだろうと想像する.

そう感じるのは,震災は被災地に行くこともなくテレビで見ただけだけれども,それでも身近な所で色々なことが起きて,自分なりに考えたなかで,似たようなことを思ったからだ.人生の何分の一かの長い期間,悩まされてきた私的な問題に一定の解決をみて,10年一区切りと思ってやってきた北大から移動するいいタイミングだと捉えて公募に本格的に応募し始めようと思った矢先,あの震災が起きた.心に余裕ができて,新しいことを始めようという気持ちが生まれていたのに,ぽっかり穴があいたままという感じ.

この一年,仕事は何かと忙しく,それをこなすのに精一杯だった.余裕がなくて,メールに返信しないことがあっても,重要な連絡なら催促があるだろうと,気にならなくなった.失敗も数知れず,その中でも,海外出張に行くのにパスポートを持ち忘れるという失態をおかした時にはさすがにへこんだ.東京出張が続いて,札幌に戻った翌々日の出発で成田でなく新千歳発の直行便だったことで,国内線の感覚に陥っていたという言い訳もむなしいだけだが,妻の助けで奇跡的に予定の便にぎりぎり搭乗できた.帰りの空港の免税店で土産を奮発したのは言うまでもない.

それぐらい,ぼんやりしていたんだけれども,正直,厄年のせいということでうやむやにして前を向こうとしても,肩の荷を一つおろしたはずなのに,この先に何をしたらいいのかということがさっぱり浮かんで来なかった.ネガティブな感情はなかったが,やる気が出ない.顔が汚れて力が出なくなったアンパンマンならジャムおじさんが新しい顔を焼いてくれて力がでるんだけれども,人間は頭を付け替えるわけにはいかない.力が出ない,というとなぜかその絵本のページが頭に浮かんでくる.

そんな時に支えになるのは人である.

まず,家族.こんな場で述べることではないが,妻とは結婚前は多くの面で意見が食い違い酒の席で叫び合いになることもしばしばあったものの,それで,お互いの考え方や価値観がよくわかり,むしろ,大事な部分で一致していることで,支えあう同士といった感覚.乱れた生活リズムで昔はよく体調を崩したが,自分では衣食住のことを全く気にしなくなり彼女に任せることで,体質も改善し,医者にかかることはほとんどなくなった.本当に感謝している.

小5の一人娘は自分に似て言葉にいちいち刺がある.母と娘の会話は,女と女の言い争いのように聞こえる時もある.苦労しているに違いない.それでも,この一年は,やる気が出ないせいで,娘が起きている時間に家に帰ることが増えて,勉強を教えるようになり,娘は本当は嫌がっているようだが,算数と理科はそこそこできるようになってきた.子供の成長は,想像以上に早く,頼もしい.自分はどうなってもいいと思っても,そういう家族は大切にしたい.幼い子供を,出来る限り,無用な危険から遠ざけたいと思うのは,親にとっては当然だが,子供の頃には理解出来なかった感情である.お親の心子知らずとはこういうことで,子育てで成長するのは子供だけではない.

研究室のメンバーもしかり.この春に修了した学生は,卒論で行った研究をいくつかの国内会議と国際会議で発表した.普通の研究室ならそれを発展した形で,修士論文にまとめるであろう所を,そのテーマはもうやることがないから別のテーマをやれと,いくつかの実験グループで異なる結果を出し,論争となっているテーマについて,物性論の王道である,伝統的多体問題の手法を適用し,決着を付けることを目指した.半年後に結果をまとめ学会発表したのだが,それでは近似が不十分なのでより高次の近似で計算をやり直した.結局,最終目標には到達せず,特別な場合で修士論文をまとめたが,本当に良くやった.ある義務を果たすために,邦に帰ったが,将来は立派な研究者になると期待している.できれば,また一緒に研究できればいいと思う.

そのまた後輩も優秀で,研究室の他のメンバーとは一人違うテーマで細かい部分は頼る人がいなくて苦労したに違いないが,やはり,卒業研究で得た結果を国際会議で発表した.自分は都合が付けられないこともなかったものの,めげて行かなかったのだが,初めての海外で,国内での学会発表も未経験だったにもかかわらず,立派に発表をこなしたようだ.研究室に配属された時は,どちらかというと,内向きで,セミナー発表でも独断に陥ることが少なくなく,心配したのだが,研究を自分で進めるうちに,多方面で能力を発揮している.学会発表のための研究に追われる合間に,先輩の送別会を一人切り盛りし,盛り上げている姿は頼もしかった.博士過程への進学も考慮しているということだったので期待していたが,就職する決断をしたとのこと.しかし,海外インターンシップに行くと前向きな行動力をみせ,彼も未来の日本の技術を支える一角の人物になるだろう.

博士研究員の方も,私のいい加減な指示を丁寧に汲み取り,着実に結果を出し続けている.任務だから当然とは言え,研究テーマがかなり進んでしまったところからの出発で,かなり,複雑な計算の連続だが,膨大な結果が積上っている.あとは,それを論文にまとめていけばいいだけだ.しかし,私に似て,なかなか,まとめられないのは,彼の大きな課題だ.やはり,パーマネントポストを得る前には出版しないと.私だって,少ないけど,厳選して書きましたよ.Publish, or perish. きちんとした人だから,必ずやってくれると信じている.

昨年の秋には修士を中退して就職した学生が居た.卒論が終わってすぐに体調を崩し,半年休学したものの,就職活動を始め,学部の時から希望していた就職先に内定をもらい,中途採用枠で会社に入っていった.はっきりいって,成績は良くなかったし,飲み込みも早い方ではなく,何でもいったん間違った方向に行ってしまうような不器用な男だったが,几帳面で馬力があり,研究ではきちんと作業内容を確認しながら確実に結果を出した,行動力もあり,全幅の信頼をおいて,色々な仕事を頼めて,最後には,就職を決めていたにもかかわらず,研究室の引越計画の立ち上げを担ってくれて本当に助けられた.彼とは研究室メンバーとの飲み会以外にも2人でよく飲みに行ったが,今は彼のような酒好きが居なくなってしまって,少々,寂しい.

研究室の秘書さんは,私専任では決してないんだが,きっと,自分が頼む仕事が一番多いに違いない.昔は,人に頼むぐらいなら自分でやった方が早いと思っていたのが,人にできる仕事はなるべく回して,自分のやるべきことを見失ってはいけないと偉い先生に助言を受けてから,そう努力しているうちに,実は,自分にしかできない部分が律速になっているがために,結局はほとんど全ての部分を任せた方が早く仕事が終わるという事実に気がつき,今は,出来る限り,お願いするようにしている.もはや彼女抜きで仕事は回らない.私が北大に居る間はなんとしても,働き続けてもらいたいが,アルバイトの事務職員を長期に雇用することは難しくなっているので,対策が必要だ.

同僚の先生方にもいろいろな面で助けられた.気分的に腐っていると,タイミングよく,飲み会に誘ってくれて,みんな話が面白い.そういう人々は若い人も年配の人も,教育熱心で,酔っぱらっても,講義・演習・実験をどうするかとか,仕事しない人をどうしたらいいかとか,延々と議論は続く.こちらは飲み始めると止まらないから,最後まで付き合うというか,自ら次の店にと言い出すものの,決まって,最後は店で熟睡.時々,目覚めて,ある先生が仕事に熱心すぎて奥様に怒られている話などを聞くと,微笑ましく思いつつ,皆が帰る時間まで眠っている,というのがよくあるパターン.

とある研究プロジェクトの偉い先生方はちっとも研究の進まない自分によく付き合ってくれると思う.頻繁に議論の機会を作ってくれて,最新の話題を提供してくれるし,こちらのつたない話も聞いてもらえる.大きなグラントをいかに獲得するかも常に意識し,議論を重ねていて,そういう部分では何も貢献出来ておらず,コメントひとつ言えない自分が情けない.彼らと付き合うと思うのは,研究者は体力勝負である,昼間は議論に集中,夜はよく飲みよく食べる.それで,朝は早起きときて,超人的.世界的に活躍されている方々だから当然なのかもしれないが,一緒に過ごすとやる気が出てきて,本当に有り難い.

人を持ち上げて何かを得ようなどということではなく,こういう人々と接しているとやる気も出てくるという話.少なくとも,自分では何もする気にならなくても,アンパンマンではないが,不思議と,人のためならやる気が出る.いや,彼らがやる気にさせてくれるというべきか.ようやくここまで昇華できた.何を目標にすべきか,まずは,何はともあれ次のポジションを得ることだな.

毎度のごとく,前置きが長く,支離滅裂になってきた.新年度研究室配属される学生へのメッセージを書こうと思うのだが,それでけでは味気ないので,我々の日常を垣間みつつ,どのような生活になるかを想像してほしいと願って,つい,文章が長くなる.言いたかったことは,行きたい研究室を決める前に,必ず,相談に行けということ.最近は,多くの情報がネットから得られる.

まずは,研究室ホームページだろう.更新が順調になされている所は,学生に見られているということを意識しているということだ.なされていないところは,何らかの理由で,その余裕がないと考えてよい.それらが学生にとって何を意味するかはケースバイケースだ.

研究業績は大学のデータベースから検索できる.大学内にいれば,Web of Scienceのデータベースが使えるし,Google Scholar で調べても充分だろう.何をやりたいかは研究のモチベーションを保つのに重要なので,希望があるなら,それに合致する研究室を選ぶべきだ.

以上は,言ってみれば,過去の統計データのようなものだ.それで自分の希望とどの程度合致するか,ある程度,確率,あるいは,期待値が見積もれる.しかし,平均値が有効な意味をもつほどデータの量は多くない.ホームページに不都合な事を書くはずもなく,重要な情報が欠落しているという意味で,騙されたということになりかねない可能性もある.例えば,過去に先輩がこういう企業に就職した,というようなデータは,教員がコネを持っている場合を除いて,ほとんど無意味である.個人的な努力でほぼ決まると考えてよく,どこの研究室に所属しているかは無関係だ.もちろん,そこで何が得られるかということまで考慮すれば大きく異なるが,今は,履歴書上の所属の話.

教育や研究は,個人的素養に強く依存している.いつも言うことだが,必ず,教員の話を直接聞き,学生の話も聞き,できれば,他の研究室の先生や学生の話も聞いた方がよい.短くない期間を過ごす場所なので,雰囲気も重要である.

また,多くの学生に足りないと思われるのは,学部,あるいは,大学院を卒業して,別の社会に出るとき,自分が新4年生の時点で想像しているような所に進むには,今と比べて飛躍的に成長していなければ,それは叶わないということを意識することだ.なので,自分が成長できそうな研究室をうまく選ばなければならない.多くの学生はきちんと育っていくが,甘く考えてか,変わらない学生の進学・就職活動は大変厳しいものになる.

その変わるきっかけは,やはり,人だ.どのような分野でも一流の人はそう呼ばれるだけの能力を持ち,人に与える影響も大きい.この人の様になりたいと感じるような出会いがあると,それが人生を変える大きなきっかけになりうる.それぐらいの衝撃を受けないと,人生なかなか変えられないとも言える.

狭い意味の研究者になろうとしたら,今度はその先生より先に結果を出さなければならない.そうなると,このひとと同じ事をやっていてはその分野で一番にはなれないと気がついて,別の道に進むことになる.そういう意味で,早い段階から世界レベルの巨人を見ておく必要がある.

研究とは始めたらそのことに関しては一番でなければ論文は書けないので,テーマ選びは難しい.同じ問題を同時に始めたら頭のいい人が先に解いてしまうので,上で述べたようなことになるのだが,現実には頭のいい人は,さっと考えて,これは出来ない,意味がないと決めつけてしまう傾向があるのに対して,そうでない人はなかなかそれに気がつかず,一つの問題にこだわって考えているうちに,新しい事実に気がつくというのは.レアイベントだが,ありうる.それは注目されている分野での話で,かき分けていけば,決して,そのようなことは珍しいことではない.

ただ,何が重要か,という価値判断は,一流であるか,少なくとも,自分で決断できる人と一緒に過ごさなければ,養うのは難しい.ある人に下らないといわれても,世界のどこかで面白いと思う人が居ればい.研究者の中にも自分で価値判断ができない人は実は少なくない.価値判断能力さえ養われれば,研究のきっかけはつかめるようになる.学部の頃は頭がよかったのに,価値判断能力を形成できず,大学院に進学してもお勉強だけにとどまり,普通の人になってしまうことは珍しくない.逆に,コツコツと努力を積み重ね,着実に能力を身につけ,価値判断を養うことで,飛躍する学生はたくさんいる.

どのような人と接するかが重要であるということを注意喚起しておきたい.

今年の新4年生は,かなり早い段階から話を聞きに来ているので,頼もしい限りだが,迷っている学生もいるだろうし,どうも,個別に研究室紹介を開催しないのはウチのグループだけなんではという状況になりつつある.このサイトをきちんと更新していればそれで十分と思っていたが,それもままならなくなって来たので,最低限の情報をここで公開しておく.ここまで辿り着いた学生は,かなり興味があるのだろうから,熟読してよく考えること.

以下は今年度の学生向け案内事項:

・卒業論文のテーマは,特に希望がなければ,グラフェンかカーボンナノチューブの光学応答,あるいは,電気伝導.もちろん,希望があれば,それに応じて考える.

・夏までは,週に一回,4年生個人向けの本読み輪講を行い,毎週発表してもらう.

・週に一回,グループミーティング.

・二週に一回程度,研究室セミナー.メンバーの誰かが,論文紹介,自分の研究成果などを説明する.

・今年度のメンバーはPDが1名,M2が1名のみ.この二人もどれぐらい大学に居られるかは微妙.PDの方は少なくとも夏まではいらっしゃると思う.長くても来年3月まで.M2の学生は,海外インターンシップ参加を希望しているので,短ければ3ヶ月,長ければ半年程度,大学には来られない.

・今年度終了の研究プロジェクトがあり,鈴浦は出張で不在にすることが多い.

・卒業して出て行く,修士までは行く,博士まで行く,どういう希望でも構わないが,卒業論文の結果は学術論文として発表できるレベルの内容となるように努力してもらう.

今のところ,思い付く注意事項はこの程度か.勉強ではなく,研究がしたい人が望ましい.研究には勉強が必要なので,勉強は欠かせないが,研究と無関係な勉強をする余裕はなかなか取れなくなるだろう.

どういう人がいいのか,これまでの学生から平均像を求めることは出来ないけれども,ハッピーに卒業した学生を思い出すと,全体のGPAはどうでもよくて,私の教えた科目で優秀な成績を収めていることと強い相関があるのように,こちらには,思える.講義には教員の思想が色濃く反映されるので,それがうまく伝われば,コミュニケーションがうまく行くということで,ここだけの話ではなく,一般的に言える話ではなかろうか.もちろん,全体のGPAが良いに越したことはない.

自分の事を思い出せば,卒論の時も,大学院の時も,おもしろそうな事をやっていて,話が分かりやすそうな若い先生を選んだ,自分は,その時の先生方の10以上も歳上になっていると思うと,信じ難いが,それが現実だ.世代間ギャップを埋めるのは難しいかもしれないが,こちらも,精一杯努力する.それでも,教授・准教授の中では私がまだ一番若いはず.教員の高年齢化は専攻としてはまずい状況だ.

やる気のある学生が来てくれることを祈る.

質問があれば鈴浦まで直接お尋ねを.


2011年9月

前の写真は,ある名簿に掲載したら,ホームレスのようだと不評を買った.確かに,半年の間,散髪に行かなかったら,ああなった.下の写真は,別なところに送ったもの.


あの地震から半年が過ぎた.そのおかげで延期した大きなイベントを,予定通り東京で,開催することが出来て,本当に,ほっとしている.真に被災された方々と比較するには全く及ばないけれども,自分の身の回りにもそれなりの影響があり,ものの見方や考え方も変わった気がする.

そのイベントで講演をお願いした先生と懇親会で話をしていて,この震災,特に,原発事故で,社会における学者の評価は地に落ちたとおっしゃったのには,少々驚いたものの,その方を悪く言う人に会ったことがないことを思い出せば,当然の発言と捉えるべきなのかもしれない.お上の御用聞きとならず,持てる知恵と力を,直面した問題の解決や,将来を見越した科学技術政策への貢献などに,我々のように科学技術に携わる学者が,もっと積極的に発言して,関わっていかなければならないと熱く語っていらっしゃったのが印象的で,私もそれに強く同意した.まあ,霞ヶ関から遠く離れた地方大学に勤めているから言えるのかもしれないが,と謙遜されていたけれども,こういう人をそれなりの組織の長に据えて,その人の考えにより適切な人材を集められる政治が行われれば,もう少し,世の中も変わるのではないかと思えてならない.

もちろん,研究者の中には自ら厳しい現場に立ち向かい被害状況を明らかにして住民にそれを伝えつづけたような偉い人もいるし,物理学者の中にも,いわゆる信頼に足る根拠を示さず安全だと言い続けた御用学者と一線を画し,様々なデータを基にして,個人個人が適切に恐れることの重要性を説いている方などがいて,本当に頭が下がる思いだ.先のイベント後の飲み会で,その方面で活躍されている方とお会いして,詳しく話は聞けなかったけれども,いわゆる,ホットスポットと呼ばれる場所での生活はいかがですかと尋ねると,翌日に子供さんの学校の除洗作業を手伝うことになっているとのこと.有言実行で,淡々と対応されていることに,その人の研究者としての素晴らしさは私が言うまでもないのだが,人としての力強さというか,言葉にうまく表現できないんだけれども,見習わねばと素直に思った.

ところで,このページが何のためにあるかを忘れたかのような話題が増えている気もするが,本来の目的は,研究室配属前の学生に,我々のグループに所属したらどんな生活を送ることになるか,想像できるように,情報を与えるのが第一である.特に,指導教員との関係は,研究室生活に大きな影響を及ぼすことは明らかであり,事前に私の考え方を知ってもらうのが必須だと考えて,よい意味でも悪い意味でも気にかかることを,その時その時で,まとめている.だから,時には公表するには不適切かもと思いながらも,そういう現実があることは知ってもらいたいと考えて書いているつもりだった.

ところが,とある西の方の偉い先生にお会いした際に,世界中に向けて泣き言を表明してどうする,とご注意をいただいた.誰が見ているか分からんのだから気をつけろ,とのアドバイスだった.思わぬところから指摘を受け,確かに,どこかで波風を立てるような事があるかもしれぬと,削除しようかと,一瞬,考えた.そういえば,「即答するバカ」というタイトルを目にして,つい手に取った新書がある.結局,読んではいないけれども,発言する前によく考えろということなんだろう.思いつくままにくだらない話を書き連ねてしまうのは,まさに,考えが浅はかなのかもしれない.指摘を受けた事で自分の愚かさに気がつくべきなんだろうけども,それを棚に上げ,逆の立場から,最近の若者たちの発信に思うことを述べてみよう.

ツイッター上で大学生のカンニングや,犯罪行為などのつぶやきが話題になったが,それに近い事は,大学院生レベルでも起こっている.とある研究室のメンバーがツイッターでやり取りしていて,学会に参加するのに,どこに観光に行くかで旅程が変わる,交渉次第で旅費がどれだけ・・・などと堂々とつぶやいている.これが公になったら,通報されたらというべきか,その研究室の教授は科研費返上で,申請もできなくなるだろう.別の話で,教員が学生に仕事を依頼して,教員側は,快く引き受けてくれたと思っている仕事について,学生の方は,こんなのやってらんねえから適当にサボる,なんていうのもある.どちらも,税金から支給されているという感覚が明らかに欠落してる.もちろん,学会でもきちんと目的はこなして,空き時間があれば,どこかに出かける事もあるだろうし,大学からの謝金ではあるけれども,アルバイトとして,与えられた仕事がきっちりなされれば,暇になる時間あがってもいいだろう.それでも,説明責任が果たせるか,ということは常に意識しなければならない.そういう教育が欠落しているのは事実で,何らかの対策が必要なんだろう.自分も,押し付けたつもりは全くない仕事で似たようなことがあり,正直,へこんだ.どうしてかなあと思いつつ忘却の彼方に消えていたが,自分の認識が甘かった事に,最近,ようやく気がついてきた.

テレビであのHarvard白熱教室の二番煎じか,もっと西の方の大学のMBEコースの授業を放映していたのを見たら,学生にカードゲームをさせて,ゲーム理論とか戦略の立て方について学ばせるというような話で,こんなものを有り難がって留学するのかと呆れてしまった.そんなことは,子供の頃からカードゲームや麻雀,花札でもいいし,賭け事に繋がるのが問題というなら,人生ゲームやモノポリーでもいいし,もちろん,将棋や囲碁といった,より本格的ゲームなら,より高度な戦略が学べるかもしれない.経済現象関連重視なら,プレイヤーは複数なのがいいのかもしれないけども,あの程度の事は,そういう経験を積み重ねれば,感覚として習得できるだろうと思ったのは,私の理解が浅いせいだろうか.実際は,MBA取得のために留学することの意味は学位そのものではなく,そのときにできた人脈にあるという話なので,そんなことはどうでもいいのかもしれない.

それでふと,Harvardのビジネススクールの講師陣が書いた「Remember Who You Are」という本を読んだことを思いだし,引っ張りだしてきて,読み返してみた.初回は,なんか当たり前の事を言ってるだけだなあという感想だった.今回も同様な感覚で読み進めると,その中のひとつ「A Bad Meal, and the Truth」に,あっ,と思うところがあった.著者が会社のある部署の偉い立場に異動してすぐ,内部で競合すると思われる,ここ,と,そこ,に二カ所支所があるのはどうしてかと部下に「質問」しただけのつもりが,回答があったときには片方を閉鎖する形でそれらを統合したと,「命令」に答える形になっていた,という内容で始まる文章で,要は,自分の身分に応じた言葉の重みがあるので,リーダーはそれを意識しなくてはならないという話だった.学生にとっては自分もそれなりの重みのある存在に成り得ることを認識すべきだったということだろう.今では,自分が学生の頃の指導教官よりも随分と歳を取った訳だし.

自分が,一般社会と異なる常識で生きているということなのか,年相応に成長していないのか,何だろう.こちらは,大人としてのルールが守られるのは前提として,年齢に関係なく言うべきことは言うというスタンスなので,年配の方々には煙たがられているかもしれないが,若者には何かを頼んでも,嫌だったら断れるようにと気を使ってきたつもりだった.それでも,嫌々引き受けたのは,私からのプレッシャーがきつくて断れなかったのか,嫌な仕事でも引き受けたほうが得になると思ったのか,単に,その人の個性によるものなのか,理由は分からないけれども,笑顔で引き受けて,その裏側では正反対のことを考えているような人生を送っているのだとしたら,私だったらやってられないが,単にそれは私の図々しさからくるのだろうか.

世の中の多くの仕事はそんなものなのかもしれないという気もする.でもそれは,「断らない人は、なぜか仕事がうまくいく」,「だれかを犠牲にする経済は、もういらない」という類いの経済書(?)から思い出される,面白さがわからなくてもしばらくは頑張ってみるのがいい,というような呪文じみた言葉が.就職活動などを意識する現代の若者達に浸透しているからなのではという気もしないでもない.よくわからないけれども,この人の言う事を聞いておけば間違いない,などという判断を推奨しているんであったら,それはどうかと思う.それを鵜呑みにして,仕事を引き受け続ければ,真面目な人間程,容量オーバーで鬱になること間違いなしだ.むしろ,上司は使えないと思った部下には冷たいもので,無理をして体調を崩しても,その代償は誰も支払ってくれないと思った方が良い.

何でも黙って引き受けやってみるのが良いという話は,与えられた指示がすべて妥当である事が前提にあるような気がする.それは実は,上に立つものが,自分の言うことを聞いておけば間違いないと主張しているだけではないだろうか.指示する側も人間なんで,いい加減な事もあるし,無意味な仕事を押し付ける事もありうるだろう.受け手側は,やはり,よく考えてから,行動を起こすべきで,最低限,自分がハッピーになるかという観点で,仕事を選んだ方がいい.頼まれた仕事に意味があるかどうかを判断するのは簡単なことではないかもしれないが,上に昇り詰めた人の成功話は,実は,その時の判断より運の良さの方が大事だったんではないかと感じることは少なくない.ケーススタディを積み重ねるのが大切なのは認めるけれども,特定のサクセスストーリーに傾倒するのはいかがなものか.

一般企業の正社員として働いたことはないんでわからないが,会社では文句一つ言わず,がむしゃらに働きつづける人間が重宝されるんだろうか.これをやると決めたら,集中して取り組むことの重要性はまたあとで述べるとして,大学教員と学生がどのような関係であるべきか,正解なんてないんだろうけど,会社の上司と部下の関係とは違うものだと思いたい.

教員と学生の関係と言えば,その入口は,講義だ.まだ私が学生の頃,ある先生が,学生が講義に飲み物を持ち込んで,授業中に飲んでいる事に信じられないと呆れていたときに,それぐらいいいじゃないかと反論したことがある.小型のペットボトルが今ほど出回っていなかったような時代なので,価値観が異なるのも当然だが,自分が授業をする立場になると,こちらが話している間にものを食べられるのは気になってしまうことに気がついた.後方に座る学生が授業と関係ない話をしてうるさければ大声で怒鳴りつけて追い出すようにしているが,携帯電話が鳴ったぐらいならその場で注意するのみで特におとがめはない.講義やセミナー中に携帯電話でメールを確認するなんて,昔はありえなかったわけだが,今はまったく普通の光景だ.気がそがれているのが明白で,それに伴ってこちらの集中力もそがれて,やる気を失いかけるけれども,それを止める手段は思いつかない.講義が始まってからでも前の扉から入室してきて教壇の前を平然と通過していく者にはさすがに注意するも,それが何回も続くと,学級崩壊の小学生並だと無力感に打ちひしがれる.

学生達がどのように認識しているか聞いてみたいが,多くの教員は,講義の準備には相当な労力を割いている.今時,たとえ,確立した学問であったとしても,5年,10年も全く同じ講義を続けているなんてことはないはずで,時代による学問の進化と学生のレベルに合わせて内容の選択には力が入る.自分の好みに関係なく,どうしても教えなければいけない内容もあるし,できるだけ,多くの人に理解してもらいたいと努力すればするほど,キリがなくなる.

それだけの力が入れば,こちらも気持ちよく講義をしたい.話を聴きたくない者は出てこなくていい.講義内容はウェブにアップするし,試験前にはどういう事を問うか公開するので,自力で試験対策がしっかりできれば授業に出る必要もなく,出席も取っていないのだから,貴重な時間を徒に過ごす事はないと思う.権利と義務のバランスをよく考えた上で,自分のやりたい事を優先すべきだ.幸い,最近は,そういうこちらの意志が通じているのか,不快にさせる行為はあまり見られず,こちらの準備さえしっかりできていれば,気分よく講義が出来ている.

それでも,アンケート結果は,学部全体でほぼ平均的な点数だ.こちらが気分よくできれば,それに伴って講義の進行に関わる部分の評価はアップするものの,理解度や達成度は低い方に偏りがちで,足を引っ張っている.難易度も高いと分類されがちだ.それは,自分の方針が,一つの事を詳しく説明するというより,出来るだけ,たくさんの話題に触れる事を重視しているからだと考えているが,多くの学生の理解レベルを越えた講義になってしまっているという現実を受け入れなければならないのかもしれない.

教育に関わる会議で,かなり丁寧に教えていると思われる方の,なるべく勉強せず楽して単位だけ取りたいという学生が増えてきてけしからんとご立腹した発言があり,複雑な気分になった.そうおっしゃった方は,学生の頃,真面目に講義に出席し,しっかり勉強されたに違いない.それに対してこちらは,教養時代は,出席を取る語学と体育実技だけは出るものの,聴いても理解できそうもない科目にははまともに出席しないし,たまに出て行けば,面子が4人集まると雀荘に向かったものだった.学部に進学してからも,1,2回出席して,この人の話を聴いても自分が得ることはないと判断すれば,出なくなることに全く躊躇はなかった.後に,研究者としての業績を知り,もっと真面目に聴いておけば良かったと思う先生も何人かいるが,その当時の自分にはそれを感じ取る力が無かったということだ..

ここで主張したいのは,だから,それでもいいじゃないか,ということでは決してない.自分が大学に入ってからしっかり理解したと言えそうなことといえば,数学と物理のごく狭い分野に限られ,研究を始めてから,本当に苦労した.今でも,物理学の基本的な部分に関して理解が浅く,力学や電磁気,熱力学の込み入った部分は教えられる自信がない.それが自分の実力なんだろうけれども,もっとしっかり勉強していればと後悔することは今でもあるし,今後もあるに違いない.学生に,自分の専門と関係のない,物理の初歩的な事を質問されても,まともに答えられないことの方が多い.だから,講義は真面目に出席して,頑張って勉強すべし,というのが,やはり,正しいと思う.

それでも,何でも真面目にできる学生ばかりではないことをこちらは理解しているつもりなので,講義の構成の仕方にそれが強く反映されている.できるだけ,各回でひとまとまりな話題となるよう心掛け,たとえ一回サボったとしても,その次に出たときには,休んだことで,全く分からなくなることのないよう,努力している.できるだけ話題を広く,かつ適度に重複させ,全部を理解できなくてもいい,と考えている.まずは,そんな話を聞いた事があるぐらいのレベルで記憶にとどめてもらって,そのうちの,何割かを,自分の論理で理解できるように努力すればいいというつもりで,評価も行っている.それでも単位が取れるのは平均的な出席者数程度に落ち着くのは不思議なことだが.

もちろん,全体として筋の通った話にして,しかも,理解してくれる人が誰もいないなんてことにはならないよう注意しているつもりなんで,よくわかったという人が多ければ,その方がいいに決まっているし,アンケートにわかりやすかったというコメントがあれば,これほど嬉しい事はなく,次も頑張ろうと励みになる.そういう人が研究室を志望してくれることを切望するが,今年は誰も私のグループに配属されなかった.それでも,これまで集まってくれた学生達は,研究内容というよりは,講義の取り組みやそれから伝わる思想から判断して来てくれたと信じているので,この方針を変えるつもりはない.

アンケート結果が良いという噂の先生たちの講義の様子を伝え聞くところによれば,それは自分には真似できそうにないので,今の評価に甘んじるしかないとして,このアンケート結果に意味はないと平然という先生方には考えさせられる.もちろん,内容が簡単で,無駄話が面白いような講義の評価が高くなる傾向にあり,内容が難しい講義を担当すれば低くなりがちなので,単純に点数で比較されたらたまらないというのは理解できる.しかし,点数が高いのは決して悪い事ではないはずだ.文句を言っている人々の講義に対する学生の評判を聞くと,学生が何を問題視しているか,教員側が把握していないように感じる.

昔から,教員が集まれば学生に対する愚痴が出てくるのはよくある事だが,ダメな行為を非難するのはあり得るとして,人間性を問題視するような発言を耳にするのは,気分のいい事ではない.それこそ,先ほどの話で,自分の立場をわきまえるべきで,強者が弱者を追いつめてどうする,ということなんだろうが,実は,教員側も追いつめられるような状況に陥っているのかもしれない.

確かに,学生が,なんだかんだと,理由を付けて研究室に出てこないのは,どこの大学でもにたようなものらしい.やる気があると思って期待していたら,指示をしないでいると,YouTubeを見ただけで帰るとか,ひたすらネットサーフィンしてるとか,フリーセルに熱中してるとか.それに愚痴る気持ちは理解できるが,研究室生活が暇だなんて感じる学生がいたら,それは教員側が,研究をしてないか,指導をしたくないかのどちらかで,それで不幸なのは学生の方だと思う.あるいは,それで教員と学生がお互いに楽が出来て,適当な学位を出しているようなところがあるんだとしたら・・・人気出るわな.もちろん,そんなこととは無関係に研究に没頭できる学生が,昔と変わらず今も,居ることは付け加えておく.

全くやる気のない者は,やる気が出るのを待つしかないとして,一見,やる気のある学生が,言行不一致ということもあるらしい.しかも,学生が自分でそれに気がついていない場合はたちが悪い.私の周りにはまだ見かけないんだけども,将来,自分は勝ち組に入るとか,搾取される側にはならないとか,発言が強気の割に,何かに努力する気配はなく,ただ,遊びとアルバイトに力を入れているだけという学生の話をよく耳にするようになった.

もしかすると,某テレビ局を買収しようとして,後に,実刑判決を受け服役中の人や,小学生時代から株式投資をして大きなファンドを運営していた人などの影響がまだあるんだろうか.彼らを実刑判決に追い込むほどの事が,他の同様な行為をしている人々と比べて,特別にあったかどうかについては疑問に思わないでもない.しかし,起業や投資で成功する事を夢見るのは勝手だけども,その前にする事があるだろうと思ってしまう.

起業や投資に限らず,成功者,というか,その道で一流になるために共通するのは,少なくとも初期段階で,猛烈に働いているということだ.「Outliers」というベストセラーがあったが,多くの分野で,そこで一流と認められるには,1万時間程度それに取り組む必要があり,特別な才能が必要とされる訳ではない,というのが言いたいことだと私は理解した.それは,そういう成功者だけではなくて,会社に雇われて出世するのも,大学で研究をやっていくのも同じことだと思う.読んだときは特別に得るところのない本だと思ったけれども,夢だけ見て,何もしようとしない人間には意味がありうるのかもしれない.

凡人でも,そういうことは大学受験での経験から,おおよそ,理解できるはずだ.10か,せいぜい,20冊程度の教科書に出題範囲は限定されていて,学校での授業と自習を合わせて,1日5時間,年に300日勉強したとして,高校3年間で,4500時間.小中学校からの積み重ねだと考えれば,オーダーとしては悪くない見積りだと思う.その達成度に応じて,どこの大学に入るかが決まったと考えてよいだろう.運ももちろん,結果を左右するが,自分がどの程度の時間をかけて,その達成度がどの程度だったかは,きちんと分析しておくべきで,自分が努力することで身につけられる能力が,期間あたりどれほどのものかを知るための基準になるので,それを前提として人生設計すべきだと思う.

大学に入れば,講義で提供される知識の範囲は比べ物にならないほど広くなる.それに対して,学習期間は4年間とほとんど変わりない.何にどのように時間を使い,何を獲得してきたかが,その後の生き方を左右する.その場しのぎのテクニックを駆使して乗り切ったものは,その後の人生もそれに頼ろうとする.地道に,確実に力を蓄えた経験があれば,その後もそういう道を歩むだろう.

大学院に入って,研究室に所属すれば,解決すべき問題が転がっていて,それまでのお勉強では得られない能力を身につける絶好のチャンスだ.しかも,それがすでに何らかの意味を持つことがわかっているんだから,それに取り組むだけで,問題解決能力がアップするだろうし,上手くいけば貴重なスキルが体得できるかもしれない.必ず,それらが次の糧になる.

起業や投資で成功する事と比べれば,修士論文を仕上げるなんて簡単な作業ではなかろうか.それができなくて,何が出来る,と強く言いたい.ギャンブル的な人生を送るつもりならそれもひとつの人生だけれども,そういう選択をするつもりなら大学にいる意味はないだろう.

なんか,説教じみた話のオンパレードになってきた.偉い先生の助言にもかかわらずこうなってしまったのは,やはり,自分が「即答するバカ」なのかもしれない.それでも,自分のまずい行動に自ら気がつく事も,たまには,あるんで,若者をバカなやつだと思って見放すんではなく,きちんと指摘しつつ,本人が気がつくまで暖かく見守っていただけたらと希望するし,自分でもそうありたいと思う.やはり,若者の駄目さの多くは,無知と経験不足に起因していると思われるので,ソクラテス的な対話で教え諭し,無知の知の理解が,前進するための第一歩ではないか.

「固体物理」というマイナーな雑誌がある.物性研究者にとっては必読で,研究室でも購読していて,何ヶ月かに一回まとめて,ぱらぱら,ページをめくるんだけれども,時間がないときでも必ず目を通すのが,巻末にある,編集委員の先生のお言葉である.ある号に,学生時代にご指導いただいた先生が,大学教員は優雅な商売でなくなって,仕事に忙殺され,学生はしっかり勉強しているにも関わらず,皆が世間に漂う閉塞感に押しつぶされそうになっている,という趣旨の文章を掲載していた.私の曖昧な記憶と文章力ではその本質を取り違えて伝えてしまいそうなので,詳しくは雑誌を見ていただきたい.

これを踏まえて,振り返って見ると,確かに,学会での学生の発表は,自分が学生の頃と比較して,格段に進化し,上手になっているように感じる.研究内容だって,学問は常に進化するという事実を差し引いても,本当に難しい作業になっている.研究室の学生達だって,自分の学生時代と比較して,勤勉で,成果を着実に出してくる.

それに対して,講義について告白すれば,新しいことを教えようとするたびに,自分の理解の浅薄さを思い知らされるし,間違いを教えてしまうことも少なくない.学生のレポートや答案を見ていると,ダメダメなのも少なくないけれども,感心することも度々だ.最近,優・良・可・不可に加えて,秀という最上級評点を与えることになっているのだが,秀評価を与える時はいつも,自分が学生のときに同じ試験を受けたとしても,絶対こんなにできないだろうに,彼・彼女らはよくできていると思ってしまう.

ここで,何が言いたいかというと,そういう学生達には,企業勤めでないという狭い意味の,研究者になってみたいという気持ちがあるなら,その資格が十分にあるので,もっと,挑戦して欲しいということだ.自分の好きな事をして給料がもらえるというのは本当に素晴らしい職業だと思う.少なくとも,物理の業界では,表と裏の顔を持つ必要はないし,格好良く見せようとしたって,少し議論すれば,メッキはすぐにはがされるので,地道に努力するしかなく,自分の公表した結果で評価されるという意味で,一定のレベルに達すれば,競争は公正だと,私の知る範囲では,思える.

先ほどの話にあるように,実際は,忙しすぎて,羨ましがられる対象でなくなっているという気もするが,雑用の大変さを研究と比較すれば,大抵の場合,何てことないし,はっきりいって,頭を使う必要のないことも少なくないので,効率よく片付ければよいだけの話である.もちろん,それが少なくて研究・教育に専念できればその方がいいのは当然だが,たまに,雑用に専念することで,自分は貢献するなんて言う人がいるそうだが,本末転倒で,それぐらいなら,大学にはその人の存在は必要なく,それに適した人材を別に雇用した方がいい.

成功報酬が少なすぎるという議論はあるかもしれない.年収1億を譲れない目標とするなら,大学教員を目指してはいけない.「固体物理」の別の先生のお言葉に,そのような議論があって,研究者にも大きい報償があってもいいのではという話であった.お金が一番という価値観が蔓延し,理系に優秀な人材が集まらないというのは現実にあるんだろうか.国家の存亡まで考える際には重要だろうけども,ここではそういう高尚なケースではなく,一般的な職業選択として考えたい.

当たり前の事を言われてもと思うかもしれないが,一定のペースで論文を出版していれば,職が得られるということが重要だ.私が学生の頃,言われたのは,毎年,会議録でなく,その業界で認められてる雑誌に論文を,自分が第一著者で,掲載することだった.年によって浮き沈みはあるので,大学院の5年間で平均してそれが達成出来ればということだったと思うが,実は,学生時代にこれが実行出来ている人は少ないような気がする.そうでなくても研究者になっている人も居ることから,この条件は厳しすぎるかというと,そんなことはなく,むしろ,これをひとつの達成可能な目標と考え,努力する価値があるという提案だ.

研究をしっかりやっている研究室にいけば,大抵,研究テーマに困ることはない.努力をすれば,時間はかかるかもしれないが,年に一つぐらい論文のかける結果は出てくるものだ.論文の出版を阻害するのは,もっとよい結果が出るまでと躊躇したり,こんな結果では意味が無いと決めつけたり,自分が賢く思われたいとかバカに見られたくないとかいう見栄だったり,色々な要因があり得るけれども,ポイントは,論文執筆や研究発表には,いわゆる,お勉強が出来るかどうかとは独立な能力が要求されていて,むしろ,頭のよさが阻害要因にさえなり得ることにある.

必要なのは適切な価値判断と文書構成力であり,これは,物理の理解力とは異なる座表軸にあり,議論をしてこんな人にはかなわないと思っても,論文を書く段階で逆転できる可能性は大いにある.むしろ,研究者としては,この人でなければ結果が出せないというような特殊能力がある場合を除けば,価値判断と文章力の方が重要なんでは,と感じることも少なくない.良い研究者になるには,テーマを見つけるという,また,別の能力が求められるのだが,こちらは,全ての能力の総合力で決まると,私には,思える.良し悪しは別にして,論文の数で評価するようになってきていることは確実なので,まずは,職を得るということを第一の目標に立てれば,多くの人にチャンスがあるはずだ.

今時の学生の発信する情報を見て,ネット上が公的空間である,大学で研究をすることが税金に依存した公的な立場にあるということの意識が足らないという話をした.しかし,別の所では,見られているということを意識してよく考えられた,気の利いた文章に,感心する場合もある.文書力はたくさん読み,たくさん書くことでしか磨かれないし,相対的な価値観はたくさんの情報を取り入れることで磨かれるのだから,そういう学生は,blogを書いたりつぶやくことで,情報発信力という研究者として重要なポテンシャルを潜在的に蓄えていると言えるのではないかと期待する.

研究者としてではなくとも,就職活動に入れば,ある程度セレクションが進んだ段階で,候補者のFacebookやmixiのアカウントを探すのは常識となっているらしいし,今なら,twitterのアカウントだって,その対象だろう.何でも説明責任が問われる時代だ.今回述べたような話を聞かされたとしても,過去の情報を非公開とせずに,発信し続けられるタフさがあれば,情報の価値判断能力と文章力には,十分にアドバンテージがあると思う.

最近聞いた,ある教授の,物理の理解力よりも・・・という趣旨のお言葉で締めくくるとしよう.たまたま,飲み会で最後に二人になって,今時の学生について議論になった.自分は,学生が配属を希望して話を聞きにくると,必ず,量子力学と統計力学は理解できたかと尋ね,何らかの不安がありそうだと,ウチでの研究生活は,ひらすら,そういう計算を積み重ねていくだけなので,それが苦痛だと続かないから,良く考え,覚悟してくるように,と諭すと,半分以上は私のところには来なくなるという話をした.

それに対する回答として,言葉は正確でないかもしれないが,「成績はどうでもいい.むしろ,どれだけ,真剣に,こだわりをもって研究をやれるかが大切だ」とその教授は言い切った.そして,自分がどういう研究に興味があるかを語ってくださり,それは,ゆるぎない,絶対的な価値観というか,これを解明したいという熱い思いのこもった話であった.こういう人に指導を受ける学生は幸せだろう.

最終電車がなくなるのも気にせず閉店時間が過ぎてもウイスキーを飲みながら,話し続けた楽しい夜だったが,自分の人間としての度量の小ささに,改めて気がつかされ,少し,悲しくもあった.最近,酔っ払うと,何となく,河島英五の歌が不意に頭の中でリフレインすることがある.飲みつぶれて眠るまで飲みたい気分でも,大人の飲み会では,そこまでは,なかなかいかない.今や,応物学生との研修旅行ぐらいだろうか.今年は残念ながら不参加だ.

自由であるのはいいとして,その分,プレッシャーのかかる職業であることも付け加えておくべきか.当然ながら,うまい話はない.それなら,自由な選択をした方がいい.それだけのことだ.話をまとめると,若者には,よく考え,一所懸命に働き,疲れたら適度に休み,また考え始める,ということを繰り返せば一角の人物になれると言いたい.そして自分自身にも.




このページを更新するのは年度末に新しい学生を迎える際にこちらの考えを伝えておこうというときである. 新4年生へのメッセージが毎年そんなに変わることもなかろうと考えて,内容を大きく更新することは想定せずページを作っていた. しかし,当然ながら,実際には時が経てば考え方も大きく変わっていくことに気がつき,「うつろいゆく思考」として自分の思考の変遷を残しておくことも意味が有るかもしれないと思いこのページを独立化した.


2011年3月

日々刻々と変化する社会情勢の中,眠れない夜が続き,少しずつ文章を書き溜めた.改めて読み返すと,色々な意味で,とても公開できるような代物ではなかった.少なくとも,本来の目的からすると,学生が言うところのブラックな研究グループである事を告白しているようなもので,表に出すべきではないのかもしれない.それでも,様々な事を考えながら,自分の内面が表に出る一歩手前のところで,どのように自分を保とうとしているかがよく現れていると,今の時点ではそう思える.私的な経験と個人的な感情に頼る危うい話で,不快に感じる人も少なからずいるであろう事を承知の上で,学生も含め,この文章を読む人は自分に関心がある人だろうから,非常時にこころに渦巻いたことを記録しておくのは,私を知る上で意味があると信じて,多少の修正を加え,アップロードした.


この大地震による災害で亡くなった方々,被災された方々,また,その家族,友人達の受けた苦難,悲しみは計りしれない.津波に街が飲み込まれ,崩壊していくテレビ映像は,CG映像の様で現実感がないように感じるときがあるが,あまりに衝撃的で,たまたま,地震当日の金曜日は休暇で自宅にいたのだが,その週末はテレビに釘付けとなり,ほとんど眠れなかった.それでも,仕事は待ってくれるどころか,この災害のおかげで,どっと増えて,いろいろな意味できつかったが,何とか山は越えたと思っている.

地震発生の翌週,原発事故による放射性物質漏れの危険性や,電力供給不足に起因する混乱などで,多くの人が出張を取りやめる中,東京に3泊の出張に出かけた.自分が世話人をしていた会合が,結局は延期にしたのだけれども,あったこともあるが,この状況下で東京がどのようになっているのかを身をもって体験したかったということもある.

羽田に向かうフライトはガラガラだった.ラウンジでメールを打っていたら,早めに搭乗をと地上係員が迎えに来たほどだ.10分前に私を除く全ての乗客が乗り込んだらしい.羽田に着くと,京急は間引き運転の上に,品川に行くには蒲田で乗り換える必要があり,しかも,地下鉄への直通運転は取りやめている,ということで,モノレールを使った.こちらも間引き運転ではあるものの,特に時間がかかるということもなく,浜松町へ,

あちこちの照明が落とされていて,暗い印象ではあるが,別に困るほどではない.山手線に乗り換えようとすると,今度は,あちこちの,エスカレーターが止められていることに気がつく.節電のため致し方ないけれども,荷物の多い旅行者には少々きつい.エレベーターは動いているが,当然,大混雑.有楽町で地下鉄に乗り換える時には,警備員が階段へ誘導していた.夕方の帰宅時間の始まりではあったが,かなりの混雑のなか,ホテルにたどり着いた.

その日にたまたまメールをくれた東京の友人を呼び出して,飯田橋で飲む.彼が店を予約してくれたので,迷わずに済んだが,新宿などの主要駅にある百貨店は18時閉店で,そこから郊外へ向かう電車で行くような場所は,計画停電の影響で,早々と店じまいするところも多かったようだ.彼も通勤のため,朝は駅で入場制限となるほど混雑するため早く家をでなければならず辛いと言いながら,結局,11時の閉店まで話し込む.ホテルに帰るときには,電車は普段よりむしろ空いている雰囲気だった.

ホテルの近くで朝食を調達しようとコンビニを回るも,見事に,食品の棚が空だった.ビールでさえ売り切れのところもある.すぐ近くに3軒あったので,各店舗の状況を確認し,比較的,品揃えのある店をチェックして,ホテルに帰った.

コンビニは,できるだけ在庫を減らそうというやりかたと物流の乱れが重なり,急激に増大する需要に供給が追いつかないのだろう.その一方で,飲食店の経営は厳しくなっているに違いない.予約の多くはキャンセルだろうし,そもそも,交通機関の乱れで,目的地に辿り着けない可能性があるうえに,大停電と大騒ぎして,従業員を帰宅させるために急遽閉店を早めたりすることを想定などしていたら,仕入れはできない.ホテル近くの中華料理屋は麺類のみ提供と張り紙していた.


被災者の救援,被災地の復興が最優先なのは当然としても,東京のこの状態は経済を停滞させ,震災からの復興を遅らせる要因となるだろう.出張先の先生方と昼食を取った際に,電力供給不足と放射性物質漏れの問題で,大学のように職場を移転できないような人だけを残して,家族は疎開させて,人を減らし節電するしかないのでは,という話になった.実際,金銭的余裕のある人々が西の方に逃げている話をいくつも聞いた.関西のウイークリーマンションは問い合わせが急増しているというニュースもあった.東北・関東から北海道出身の人々が続々と一時帰郷しているとも聞く.

そんなこんなで札幌に戻った.この出張で重かった気分が少し軽くなった気がした.その理由は,放射線被爆の危険性から逃れられたなどということではなく,不謹慎な話かもしれないが,仕事をしたり,友人と会ったり,何かしている間は,被災地の映像を見なくて済んだことにあると思う.それでも,ホテルに3泊した夜はテレビをつけっぱなしで,余震の度に目覚め,緊急地震速報のメッセージのアラームが鳴り響けばおろおろし,次第に被害の甚大さが明らかにされる映像を目の当たりにし,放射能に晒されながら事故をこれ以上大きくしないよう命がけの努力で作業に取り組む人々のことを見聞きすれば,正常な精神状態を保つことは難しい.

仕事をしている人は,様々な苦労はありながらも,同じ気持ちなのではと想像する.家庭を守る主婦の不安が増大するのは当然だ.札幌でさえ,買い占め,買い控えが横行し,精神的に追いつめられている.その影響は,幼い子供達に伝染する.学生達はどうなんだろうか.家族・友人に被害はなくとも,物流の影響は避けられないし,経済状況は悪くなる事はあっても良くなる事はないだろう.研究にもあちこちで大きな支障が出ているし,就職活動も停滞するに違いない.

北大でも,本人,あるいは,家族が被災した場合を想定した学生の支援を検討し始めた.例えば,授業料免除などを行うんだろうけども,その運用にはそれなりの配慮をお願いしたい.告白するが,自分は大学学部の4年間,一度も,授業料を払ったことがない.修士課程の間は半分払っていたような記憶があるが,博士課程も含めて,ほとんどの期間,免除を受けていた.当時の国立大学の授業料免除の基準は,基本的には,世帯収入で決まっていてそれに合致した事情があったのだが,その手続きには,受付担当者に強く依存して,骨が折れた.

収入を証明するには,原理的には,役所で課税収入が分かる証明書を発行してもらえばそれで充分なはず.現実には,会社側がいくら支払ったかということを示すために,源泉徴収票を合わせて要求される.それぐらいの慎重さがあるのはいいのだが,世の中にはそんなものを請求しても出してもらえないような仕事がたくさんあるという現実を,公務員試験に合格したエリート職員に,それを理解してもらうのは難しかった.逆の立場になれば,怪しげな,給与明細を見せられてこれで代わりにしろ,と言われてもとは思うけども,頼み込んでもらえるのがそれしかないんだから仕方がない.融通の効かない担当者に運悪く当たった場合は厄介だが,辛抱強く交渉を続けると,経験豊富な職員が救世主のように現れて,そういう人に助けられたものだ.無職の時は,無職であることを証明しなければならないという面倒な事になる.職が無いなんて,いったい,誰がどうやって証明するのだと最初は思った.それには,実は,決まりきった手順があり,それはそれで,気分のいいことではなく,障害はほとんどないが,無駄な障壁だと思う.

話は変わって,学生時代に,アルバイト先の予備校で給与が数ヶ月未払いとなり,結局,経営者が行方をくらましたことがあった.未払いの起こり始めには,裁判をするからとお金を集めながらすぐに消え去ったような人もいたが,受験を目指す浪人生がいるので放棄する訳にもいかず,このままただ働きかと不安を抱えつつ仕事を続けていた.そのうち,労働基準監督所に申請すると未払い給与のかなりの割合を立替払してくれる制度を利用することを思いついた人がいて,それに従い,助かった.その時に知ったのは,学校経営の危うさで,入学シーズンにまとまった入金があり,それを持ち逃げするケースはまれなことではないらしい.

手続きには,最初は,やはり,源泉徴収票が必要との話で,勤続2年目だったが,経営が火の車の会社からそんなものをもらっているはずもない.もちろん,それは自分の不手際だと言われても仕方がない.どうしようかと心配しながら窓口で相談したら,給与の振込実績と,勤務実態があることを証明できればよい,ということで,銀行の通帳と,勤務時間帯が分かる表を持参すると,驚くほど,スムーズに手続きは完了.公的支援の有り難さを実感したのと,職員の手際のよさと柔軟な対応に感動した.

この度の,震災の被災者支援においても,柔軟な対応がなされ,必要以上に証明書を要求したり,配慮の欠ける応対で被災者を傷つける事が無いよう,切に願う.数年前から話題となった著書「反貧困」でその著者が強く主張するように,生活保護の受付の現場で,水際作戦と呼ばれるやり方で,理不尽な申請受付拒否を行っている実態が明らかにされているが,表立ってではなくとも,心ない担当者により,同様な事が起きるのではないかと危惧する.今回はその担当者自身も被災者であったり,様々なやり取りでトラブルが起きるのではと心配になる.

自分の力で問題が解決できるなら,それはそれで素晴らしいことだが,自助努力で解決が困難な問題を抱えている人に,もっと頑張れというのは酷だ.制度が悪用されるケースを取り上げて批判するのは簡単だが,その可能性は申請段階と初期の運用段階である程度チェックできると思うので,本当に困った人が申請を躊躇しなくて済む制度の運用であってほしい.数%の不具合は許容してもいいんじゃないだろうか.最近の,年金3号保険者問題でも,真面目な人が損をするやり方はどうかと思うが,うっかりした人や,無知な人を,ある程度,救済する寛容さのある社会であってほしい.

もちろん,厳しい財政事情のなか,予算には限りがあり,無駄遣いがないよう,管理する立場の苦労もあるだろう.その最前線で対応する者には,多くの場合,権限が与えられず,一定のルールから外れたケースは処理できないのかもしれない.申請する方の立場になってみれば,たらい回しにあい,結局は,元の現場に戻ってくるなんてことは珍しくない.誰も責任を取ろうとしない,無責任な組織になっている場合は最悪だ.商品やサービスのサポートで事態に遭遇した経験は何度もあるが,大学の事務組織や,実は,教育の現場でも,そうなりつつあるのではと危惧している.

震災とは何の関係もない,毎度の愚痴に過ぎないが,ごく最近,私個人としては,非常に重要だと思っている業務を,いい加減に済まそうというか,自分の仕事をできる限り少なくなることを目的にということが明白なのが愚かなんだけれども,従来とは異なるやり方で済ますことを提案した,とある会議の議長がいた.要は,いい加減にやり過ごしたいんだろうが,あまりに,やり方がせこいので,一応は,表向きの議論に乗り,こちらは反対を表明した.当人は自分の意見が同意を得られると考えたのか,かなり強硬に主張するも,議論は収束せず,多数決になり,あっさり,従来通りに実施する意見が多数派であった.ところが,それを受けて議長が,自分は忙しくてそんな事に時間をかけている暇はない,と言い放った.

唖然としたが,仕事を放棄した訳で,誰かがその尻拭いをせざるをえず,話の流れ上,丸投げされる形で,自分が引き受けた.一体全体,何にそんなに忙しくて,それでどんな業績が出てるんですか,と言いたかったのを我慢して,その代わり,忙しくてそんなことをしている時間はないということを,しかるべき,上の会議で報告できますかと迫ったところ,少し躊躇したものの,出来ると答えられたので,それならそうして丸投げしたと報告してくださいと,そう口にせずにはいられなかった.もちろん,大多数が重要できちんとすべしと判断した仕事で,一人で出来るものでもない.幸いななことに「残念な人」はその人だけで,その他,多くの協力的な先生方に力を貸していただき事なきを得た.

それとは別に,もう少し別の道があったのではと考えさせられる,人間関係の問題もあった.どのような組織でも起こりうることではあるけれども,類型化できるほど事例を知らないし,深い付き合いがあった訳でもないので,事の本質をはずしているかもしれない.今回は,たまたま,利害関係者すべてから話を聞く機会があり,大学人だけあって,表面上のコンシステンシー(首尾一貫性)は取れている.

しかし,そういう場合に不利益を被るのは立場が下の者と相場は決まっている.下の者の振る舞いも褒められたものではなく,もっと別のやり方があったと感じると同時に,気の毒だという同情を禁じ得ない.さらに,上の立場の者が下の者を批判するのを聞くと悲しくなる.聞けば,もっともらしい話なんだけれども,人の批判をするときは,常に,じゃあ,自分はどうなんだと問いかける必要があるだろう.人の振り見て我が振り直せで,自分もそれを教訓とすべしと強く感じた.

経験則だが,他人を貶めて,自己を正当化することは,無意識的に起こりうるので,避けるよう努力が必要だし,そういうことに気がつかない人の言動は見苦しい.相手が部下だったら,なおさらで,信頼を失うことは確実だ.人を陰で批判すれば,それは巡り巡って,自分に戻ってくる.そういう言動をする人は,概して,自分がその標的にならなければ,むしろいい人なんだが,合わない人とは合わないということか.好きとか嫌いという話なら相性として解釈できるけれども,あら探しをするようになったら,聞いていられない.そして,他人との人間関係とその人への評価には強い相関があるのは然るべしで,関係がうまくいかなくて,仕事がまともに進むはずはない.かといって,会話を持とうとしなくなったら,それはそれで,支障がある訳で,結局は,コミュニケーションをきちんと取れれば解決する話なのにと,残念でならない.

震災の話題から大きくそれてきたが,困難に直面したときどういう行動をとるかで,その人の本質が見え隠れする.責任を放棄する人,下の者を苦しめている事に思いが至らない人,という例だったが,自分でハンドルできないことを抱え続けても病気になるだけなので,放棄する,転嫁する,逃避するというのは大切なことである.しかしながら,それは権力を持たない弱い立場の者に言えることだ.強い立場にあるものにはそれに見合った責任を課せられるのが当然だ.「既得権保護」の弊害をしつこく訴えるある経済学者の有名ブログは,スノッブな雰囲気が個人的には好きではないのだが,この件は,まさに,その弊害の典型例だと言わざるを得ない.既得権を得た者が,時代の潮流に目を背け自分は変わろうとせず,傍目から見てだが,お気楽でいながら,無意識的,あるいは,意識的に若者を意気消沈させているようでは,その組織が弱体化するのは必然だろう.

学生としては,どう対処すればいいのか.私のようにセミナーの度に学生を怒鳴りつけているようなのは,わかりやすいと思うけれども,教員といい関係を保ちたければ,研究テーマだけで研究室を選んではいけない.教員の話を直接聞いて,同時に,研究室の学生にも話を聞き,コンシステンシーを確認すべきだ.時が経ってからこんなはずじゃあなかったのに,ということを避けるには,事前にコンタクト,そして,コミュニケーションを充分に取ることが必須だ.他の研究室の学生に話を聞くのも参考になるだろう.研究室生活を送るにあたり,重要なのは,狭い意味の研究者を目指すのでなければ,テーマより雰囲気.目指すのであっても,雰囲気は重要である.

具体的なコミュニケーションで,何を注意すべきかについては,以下のBertrand Russell の言葉を,肝に銘じておきたい.

"The opinions that are held with passion are always those for which no good ground exists; indeed the passion is the measure of the holder's lack of rational conviction.''

Russellと言えば,昔は大学入試の英語の問題で頻繁に取り上げられるということで,大学受験の際に,たくさん読んだ記憶がある.手元に,Sceptical Essays というペーパーバックがあり,今それをパラパラめくっても何を言っているのかすんなりとは入ってこない難解な文章で,当時,理解していたとは思えないが,これは,その第1章にある文章だ.全文を以下のリンクから読むことが出来る.

On the Value of Scepticism

物理学者は,基本的には論理的思考を重んじる人々なので,とんでもない人の区別は,比較的,容易だ.若者の特権である,「無知の知」を実行して,解らないことを粘り強く聞いてみればいい.合理的な理由なく,不機嫌になったり,感情的になったら,そんな人とまともな物理の議論はできないし,少なくとも,自分が歓迎されていないことは確かであるので,その人の指導を受けようとは思わない方がいい.パワハラやネグレクトなんていうのは論外だ.

教員の立場からの話では,常識に欠ける学生が増えてきたと嘆く先生がいる.研究室配属の説明会で,大人として常識のある人を求むとまで言う場合もある.自分にもそういう事があったかもしれない.常識の欠如した学生が存在する事も確かだが,欠けていると感じたらその場ではっきりとそう言ってやるべきだ.指摘してもそれを理解しようとしないという事なら,それ以上の面倒を見るほどの給料はもらっていないので放置すればいいと思うが,体裁を気にしてかなんだか知らないが,厳しい事を言わない人こそ,不都合があると,感情的になる傾向があるのが厄介だ.正直な所,自分も含め,教員に一般的な社会常識があるのかどうかが怪しい.

むしろ,今時の若者の方が,昔よりも,周囲に気を使っていると,私個人は,感じている.ただ,無知なだけだ.自分が学生の頃もそう思われていたに違いない.だから,世代が変われば常識も変わっているというべきかもしれない.大学,あるいは,大学院は研究の最前線である(と信じたい)が,昔と比較すれば大衆化した教育の場でもあるのも事実なので,つまらないことでも教えてあげればいいと思う.

場所によっては,大学の教員を先生とは呼ばず,たとえ年輩の教員でも,さん付けで呼ぶ事が珍しくない.それに対して,ここは,若い助教でも立派な先生扱いだ.最初は,かなり違和感があったが,彼らが責任感を持ち,しかも,実質的責任を課されて教育を担っているという面も確かにある.ましていわんや,教授・准教授は立派な先生として,東京での大学教員のそれより,ずっと偉い人という扱いだと感じる.それをむしろ利用して,基本的な教育からきっちりやればいいと思う.研究を大事にするのもいいが,まずは,人としてきちんと接して,正す事は正すという教育が,社会における,大学の存在意義の向上につながるような気がする.

自分のやったことのダメな部分を責められるばかりでまったく認めてもらえない.自分で必死に考えてもわからないから聞きに行くのにもう少し考えてみてと言われてやる気を失う.自分が頭が悪いから仕方がないんです.口の重い若者がポツポツと漏らす悲痛な言葉を耳にすると,まるで,自分が責められているようで辛くもなったが,自分も,上の立場の者から,どうしてこんなことが理解できないんだ,とか,お前の質問の仕方が悪い,などと言われて閉口した事があるので共感できる部分もある.そんな物言いをされたら,一緒に議論なんてできる訳がない.だからといって,それがそうもいかないという意味で,本当に辛いのは彼らの方だ.上に立つものは,ダメなことを指摘するときは,実行可能な代替案を提示する配慮が求められる.言われる側も,じゃあどうすればいいんですかと食い下がる粘り強さが欲しい.

今回の件も,関係修復の道はないのか,なぜそのような関係に陥ったのかを深く突き詰めれば,できることはまだまだある気もしたが,自分にはそれを解決に導くほどのパワーがなかったので,何かできることがあれば力になると言うぐらいしかできなかった.今は,それぞれの当事者が合意の上で,新たな道へ歩み出し,結論が出てほっとした様子ではあるので,これでよかったんだと思う.あとは今後の行方を遠くから見守るしかない.

何らかの理由を見つけられて,苦難を乗り越えられる場合はまだましかもしれない.他人のせいにして気が楽になる者もいれば,自分が悪かったと責任を背負い込むことで克服出来る人もいるだろう.それでも,災害で家族を亡くし,住む家を亡くし,被爆の危険にさらされる,などという困難にどう立ち向かったらいいのだろうか.地震だから,津波だから,自分の仕事だからと納得できるんだろうか.そんな苦難とは比較にならないが,責任の押し付け先がみつけられず,どうしてと,苦しんだ経験が自分にもある.

自分の持病の話を始めたら,きっと,3日ぐらいは話続けられるんじゃないか.子供の頃は病弱で,生まれてすぐ保育器に入って一月過ごしたからだとか,母乳で育っていないからだとか,偏食だったからとか色々言われても,そんなのは自分のせいじゃないと反感を持ったものだ.小学生から中学生まで大気汚染による公害認定患者であったことは今回の話題にふさわしい気がするけれども,複雑な話なので別の機会にしよう.

ひとつは,大学の教養学部時代に秋休みという珍しい制度があって,それを利用して自動車免許取得目的の合宿教習を受けるために,今話題の福島の白河で2週間以上,友人たちと過ごした後のことだ.無事教習を終え,学科試験を残すのみとなったとき,眼鏡を作りに眼鏡屋に行った.大学の講義を受けるときでも裸眼で問題はなかったが,視力検査をパスする自信はなかったからだ.ところが,店員が適切なレンズをなかなか決められない.視力を測ると,右が0.1で左はそれ以下,どんなレンズでもほとんど矯正できない.そんなはずはなかろうと何軒かまわるが,結果は同じ.しまいには,あなたは弱視なので病院に行けと言われる始末.

確かに,夜空の月が4つに分裂して見えるくらいの乱視で,普通の人は問題ない程度の日当たりでもまぶしくて目を開けていられないとか,かなり顔をしかめないと焦点が合わないとか,考えてみるといくつも問題はあった.心配になって,名古屋の実家に帰り,それなりに信頼できる眼科に行き,丸一日検査した結果,とある,病名の症状を疑われ,診断基準にのっとり,再検査すると,確かにそれに該当すると診断を受けた.

未成年だったこともあり,まず親と連絡を取れということになり,とある病気で将来失明のおそれもあるので覚悟せよと唐突に言われた.原因は不明で,治療するなら角膜移植しかないと.幸い,コンタクトレンズによって,ある程度,矯正は可能で,病気の進行を止めることにもなると,ハードコンタクトレンズの装着を強く勧められ,いまでも,それ専用のレンズを入れている. 弱冠二十歳にして,原因はわからないが失明するかもしれないという宣告は,それなりの試練だった.治療を希望するなら京大の先生を紹介すると言われたが,正直なところ,金銭的余裕がなかった.およそ,1000人に1人の発症確率で,珍しい病気でもないので,特に援助もなく,ただ,30歳ぐらいまでで進行が止まる人が多いということで,その後,自分でかなり医学書を調べたが,その医者の言葉以上に希望を見出せる事実は見当たらなかった.結局,コンタクトレンズを装着しつつ,定期的に観察するという手段を取る他なかった.

これまで,同じ病気の人と直接会ったことはないが,話には2人聞いたことがある.1人は,両親が離婚して母親に育てられていた息子で,その診断を受け,離婚後亡くなった父親が残した幾ばくかの遺産で食いつなぐと,引きこもりになったと聞いた.もう1人は,大学の先生の息子さんで,必死になって名医を探して,その人に診てもらっているとのこと.その後,彼らがどのような人生を歩んでいるのかはわからない.自分は幸い,今の段階で,近視と老眼が進行しているけれども,すぐに失明ということにはならないだろうと思える.困る事と言えば,人間ドックの眼底検査で検査員が手間取り時間がかかることぐらいか.それ以外はもとからあったのでそれが当たり前の症状だ.結局,何もしないという選択をした訳で,自分にとってある種の試練ではあったが,他に特筆すべきことはない.今となっては,いい話のネタになったぐらいに思えるし,究極的には,これで失明しても死ぬ訳でもなしと.

ところが,試練はそれでは終わらなかった.大学院生の頃,ある時,背中が急に痛みだし,胸が苦しくなってきたので,大学の保健センターに駆け込んだ.循環器系,呼吸器系の先生方を巻き込んで,X線撮影,心電図,血液検査などを終えたところで痛みは収まり,結局,原因はわからなかった.しかし,呼吸器の医師が,精密検査にこだわり,日を改めて,大学病院で様々な検査を受けると,これまた,しっかりと別の病名を頂戴した.

肺に病変が診られ,他のマーカーにも反応したので,ほぼ確実だろうとの診断.言い方は悪いが,いい症例をひとつ見つけたという雰囲気だった.検査のきっかけとなった痛みは無関係とのことで,基本的に,初期段階は何も症状がなく,多くの場合は,そのうち病変は消滅するとのこと.しかし,悪い場合には,呼吸障害・心臓疾患を伴い,死に至ることもあるが,治療法は,ステロイド投与の対症療法しかないという話.今度は1万人に1人の有病率で,特定難病疾患のひとつ.またも,原因不明で治療法がないということで,放置しようと思うも,さすがに,死ぬかもしれないといわれると,心穏やかではいられない.

まずはどこかでセカンドオピニオンを取らねばと思うも,なかなか,言い出せない.それを察してか,担当医はしっかりしていて,役所に申請して認められれば,医療費はタダ,自治体によっては毎月金銭的援助もあり,それは申請者とは独立した医師を含めた専門委員会で判断するという話で,その申請を勧められた.ただし,それには,別の検査結果をあわせて提出して確度を高めた方がよいというのだが,それなりの危険性と苦しみを伴うというので,悩んだ挙句,その検査はせずに,その場で持っているデータのみで申請を行った.悶々と2ヶ月近く待たされ,結果は,却下だった.嬉しいのか悲しいのかよくわからなかったが,特定疾患患者と認定される事は避けられた.

だからといって,自分の体は何も変わらない.結果から言うと,こちらも治療は何もしなかった.原因不明なんだから経過観察する他無い.年に一度詳しく検査して,あとは,定期的にレントゲン写真を取るだけだ.眼病のときとは違い,少し重い話になるので,飲み会のネタにするのは難しい.口を滑らせると,相手の顔が引きつって,そんなことは聞きたくなかったという雰囲気になったことがあり,それも当然だと反省して,近しい人にしか伝えていない.親にさえ,はっきりとは説明できなかった.

厳しい現実を悟ったのは,保険屋の対応だ.熱心な営業や,知人からの紹介で,じっくり,話を聞く事が何度かあったが,その病気の話を持ち出すと,別の持病で薬を常用していた事もあるが,その場は大丈夫,プランを練り直しますと言って帰る.しかし,再び訪ねてきた者はいない.要するに,生命保険には加入できないということだ.もともと,入るつもりはなくとも,自分の意思で加入しないのと,希望しても入れないのとでは,やはり,全く気にしないでいられるかというと,そうでもない.

結婚しても,リスクヘッジの観点からはまずいかもしれないけれども,そのままでいた.しかし,子供が生まれると,さすがに心配になった.そこで,どうしたかというと,主治医と相談して,北海道への移住をきっかけに,経過観察をやめた.よく,そんなことに同意したなと思うけれども,患者思いのいい先生だった.それに比べて,札幌でも,大学病院に何回か通ったが,あまりの横柄さに怒りを覚えるほどだった.人数は知れているが,あまりにひどい.やはり,北海道での大学の先生の地位が不当に高いことによるのではと思った.それに対して,歯学部の先生はいい感じの人が多い.うーん,たまたまだな.

ともかく,いざというときに,自分の既往症を説明できれば,措置が素早くできるだろうから問題なかろう,とのアドバイスをいただいたので,以後,定期健康診断の既往症欄に書くのはやめた.毎年必ず.人間ドックを受診しているが,肺のレントゲン写真を自分で見る限り,変化は無いようにみえる.年によっては,問題の部位が少し肥大してますねえ,と鋭く指摘する医者もいるが,精密検査まで踏み込むことはなく,経過を見ましょうというような事を繰り返して,8年が経過した.

大抵の生命保険は加入時に5年以内の既往症について問われるだけなので,おそらく,現在は加入できると思うが,今更だ.娘も小学生の高学年になろうという年で,手もかからなくなった.立派な家もある.妻は長く会社勤めをしていたので,いざとなればフルタイムの職を見つけるだろう.最近の保険屋の実態を知ると入る気にもならないし,今後,家族が不安に感じれば加入できる状態なので,それでよかろう.保険屋がこれを読んだら契約してくれないだろうが.

ところで,原発事故で放射線被爆の問題が大きな関心事となっているが,私がこれまでに撮影したレントゲン写真は100枚は軽く超える.ちなみに,レントゲン撮影には小さなフィルムを使う間接撮影と,大きなフィルムを使う直接撮影とがある.一般的に,病院で撮る胸部X線写真は直接撮影で,集団検診などで大量の撮影を行う場合に用いられるのが間接撮影である.被爆量は間接撮影の方が大きく,一回の撮影で,およそ,1ミリシーベルト弱だそうだ.最近の報道にならえば,1000マイクロシーベルトと言うべきか.直接撮影の場合,その5分の1から10分の1程度とのこと.胃のバリウム検査なら,間接撮影よりも多いだろう.原発の復旧作業員の許容限度をどうするかという議論と自分の推定被爆量を比較して,少し心配になった・・・というのはもちろん冗談だ.

より深刻な問題の早期発見の方が重要だと思って被爆を受け入れるべきなんだろうし,実際,病気の時にレントゲン撮影による放射線被爆なんて気にしていられない.という説明はかなりうまくできている.最近,単位時間あたりではなく,総被爆量を気にする話が聞こえてくるが,比べるべきはまず,自然環境下で受ける放射線の世界平均が年間2.4ミリシーベルトということだから,40年も生きていれば約100ミリシーベルト,100枚のレントゲン撮影による総被爆量はそれよりも少ない.ちなみに,自然環境下で受ける被爆量とは,内部被爆と外部被爆をあわせた量で,家の外で計測した値という事ではなく,実際の被爆量だそうだ.だから気にする必要はないということではなく,レントゲン撮影による被爆が注意喚起されるのは,短時間に強い放射線を浴びることによるDNA損傷を危惧しての事のはずだ.

例えば,放射線被爆量とがん発生率は,おおよそ,比例関係にあるらしく,1シーベルトの被爆量に対して5%の発生確率があるそうだ.100ミリシーベルトなら0.5%.この確率をどうみるべきか,は人によるだろうが,地球に住む限り,その程度の発生リスクは受け入れなさいということだ.ちなみに,日本国内ならもう少し低い.

人口1億2千万で,80歳代まで均等割で評価して同じ年に生まれるのは150万人.最近は,交通事故死はかなり減少傾向にあり,1年に約5千人.毎年その数字が変わらないとして,同じ年生まれの人が交通事故死する確率は0.3%,1年あたりなら,今は,これを80で割る.他に,自殺者は年間3万人なので,2%ということになる.また,死因の30%以上は癌だ.ちなみに,人間の死ぬ確率は100%.結局は,その内訳がどう変動するかという話.その変動をどう解釈するかは個人の価値観に基づいて判断すれば良いと思う.

以上は,平均値による議論だが,現実には,ゆらぎの存在は無視できない.「The Drunkard's Walk」という本は秀逸だった.確率と統計から言える事を正しく理解すれば,様々な現象を予測できてよりよく生きられる・・・というような内容ではなく,偶然で決まる事象が存在し,それを認めれば人生楽になるという教えだと思う.「たまたま」という翻訳が出ているようなので,入手は容易なはず.

話を戻して,最悪の場合は死を覚悟してくださいと言われた時は,実は,失明するかもしれませんという話を経験済みだったせいか,また,たまたま,そういうことなんだと受け止められた気がする.大学院生の時代は,アカデミックな研究者を目指すべく,研究に没頭していたし,奨学金を複数もらっていたけれども,オーバードクターとなり無給でも何年かは暮らしていけるようにと,アルバイトも複数していた.夜は気が済むまで酒を飲んだ.診断後も,そのことで,生活に大きな変化は無かったつもりだ,

研究は,正直なところ,苦痛を伴うが,その年齢で自分の好きな事を好きなだけやっていられるというのは,会社勤めではなかなか得難い経験であると理解していたし,予備校講師アルバイトでは,出来の悪い学生ばかりだったけれども,彼らの目的意識がハッキリしているのでやりがいはあったし,夜の気の置けぬ仲間と共有する時間は,楽しくないはずがない.今と比べれば,のんきな暮らしだけれども,当時は,それなりに忙しく,充実した日々を送っていたつもりだった.そのどこかで苦しみが癒されたんだろう.

この状況を振り返って,思い出すのは以下の言葉だ.

「たとえ明日世界が終わりになろうとも,私は今日リンゴの木を植える.」

宗教家ルターの言葉という説が主流のようだが,真相はわからない.私が最初に意識したのは,少し違う表現で,とある先生が自分の好きな言葉としてホームページに挙げていたことによる.量子力学を教えてくれた先生で,授業中,些細な事で議論を吹っかけて,まじめに対応してくださったのをよく覚えている.論理明晰な実験家.気さくな方で話もわかりやすい.その後,研究の話を少しはした事もあったけれども,交流はなかったが,先日,ある懇親会でお目にかかった.どうして君がここに居るの?と覚えてくれていて,最近の様子を伺ったり,しばらく談笑した.某附置研究センターの所長をされて,運営の方に力を入れていらっしゃるのかと勝手に想像していたら,楽しそうに定年後に何をしようかという話をされている姿からは,20年前と何ら変わりのない印象を受けた.最新のホームページからはその言葉が消えているので,次にお会いする機会があれば,それについてお聞きしてみよう.

2つの診断を受けて,これといった対策をせずここまでこられたのは,環境が良かったのか,誤診だったのか,本当にたまたま運が良かっただけなのか,いろいろな解釈が可能だろう.それでも,受け止めなければならないデータはたくさんあり,それらを,自分の頭で考えられる範囲で,定量的に評価し,その現実を受け入れていくしかなかった.気持ちの揺らぎがあった事は認める,感情の起伏が激しくなって迷惑をかけた人も少なくない.平均的には平静を保てても,たまたま,そうも行かないときもあるということか.

それでも,日々,やるべきことを着実にこなして,時が経てば,悩みが完全に無くなる事はないけれども,苦痛は確実に軽減する.思い起こせば,運良く,博士課程の途中で,助手として雇ってもらってからが,むしろ,大変だったと思っている.ここに来るまでに,2人の先生に,それぞれ,2年と5年の約束で,助手にしてもらったが,その任期内に次の職を見つなければならないという自分へのプレッシャーの方が,余程,厳しいと感じていた.幸い,どちらも任期満了で次の職が見つかったが,それが,死より厳しいことだったか?そんなはずはない.

現実を直視し,的確な状況分析を行い,やるべきことをやる.今現在,生きてるならば,何かすることがあるはずだ.この言葉にはそういう重みが感じられる.ルターは,さらにその上を行き,明日死ぬとわかっていても,いつもと同じようにやるべきことを淡々とせよ,と言っているのだろうが,自分は,到底,そんな境地には達していない.振り返って,確実に言えるのは,本来なら暗黙知なのかもしれないが,根拠はなくとも,人間そう簡単には死なないと思える楽観性を持てる事が鍵だと思う.運が悪くともたまたまだと.

自分の指導している学生が,学会発表前のプレゼンテーションの準備に,それこそ,死にそうな顔をして準備をしているのを見て大丈夫かと声をかけると,きつくても死ぬようなことはないので,という趣旨の事を口にして,驚いた事がある.それも一人ではない.発表を申し込み,それが受理されたという時点で,最低限の結果は揃っていて,後はそれをどうまとめるかという事なので,こちらは,何とかなると楽観視しているんだけれども,経験が浅いと時間の見積もりが甘く,しかも,最近は学会会場に到着しても準備ができてしまったりするので,ぎりぎりまで作業は続きがちだ.もしかすると,自分の指導が厳し過ぎて,生きた心地がしないのかもしれないと心配したりもした.

今となっては,当時の彼らの心理状態を知る由もないが,できるだけ完成度を上げようという努力には頭が下がる.火事場の馬鹿力ではないが,そういうときの生産性は驚くほど高く,その経験が人間を強くすることは間違いない.自分が学生の頃の発表と比べたら,自分のそれは恥ずかしくて見せられないほどだ,と最近,ある研究者仲間と意見が一致した.スマートなやりかたで無難にこなす学生より,泥臭く地道にまっすぐ突き進む学生の方が面白い結果を出す事が多い.そんな学生たちが,切羽詰まった状況を乗り切る際に必要なのが同じ種類の楽観性であるとするのは,こじつけに過ぎないかもしれないが,そんなに的外れでもない気がする.

ここで言う,楽観性とは,究極的には生きてるとか死なないとかでもいいんだけども,自己肯定感とでもいうのだろうか.組織で自分の存在が必要とされていると思えるとか,仕事を自分で成し遂げて,それをさらに推進できるのは自分しかいないと思えるとか,もっと,簡単に言えば,自信を持つということなのかもしれない.

ルターの言葉は,どんな時でも周囲に惑わされず自分自身の信念に基づき行動せよ,という教えなんだろうが,その信念というか自己肯定感を維持することは簡単ではない.それを容易にするのは,他者から認められる事だと思う.あるいは,悩みを打ち明けたら,それを親身にとらえ共感し,適切な助言をもらえるようなことを期待できる仲間が居る事だろう.それに対して,自己肯定感の低い人は,他人に対する評価も低くなりがちで,相手の自己肯定感を抑制する傾向にある.自分が弱っていると思ったら,そのような人をできるだけ遠ざけた方がいい.

そういう意味では,今の自分が楽観性を保てる,自己肯定感を持てる大きな理由は,周囲の人のおかげという事に尽きる.自分を直接的・間接的に認めてくれていることを知るだけでも充分で,尊敬する人がそのように接してくれたり,悩みを打ち明けると,表に出さないけれども思いも寄らぬ苦労を抱えていて,自分の悩みなど取るに足らないと感じるような経験を話してくれたり,友人たちとくだらない話題を延々と議論し,時には,大きくうなずいてくれて,時には,それはおかしいと厳しく意見を正されたり,大丈夫かと心配した学生が持てる力を発揮してこちらの思いもしない面白い結果を持ってきたり,自分の存在意義を確認できるのは,大きな仕事を成し遂げたとか,試験で良い点を取ったとかいう,わかりやすい評価を得たときよりも,案外,人とのコミュニケーションの中にあるのではないかと思う.

最初に述べた3泊の出張中にも色々とあった.ある先生に,古い著書が読みたいんですけど入手困難なんです,と世間話のように話をしたことをちゃんと覚えてくれていて,2冊あったので1冊差し上げますと譲ってくださった.ある友人は,地震で何ともなかったかと,たまたま,メールをくれたので,上京したんで会えないかと夕方にメールしたら,すぐに,店まで予約してくれて,夕食にありつけた.もう一人,同時に連絡を取った別の友人は,その日は都合が付かなかったけれども,別の日に,交通網の乱れで12kmの道のりを自転車通勤している帰宅途中でホテルに立ち寄ってくれた.2人とも,東京の様子とそれぞれの近況を教えてくれて,大学に閉じこもり偏った情報に頼りがちな自分の思考を世の中の流れに引き戻してくれたような気がした.本当に貴重な友人達だ.

先月末には,昨年就職した学生を東京のホテルに一日監禁して,修士論文の仕事の延長線上にある研究の議論をした.ようやく,きちんとした結果を得つつあるが,就職してから1年も付き合わせる事になったのは本当に申し訳なくもあり,有り難くもある.その夜には,さらに昔の卒業生を呼び出し,一緒に酒を飲む.不景気ながらも,会社で奮闘する話を聞いて頼もしく思ったり,昔話に花を咲かせたり.それこそ,死にそうな思いで頑張った3人なので,会社でも何事かを成し遂げ,偉くなってほしいと切に願う.

このような関係を保つために必要なのは,うまい言葉が見つからないが,普段の行動に余裕を持つとか,冗長性を持たせるとか,「反貧困」の著者が言う,溜め,がそれにあたるんだと思う.自己肯定感の伝搬は非対称的で,溜めのある人が,そうでない人に,力を貸すことで流れていくのだと思う.誰もが効率優先主義で行動したら,こんな関係は成立しない.余裕のある人がその余裕の範囲でいいから,そこまでしなくてもいいかな,というぐらいの事をして,それで力が出たり,助けられる人がいるというような形で,自己肯定感を強化するネットワークが形成されていくのではないか.

震災に遭った人々には,まさに,溜めが無い.一方的な援助が緊急に必要だ.場所によっては,死と隣り合わせで,生きていくのに精一杯かもしれない.それでも,ますは,生き延びる事を第一に考えて,生きながらえてほしい.人間の生命力は各個人の想像以上に強いと信じている.

それにしても,不条理な苦難を乗り越えるのは,容易ではない.そのために様々な支援が欠かせないが,それを普く広げるのが難しい.自分は,公的・私的を問わず,様々な援助を受けてここまで来た.それを求めるときは自分にその資格があるかどうかとか,色々と悩む.最近の報道で,被災者の我慢を賞賛するニュースが目に止まると,もうちょっといい方があるのではないかと感じることがある.贅沢を極めていそうな人間が日本人の我慢強さを誇りに思うなどとコメントするのを見ると,お前が言うなと突っ込みたくなる.外国のメディアはそのあたりがはっきりしていて,自国民だったらこういう事になるだろうという対比がなされ,善悪の価値観が明確なので納得できる.

日本のメディアの多くは,耐える事が美徳である事を強調しがちだ.個人的な印象だが,逆に我慢しないで助けを求める事が悪であるかのような感覚を植え付けているように感じる.いい暮らしをしていそうな方が生活保護を受けている家庭を差別するような発言をするのに驚く事はまれではない.住む場所の違いだけで差別を生むような文化の国だ.この今の時代でさえ,平然と,・・・区に住んでるのは,などと発言する知識人が居るのにはあきれるしかない.

被災者の多くが,短期的には緊急支援があるとしても,長期的には生活保護を受ける事になるのではなかろうか.そのことで不当な差別を受けたり,それを恐れて申請を躊躇するような事が無いような社会であってほしい.この震災に限らず,困難に直面した時,人はもっと声を出した方がいい.深く考えすぎず,自分の経験した事をありのまま伝えるだけでいいと思う.

その声に気がついた人はその言葉に静かに耳を傾ける.小さな困難なら,身近な人で解決できるだろう.大きな困難なら,ほとんどの人はただ聞く事しかできないかもしれない.それだけでも,人間は救われる部分があるし,日本人1億2千万も居れば,同じような困難に直面して解決した経験のある人がどこかにいてもおかしくなく,実際,遭遇しないと知り得ないような困難に対する公的・私的支援がたくさん存在する.近年,小さな政府を目指すという標語の元,多くの福祉関連予算が削られたが,それでも,日本の福祉は,幅広く弱者を救済するシステムを構築していると思う.

逆に,溜めのある人は,周りに声をかけてほしい.自分には当たり前の事でも,知らない人がそれにたどり着くのは非常に難しい事があるかもしれない.自分には苦もなくできる事を,出来ずに困っている人が居るかもしれない.ACの広告のようになってきたが,声掛けは多くの人間の力になりうる.私のようなタフだと思われている人間でも,尊敬する人が自分のことを覚えていてくれて声をかけてもらえるだけでもうれしく,「有朋自遠方來」と厳しい状況にも拘らず相手をしてくれる友人の存在は心強く,何年か苦楽を共にした若者が頑張っている話を聞けばうれしくなる.少なくとも,そのような時間は生きている事が楽しい.

声をかけるのには注意が必要かもしれない.最近は,頑張れと励ましてはいけない,という言葉をよく耳にするが,頑張れる人には励ましたらいいと思う.困るのは,弱っていて自分にはできそうも無い事を,簡単にできるかのように他人に言われる事だ.最悪の事態を想定して行動すべし,なんて言う話にも,複雑な思いになる.想定外という言い訳に憤りを感じる気持ちも理解できる.なぜ,昔起きた事を無視するのだと.例えば,津波の高さだけみれば,そうかもしれない.しかしながら,現実は複雑だ.交通事故が起きる確率をゼロに出来ないから自動車を排除せよという人はそう多くないだろう.被災地の状況を見れば明らかだが,自動車が無ければ,地方では生活が成り立たない.

原発はどうなんだろう.計画に携わった人々は真剣に議論を重ね,実現可能なプランに到達するまでにはあらゆることを想定したに違いない.安全とわかっていても,それが実行不可能なら,まさに,机上の空論,絵に描いた餅だ.それでも,責任感の強い関係者は,この事態に,罪悪感に苛まれているかもしれない.でも,そういう最前線で頑張った人々を責められない.戦後復興して,今の21世紀を舞台に原子力をエネルギー源とするロボットが活躍する物語は,科学技術の発展を期待して創作され,多くの人がそれに夢を託したんだと思う.妹の名前に放射性元素の名前を付けてまで,というのには少しこころざわめく部分がないわけでもなかった.いっそのこと,ヨウ素,とか,セシウム,という名のキャラクターがいたら,今の国民の受け止め方はどうなっていただろうと不謹慎なことを想像してしまう.

そんな時代に,原子力工学は人気学科だった.優秀な人材を集め,英知を結集して作り上げられたものの中の一つが,福島原発なんだろう.それでも,人間が作る完璧なシステムは存在しない.それは,失敗を恐れ新たな事に挑戦しないものに進化は無く,人類は失敗を繰り返しながらここまで成長してきたからだ.それを踏まえれば,一定確率で,このような事故が起きるのは避けられない.人間は賢くもあり,愚かだということか.責任を負うとすれば,強大な権限を与えられ,それ相応の待遇を受けた,上に立つ者達だろう.それに見合った責任を取ってもらいたい.

しかし,権力を持つものがずる賢いとたちが悪い.一民間会社でそんな責任が取れるはずも無いと,保安院などという耳慣れない,役所の名前がすぐに表に出ないような組織を作って,管理に万全を期すと言えば聞こえはいいが,今となっては,責任を分散しただけで,その所在を曖昧にしようとしているようにも見える.原子炉だって,よく知られた会社が作っているはずだが,報道にはほとんど現れない.電化製品のように,ブランド名がわかるマークを建物に貼付けたらいいと思う.もちろん,国家権力の頂点に立つ首相が一番の責任を感じ,その権限をフルに活用し,事態の収拾にあたるべきなのに,本人が直接乗り込み怒鳴りつけないと動かないような,指導力,あるいは,人望に欠けた者がその職にあるというのは,日本の最大の不幸の一つだろう.

こういう難局でどのように行動すべきかについて,最大多数の最大幸福とか功利主義といった哲学思想に絡めて議論するSandelの「Justice」が日本でも注目されているが,一定以上の権限を持つ者は,そういうケーススタディを日常的に行い,行動原理に反映させていくべきだ.例えば,原発建設に関与した周辺住民は,原発復旧に携わる作業員の家族は,水道水接種禁止となってもその場を離れる事の出来ない乳児を持つ母親は,など,彼らがいったいどう行動すればいいのか.権力を持つ者は,そういう立場に追い込まれる人々の事を,事前に想像できる人間であるべきだ.私は親米主義ではないけれども,ハーバードではきっと,もうすでにそんなことを題材にSandelが若い学生に語りかけているのではないかと想像してしまう.そういった訓練を徹底的に受けたエリートたちが,アメリカのみならず,中国をはじめアジア諸国の政治の中枢にたくさん居る.日本の政治家と比べるべくも無い.テレビで,根拠を示さず,絶対安全と繰り返す御用学者も目に余る.

日本にもきちんとした学者はもちろんいる.古い話だが,「自動車の社会的費用」を読んだときは,経済学が実社会の問題を指摘するのに役に立つのだと,失礼ながら,感心した.最近,高齢の著者がTPPに反対表明している事を知り,何を主張しているか興味はあるが,不勉強なので,ここでは触れない.前出の有名ブログ経済学者は,その反対表明を批判しているらしい.どちらを支持するという話ではなく,専門家が集まって,理性的に論理を積み重ねて議論を続ければ,たくさんのことがわかる.それをもとにして望む方向に進むよう,色々な選択をしていけばいいのであって,起きてしまった事の原因追及は時間をかけて行い,今後の課題とすれば良い.

今この状況で,最悪の事態を想定して行動すべしと,必要以上に,声高に叫ぶのは,事故現場で作業する人には逃げよ,その場を離れられない人に放射線被爆を甘んじて受けよ,ライフラインが断たれ救援物資が届かない被災者に観念して死を待て,と感じさせるのではないかと心配してしまうのは,取り越し苦労であってほしい.最悪の状況を想定しなければいけないのは,既得権を持ち,責任のある人々であって,そこから,正しい情報が的確に発信され,普通の人は楽観的に生きられるような環境を整備すべきだ.

100%の確率で起こる生きとし生けるものが死ぬ,ということより確かな真実はないのだが,短い期間に死ぬ確率を大きく見積もる必要に迫られた時の辛さは計りしれない.死なないまでも,自らで解決できない苦難が襲いかかってきても,それが経験のないことであれば,同じことだ.たまたま起こるかもしれない最悪の事態が,必ず起こる事のように思えて頭から離れずパニックに陥っている人も,実は,同じなのかもしれない.

私の知るある鬱病経験者が,震災の甚大さが次第に明らかになっていく中,テレビに写る被災者の様子を見ていると,鬱病を発症する人がたくさん出るに違いないと思うと口にした.私もそう思う.だけれども,そこからどう脱出すればいいか,何も確実な事が言えないのがもどかしい.繰り返すが,生きてさえいれば時が解決してくれるという面がある.声をかけられる事は,鬱陶しく感じる事もあるが,その多くは力になる.その場では咀嚼できなくても,あとから,あの人はこういうことを言ってくれていたんだとわかることも少なくない.そして,徐々にに心を開く事が出来るようになる,という感じか.

援助が行き届くようになり,生き死にを考えずにすむようになったら,次は,失ったものを意識するだろう.辛い体験は我慢して覆い隠しても,必ず,心の中に地震後の津波のように遅れて襲ってくる.やがて,時が経てばその苦しみは軽減するけれども,それには,生きている事が楽しいと思える時間が必要で,それはほんの些細な事でも実現できるものだ.日々わずかな時間でも,それを積み重ね,傷ついた人々が,明日の事を気にせず,リンゴの木を植える余裕が持てるようになる日が早く来る事を祈る.

テレビを見ながら,この絶望的に大打撃を受けた被災地に対して.めげずに力を与えられるのは,マザーテレサぐらいではないかと話をしていると,娘がマザーテレサの漫画伝記を開いていた.今回の話の多くで,マザーの言葉を引用すれば思っている事が的確に表現できるはずだとおぼろげな記憶を辿るも,漫画のコマ割りは思い出せても,言葉が出てこない.今更ながら,きちんとした伝記を読んでみよう.

Russellは宗教と政治におけるPassionに満ちた理性無き活動を批判した.自分も,筋が通っていることを大事な価値判断基準にすえるべき,と考える人間なのでその思想に強く同意する.科学技術研究に携わる者として,人間の英知を結集すれば社会は良くなると思っていたし,地道な教育を積み重ねることで人間の平均的知的レベルも上げられると信じていた.

具体例を挙げるのは差し控えるが,この災害が起きた後,色々な話を聞いて無力感を感じざるを得なかった.暴論を承知で言わせてもらうと,数字の意味を把握しようとせず大騒ぎをしているのは,いわゆる,文系の人間であることが多い.高校での文系・理系なんて分類を止めて,全部理系にしたらいいと思う.原子力発電を推進するつもりなら,α,β,γ崩壊や放射性同位体とは何であるか説明するために必要な物理を高校で必修にすべきだ.

もちろん,政府から,直ちに影響は無い,とか,原子炉の損傷を示すデータはない,などと言われると,実際の数値を見ないで,じゃあ,長い目で見れば影響がある,実際は損傷しているがデータが取れないだけ,などと解釈する人が出てきてもおかしくないし,そもそも,絶対安全と言っていたのが,あっさり,想定外の事態が起きた,で済まされたんでは何も信じられないと言えば,その通りだ.ある人が,首相は,食べても大丈夫という野菜を毎日食べ続けてそれを国民に見せればいいと言った.なるほど.連続テレビ小説の前にでも,今日は放射性ヨウ素がこれだけ含まれた野菜を食べました,そして,牛乳も飲みました,と毎朝放映すればいい.

よく考えてみれば,今の首相は,私の前職で所属していた部局の卒業生で,原発推進と叫んだ前首相は私の先輩じゃあないか.どちらも,学部時代に応用物理を学んだはずだ.理系でもダメということか.ここでは,今の政治家がダメという事にしてもらって,信じるに足る専門家が存在するという前提で続ける.

原発から遠く離れれば,平均的には,拡散により距離の二乗で密度は薄まると理解することにより,日本に居ない方がリスクが低いので,外国から来た人が最悪の事態を想定して帰国するのは妥当な選択だろう.悠々自適な暮らしをしていて,金銭的余裕があれば,関西方面に逃げれば同様なリスク軽減が達成される.

しかし,学校に通う子供,働く人,介護の必要な人,それらの人を世話する人など,離れたくても離れられない人がたくさんいる.放射性物質の拡散が確実となったこの状況で,癌になるかもしれない,死ぬかもしれないと,それに恐れをなして逃げ出したり,食べ物や飲む物が無くなったらという不安に駆られ買いだめに走ったり,ということが,ある程度,おこるのは現状では避けられないのかもしれない.

そのように,自分で状況判断が出来ない人はどうすればいいのか.誰の言う事なら信頼してもらえるのだろうと,無力感を感じたとはそういう事だ.広い選択肢を持つ人こそ冷静になり,他の人が出来ない選択をするなら,周囲をあおらず,そっと消えてほしい.彼らの言葉は,悪質なチェーンメールと同様,多くの人の不安を不必要にあおるという意味でたちが悪いと思うものの,原発は絶対反対だと運動していたような人であれば,それはそれで,当然の選択とも言える.そういう人は,むしろ,持っていたデータを積極的に公開し,これだけ被爆するとこのような事がおこるという症例の提示に協力してくれるといいと思う.

事故の現場では,技術者や研究者が,それこそ,死のリスクを最大限に背負って,復旧にあたり,死にものぐるいで,計測データを解析して,放射能汚染の広がりの予測をしているはずだ.首相,官房長官,大臣,保安員という政治家や役人の発表は全く頼りないけれども,多くの民間人の献身的な努力で,多くのデータ,分析,予測が公開されている.その中には,物理学者も少なくない.政府公表だけでは頼りなくとも,他にも信頼できるデータがあり,それらを総合的に判断して,パニックを起こさず,冷静な行動が出来る人々が大多数である事が,日本の底力だと言える気がする.もちろん,状況は予断を許さない.少なくとも今は,最前線で働く人々の身を案じ,公表される数値を理解できる人は冷静に判断し,安全であれば冷静な行動を周囲にも促し,危険と判断すれば躊躇なくそう言えばいいと思う.

恐怖を和らげるのに,マザーの愛にかなうものは無いだろう.もはや,絶対的に信じることができるのはそれぐらいか.科学技術による生活向上の速度も鈍化して,さらに,この地震災害の成り行きによっては,日本人の価値観が大きく変わる転換点になるのかもしれない.日本の報道での扱いが軽いのも仕方が無いが,リビア情勢も心配だ.多国籍軍は攻撃を始めるし,政府側は十字軍などと言い出して人間の盾で防戦とは,どちらも,全く自分の理解の範囲を超えている.これはキリストとイスラムの争いなのか.あるいは,エネルギー覇権をかけた戦いなのか.

それは置いておいても,マザーの宗教を超えた人類愛がすばらしいことは理解できる.その活動がどのようにして広がったのかについては,不勉強なので,少し考えてみようかという気になった.心の平静を保つのには,やはり,宗教が必要なのか.マザーと一緒に論じてはあまりに失礼だが,今から思えば阪神淡路の震災から程なくして発生したような大事件を二度と起こさせないようにする努力するのも,大学教員として,忘れてはならないと肝に銘じている.これこそ,若者たちへの声掛けが意味を持つはずだ.

わからないことだらけで,話がちっともまとまらないが,きりがないので,このあたりで終わりにする.マザーつながりで,最近,ちょっとしたことから,この20年,あるいは見方によっては30年以上の長期にわたり蓋をしてきた個人的な問題に自分の中で少し進展があり,それについて考えるきっかけにもなればとも思っている.それにしても,悩みは尽きない.これも人生か.


2010年11月



今年の夏はホントに暑かった.例年,9月になると秋の気配を感じるものだが,冷房のない家で眠るのは北海道でも厳しい日が多かった.何年か前にお隣さんはリビングにエアコンを導入.マンションの住人に聞くと,最初から入れているところも少なくないようだ.確かに,北海道の人は暑さに,そして,寒さにも実は弱い.

本州では湿気対策で風通しのよさが求められるんだろう.北の国では断熱だ.日当たりがよいこともあるが,最低気温が数度になる今も,ウチでは暖房を入れていない.暑かったはずの9月から,一転して,寒波がやってきた.10月に積雪.紅葉した落ち葉が雪に埋もれているという光景に驚き,深夜に帰宅して雪にまみれずぶ濡れになった靴を脱いだ時には,正直,暗い気分になった.

4月に書いた文章を読み返すとそれを予感させるが,今年も出張の多い年だった(まだ終わっていないが).飛行機に乗った回数は,往復を別に数えてだが,50回になろうとしている.プライベートも含めてなんで,仕事ばかりではないけども,空港までの電車の回数券を買っている程だ.9月の半ばからの一か月ぐらいは特に激しく,12回のフライトにホテルに20泊.疲労もピークに達した状態で,10月の大雪の中,深夜に大学から自宅へ歩いて帰るのに難儀して,ブルーになるのも仕方がない気がするが,そんな単純な話でもない.

思い出せば,この半年,いくつかの人間関係で,空回りというか,無力感に襲われることが続いて,夏の終わりに何か緊張の糸が切れたような状態となった.少子高齢化,反貧困,学力低下,メンタルヘルス,などの社会問題について自分のスタンスがどうあるべきかということは常に考えているつもりだけれども,具体的に身に迫ったこととなると,そんな仮定の話では対処できない.

その中でも,一人の老人と一人の若者の行く末を案じ,行動した結果,彼らの経験した辛さとは比べるべくもないが,こちらも精神的に消耗した.どちらも真面目,かつ,細かいところまで気配りの行き届く几帳面な大人である.個人的にも信頼できて,どうしてあの人がと思うのだが,色々な事情が重なり辛い状況に追い込まれてしまった.どちらも体調を崩したことで,さらに行き詰まり,にっちもさっちもいかなくなったという感じだ.傍目から見る限り,様々な行動の選択に明らかな間違いがあったとは思えない.彼らを知る者のなかには,あの時こうしていればとか,こういうことが分かっていたんだからそれを踏まえていればとか,意見をくれる人もあるんだけれども,本人はそれでもやっていけると考えたんだろうし,ある程度のリスクを取るぐらいでなければ人生面白くないと思う.

しかし,大事なのはまずい状況に追い込まれた時の判断だ.まずい状況とは,まずは,最初に想定した好ましい状態が実現していない状況だから,それに至る戦略に問題があると判断すべきなのに,それが,なかなか,出来ない.もちろん,頭の悪い人ではないので,その通りにいけば確かに好ましい状態にたどりつけそうな戦略ではある.それでも,どんなレベルであれ,世の中が複雑系であり,正確な予測が不可能であることを知っているのがオトナのはずで,実行に移して不具合があれば,立ち止まってその原因を突き止め,やりなおしたらいいと思うが,なかなかそれが出来ないのも人間の性である.その原因は,自分の努力では動かしようもない力を頼っていたり,非常に確率の小さな事象にこだわったり,自分の能力以上の力を過大評価したりと,様々なんだけれども,過去の成功体験を頼りにして,戦略の見直しが難しくなっている場合は厄介だ.

自分の関わりのある部分で,彼らの状況がうまい方向に変わるよう努力しているつもりだが,今はまだ問題解決への選択肢を選ぶことさえできない状態だ.もちろん,自分が絶対正しいと信念を持ち深く関与していける人もいるだろうけども,私にはそこまでの懐の深さはない.そんな無力感は,ふとした時に襲ってきて,やるせない思いになる.色々な人に相談すると,これまた,想像以上に,類似の問題に苦慮している人が多く,そこでまた考えさせられる.

人と話をしたり,こんなところに文書として綴ることで,客観的に捉える努力をして,こちらは乗り越えて行けるが,彼らはどうなんだろうと思うと,考えは堂々巡りだ.今現在は,お互いが納得できる落とし所を見つけ,そのように対処し,今後の生き方をしっかり考えてもらうということにして,それぞれに判断を委ねた状態にある.幸い,孤独ではなく,そばで支えてくれる人々がいるのは救いだ.孤独に耐えられる強さを持ち合わせている人は多くない.そういう時に,自分自身にも守るべき小さな家族があることは,本当に心の支えになっている.もし,独身だったなら,自分は早々にアルコール中毒に陥ったであろうという推測に同意する人は少なくないだろう.まあ,すでにそうなっている様な気もしないでもないし,月に半分以上家を空けるような男が家族の有難味について何を言っても信用されないのかもしれない.

今回,頻繁に外に出かけられたのは,タイミングが良かったと思っている.研究とは関係ない事務的な仕事がいくつかあって,それは重労働ではあったものの,色々な人と関われて,少しは役に立てたという気にはなれる.日本で学ぶことを希望する留学生の面接では,希望に満ちた若さに圧倒されたが,こちらまでやる気が伝染してくるようで楽しいものだった.学会や研究会は,昼間は好きなな話を聞いていればよく,研究打ち合わせなら義務感は無いので真に楽しめる.夜は酒を飲んでとりとめもない話をして眠るだけだ.

時には,出張先で書類の作成に追われ徹夜したりしたこともあるが,細かい作業は頼れる事務の人に丸投げすれば適切に処理してくれる.大学の事務組織は伏魔殿のようなところで,とびきり有能な人もいれば,とんでもない人も少なくなく,そういう人とのやりとりは精神衛生上よろしくない.あちらはあちらで,大学の先生は扱いにくいと思っているので,その間に立つ人が重要である.始めのうちは,そういう人がいても私の仕事だけをやっているのではないという遠慮があったんだけれども,頼りきれるようになったのはその人が有能だということに尽きる.そういう人でも3年間しか雇用できないことになっていて,本当にばかげたシステムだと思うのだが,このような事務に関わる話は思うところがたくさんあるので,それを語るのはまたの機会にしよう.

長期にわたり大学を不在にすることについては,今はかなり風当たりが強いが,講義担当は全て前期に固めているので問題ない.指導する学生と会えないのはゆゆしき問題で,昨年までなら,それを理由に仕事を断ったり,日程をずらしたりしたものだ.実際,これまでは,定期的に学生と議論するため,長期間大学を離れることは避けたきた.そうしないと結果は出てこないと思っていたし,と言うよりもむしろ,経験上,熱心に付き合うことで彼らはより頑張ると期待できるからだ.しかし,正直なところ,今はその元気が出ない.それで,今回は,依頼された仕事を断らない上に,隙間をさらに別の仕事で埋めた感があるのは否めない.方針転換して,結果を無理に出そうと思わなければいい,と自分に言い聞かせ,学生たちにも正直にそう話して,研究の基本方針だけは確認し,最小限の指示で済ますことにした.

出張が多いと移動時間が増え,たくさんの本が読める.書店で表紙を見たら手に取ることもなかったであろう「もしドラ」を読んでみた.マネジメントなんて,敢えて学ぶ必要などないと思っていたが,研究プロジェクトを完遂させるのには有用なスキルなのかもしれない.現状では,私の中での卒論・修論の到達目標は,いい研究テーマを発掘する事,としている.それを前提に,各個人のモチベーションをしっかり把握して,その部分を大事にしつつ,必要なスキルを身につけ,出来るだけ得意な分野で頑張ってもらうというところだろうか.それなりの結果を出してきちんと卒業していくわけだから,成果は上がっているのだと信じたい.今はやりの戦略的互恵関係か.WIN-WINの関係とか大臣が言うのを聞くと,口先だけで行動が伴わないことは,まったく恥ずかしいことではないと世の中に知らしめているようで,男は黙って・・・でもいけないんだろうけども,中庸の精神を大事にと願う.

話を戻して,ひとつ気がかりなのは,まだ,博士の学生を一人も育てていないということか.初期に指導した学生が他大学で学位を取ってアメリカでポスドクをしているのは頑張っていると思う.確かに,成績優秀な男だったが,それに続く学生にも同等な成績の学生は何人もいるので,誰も博士課程に進学していないというのは,専攻としては残念だ.というか,教育の仕方に問題があると私が非難の対象となっているかもしれない.ある男は,修士一年の12月までは博士進学を考えていたのを,正月明けに,就職することにしますと宣言し,活動後間もなく,就職を決めた.考えを変えた理由として「物理は好きで,研究も楽しんで出来るのだが,新しいことを発見する(新しいと確認する)作業には苦痛を感じる」という類のことを口にした.研究は,定義からして,新しいことを発見することとほとんど同義なので,そんなことでは,苦しかろうと当時は引き下がったものの,今は,少し後悔している.

周りを見渡せば,実は,多くの人がそれにもかかわらず,研究者となっているし,結局,最終的に求められるのは成果を論文として発表することで,そこに至るのに必要なスキルは,新事実の発見以外にも,たくさんある.全てが得意である人は稀なので,論文発表という最終目標に到達できる,それこそ,「マネジメント」がしっかりしていれば,なんとでもなるのだ.目先のことを考えて成果を増やそうと要求が厳しすぎたことは反省すべきで,研究を楽しむ余裕がなかったとしたら残念だが,終了時には,事務の人の機転による助けもあり,その成果が認められて,奨学金返済の半額免除が認められたので,無駄ではなかったはずだ.

また別の話題の本である「残念な人・・・」には色々なことを考えさせられた.自分の解釈では,何が最優先事項かを認識して先の先まで考えて行動すべし,という話で,特に目新いしい内容ではない.何らかの能力を持っているのに,そういう行動がとれないために評価されない人を「残念な人」と称したことが目を引いたんだろう.内容は軽く,すらすら読める.小さな約束が守れない人が大きな約束など守れるはずがないという話には,思わず,そうだよなあ,と膝をたたいた.ただ,全体を通して金儲けが第一,という話なんで,納得できない部分もある.例えば,一億円預金があったらやらないことはやらない,という話は,いくらお金を持っていてもやるべきことはやる,という話に置き換えたい.

最近の学生の場合,小さな約束が,守られない事がままあるという意味では,「残念な人」が多いと言えるかもしれない.身近な例では,定期的な報告を要求しても,最初の数回だけで,なし崩し的に来なくなる.こちらもそれがわかっているから,出来るだけ学生の居室に毎日訪れるようにし,何とか議論が保たれていた.今は,必要を感じなければこちらから出向くことはしなくなった結果,学生と話をする回数は激減した.ただ,ウチの学生は,結局,こちらが求めているのは研究成果だということをよく理解していて,メールででも指示は的確に伝わるし,必要があれば質問に来る.自分のペースできっちり仕事を進められる,優秀で真面目な人々だと,この数ヶ月で実感した.

もちろん,定期的な報告を義務付ければ,それまでに何かを出さねばとプレッシャーになり,能力以上のものが引き出されることが期待されるのだけれども,学生は,給料をもらっているわけでもなく,義務感から研究に追われる必要はない.研究者になりたいなら一定の業績を残す必要があるし,何らかのモチベーションがあって特定のテーマに取り組みたいとかいう場合は,がむしゃらにやるのもいいだろう.でも,研究は楽しんでやったほうがいいに決まっている.楽しんでそこそこの結果に辿り着ければいい,というのが今時のスタイルなんだろうし,それで十分だ.

約束とは何かというところが変わっているというべきなのかもしれないが,商売なら,相手の気持ちを的確に汲み取れということか.そういう意味では,大学では残念な人ではないとしても,そういう彼らが社会人になったとき,どのような評価を受けるのかは気になるところである.何らかの教育は必要なんだろう.今の教育体制では,会社で働くまでそのようなことを実感する機会はほとんどない.しかし,それを大学・大学院で教えるべきだといわれたら・・・.

残念ながら,教員にも「残念な人」がいることは否定できない.最近,ある人との関わりで,かなり,あきれることがあった.持ち回りの役職で,誰もができることなら避けたいという,仕事をしていて,関わらないわけにも行かない.適切な人に尋ねればすぐにわかることを,引き継いでいないことはやりようがないと放棄している.都合の悪いことは忘れてしまうというのは,生きていくうえで必要な能力ではあるが,全体の仕事を管理すべき人がきちんと物事を調べなければ,処理が停滞するのは自明だ.それでも,その仕事の存在を明らかにしておけば,誰かがカバーできる.誰でも,得手不得手はあるので,それぞれが,得意分野で努力すれば,組織はなんとか維持できるはずだ.

ある時,例年手元に配布されるはずの,とある,データがなかなか出てこないので,その残念な人の下で働いている事務職員に催促すると,もっともらしい理由をつけて今年は配布しないので閲覧するだけにしてくれということに.仕方なく足を運んで,データを見て愕然とした,これを頭に入れないで仕事をすることは考えられないとその事務職員を通じて伝えるも,出張先で受け取ったメンバー向けのメールには,やはり公開しないという内容.これではたまらないと,メンバー全員に向けて,抗議のメールを送信した.それに対する返信があって,そのデータの意味も理解しておらず,矛盾した主張を堂々と並べたてるような内容で,それにも丁寧に回答申し上げた.

出張から戻るとすぐに電話で呼び出され,説明に伺ったが,話に要領を得ない.普通なら通じる論理が全く伝わらない.データを公開しない理由がまた素敵で,表向きの理由を押し通してくれればいいのに,これを見せたらメンバーがやる気をなくすと思ったと言う.冗談かと思ったら,私が別の出張で欠席した会議でもそう語っていたらしいから,本気でそう思っているんだろう.もしかするとそのデータを見て責任を感じたんではないかと邪推して,それはたまたま,あなたがその時にその役職にいたというだけで,それに負い目を感じる必要はないけども,それを握りつぶして,今後の業務に支障が出たらあなたの責任ですよと,つい,口が滑った.

自分の感覚がおかしいのではないかと,近くから遠くまで,色々な人に話をすると,どこでもそういう人は居る,そんなところさっさと辞めたほうがいい,上のものにそんな態度をとれるお前のやり方のほうが驚きだ,など,様々な意見を頂戴した.そのようなアドバイスを受けて,無駄な労力を使うのはやめるよう努力しているけれども,相変わらず,おかしなことは続いている.お願いしたいのは2つで,ひとつは,ルールをを変えるときは独断で決めるなということ,もう一つは,仕事をしようとしない人を責めることはしないが,真面目にやっている人が馬鹿を見るような対応はやめてほしいということ.組織でどのような仕事が行われているのかを把握しようとしないのも,上のものを立てることなく怒りをぶつけるのも,どちらも「残念な人」のやり方なんだろう.

教員になってここに来るまで,3つの組織を渡り歩いたが,個人的には,一流の研究者ほど事務処理能力も高く,事務方面から見ても残念な人にはなりにくい,と感じている.研究に比べれば,やる気は起きないけれども,事務仕事なんて所詮知れている.さっさと自分で片付けてしまう人もいれば,もちろん,経済原理からすると,アウトソーシングすべきで,実際,人をたくさん雇って何とかしている場合も多い.言うまでもなく研究時間をいかに確保できるかが肝要な訳で,自戒を込めて言うが,事務処理をたくさんこなして,忙しいなどと不満を述べているようでは,研究者としてはダメである.

随分,だらだらと長い文章になってしまったが,今年のノーベル賞について触れない訳にはいかない.物理学賞はグラフェン.化学賞はクロスカップリング.どちらも大いに関わりがあり,喜ぶべきことなのだが,北大では後者のほうが重要視されるのは必然.ここでは,実名を避けることを自分のルールとしていたが,これらの話題で名前を伏せるのは全く意味がないので,名前を出すこととする.ここでの文章は鈴浦の個人的意見であることに注意いただきたい.

鈴木先生は工学部の教員だったのだから,喜ぶべきなんだろう.しかし,受賞が違う年だったらなおよかったのにと思う.物理学賞に気がついた学生は,グラフェン研究の最先端からそんなに遠くないところにいるつもりなので,やる気のある人が来てくれたらと思う.グラフェンでGeimさんが受賞するのは当然で,研究に関わりのあるものとしてはうれしいんだけれども,ナノチューブが飛ばされたことは疑問だ.そして,安藤先生がもう一名に加えられなかったことを残念に思う.これは,飯島先生が自分のこともありながら,そのことについてコメントされていたので,自分が関わっていたことによる贔屓だけではないと思いたい.

安藤研におけるグラフェンの研究は,私がそこに異動する直前から始まっていた.あの頃は,ナノチューブの研究が主体で,必ずしも,グラフェンの性質を解明したいという強い動機はなかったと思う.しかしながら,研究は着実に進んで,デイラック点における普遍的な極小抵抗,量子ホール効果,弱局在,擬スピンの重要性,光学伝導率など,Geimさんらの実験をきっかけに興味を持たれた特異な基礎物性は,ほとんどすべて,安藤研の研究で理論的に明らかにされていた.

懸念することがいくつかあった.当時,安藤研では,2次元グラファイトと呼んでいて,関連する論文はgrapheneをキーワードにしても検索に引っかからない.むしろ,2次元平面の物性など非現実的で議論する意味がないとレフェリーから意見されたことで,蜂の巣格子上の電子系という方向のタイトルに変わっていくことになった.また,パイ電子の従う方程式はワイル方程式と呼ぶのが歴史的には正しいはずだが,Geimさんらが質量ゼロのディラック方程式と強調したことも,関連性を希薄に見せかけたかもしれない.

しかし,その後の安藤先生の動きは速かった.ゲートによる電荷制御が可能となったことに着目して,いくつかの論文をあっという間に出版され,私も,わずかながら,お助けしたつもりだが,日本の研究コミュニティの対応の遅さを嘆いておられた.まさに,孤軍奮闘という感じで,還暦を過ぎた研究者とは全く信じられない.私が雑用でアップアップしながら計算しているのを見兼ねて,海外の相手はポスドクだから掛けられる時間が違うのは仕方がないと慰めてくださったが,自分の限界を思い知らされた.

その安藤先生も今年度で東工大を停年退職される.ウチの専攻を退職された先生の何人かが,論文選集を編纂して,退職記念パーティーの際に配られた.もらっても,それ以後開くことは無かったが,安藤先生の論文がまとまっているなら,読むに違いない.南部先生の論文選集を,江口先生がノーベル賞を意識して作られたという話を思い出し,どなたかに相談しようと考えていたところで,この10月になってしまった.

その後,安藤先生と会う機会があり,しばらく物理の議論にお付き合いいただいた.フランスに長期滞在された後で,グラフェン・ナノチューブの最新の実験状況について教えていただき,やるべきことがまだまだたくさんあると,毎度感じることだが,パワーは全く衰えていない.何年も前からこれをやるべきだと提案されているテーマがあり,手をつけられず放置しているのだが,今回も,根気よくその重要性を説かれたのには,情けないという思いと有難いという気持ちが交錯した.そんななか,細かい話になったときに,ふと,こんなことをやってもノーベル賞は取れないけどなあ,とおっしゃったのが強く印象に残った.

重箱の隅をつつくのではなく,できるだけ簡単に実現できる,基本的な問題に取り組まなければいけない,というのは常に言われ続けてきたことだ.この調子だと,80歳になっても論文を書き続けているに違いない.ノーベル賞もまだまだチャンスがあるかもしれない.日本も,安藤先生をトップに立ててグラフェン研究センターぐらい作る戦略(マネジメントか?)があるべきだと思うが,どうなるんだろうか.先生にとっては,いまさらで,静かに新しい研究ができる環境を与えられた方がハッピーなんだろうけども.

ノーベル賞と言えば,最初の方で触れた,面接をした留学生たちも,日本人が受賞したことをよく知っていて,自分もそのような研究がしたいと言っていた.話は飛ぶが,10月終わりに,応物の3年生を定山渓温泉のホテルに閉じ込めて合宿研修を行った.今年はどうも出来があまり良くないんじゃないかと心配していたが,研究室紹介をしたり,酒を飲んで話をする限りは,いつもと,大して変りはない.睡眠不足で臨んだこともあって・・・というか,そうでなくても,毎回,どこか自分の部屋でないところで眠りこんでしまうのだが,3年生というのは,まだ,何にも染まって無いという感じで,初々しい.根拠なく,何でもできるんじゃないかと思えるのが若さの特権だ.理路整然とした会話が出来て,まじめにこつこつ努力するタイプの学生なら,我々など置き去りにして,世界に羽ばたける可能性があるはずだ.

温泉研修が終わってから2週間,出張もなく,本当に久しぶりに落ち着いて仕事ができる状態になってきた.罪滅ぼしではないが,週の半分くらいは,9時ぐらいまでには帰宅して,娘が眠る前に「星の王子様」を読んであげるのが最近の日課だ.子供がいなかったら読むことはなかっただろうこの有名な物語は,これが,突飛なファンタジーのようでいて,なかなか,奥深い.翻訳文が読み辛いのは,それで,著作権が切れてから色々な訳が出てきたんだなと納得したが,まあ,子供には気にならないようだ.キツネが教えてくれる,大切なものは目に見えないんだ,という秘密に,この長くなった話の落とし所が見えてきた.

不惑の歳を過ぎ,今年は大厄にあたるらしいが,お祓いなんてするはずもない.それでも,自分や親子供の健康,社会的な立場から,これぐらいの歳には色々なことがあるから気をつけろという経験則だと考えれば,確かにその通りで,色々あった.また,教員生活15年目のこの年には大きな意味があって,修士まで借りていた育英会の300万円を超える借金が,ようやく,大学に15年間奉公しましたということで返済免除となる.最近,学生支援機構の職員の方と話す機会があって,どうして,このシステムを止めて,卒業時に免除を判断することになったのか経緯を聞くと,文系の大学院生がほとんど対象になり得ず,不公平だから,ということらしい.実情は理解できるが,研究・教育に携わることを条件にするのは意味があると思うし,学校の先生の数だけで比べたら文系の方が圧倒的に採用数が多いというのは勘違いなのか.

それはともかく,なんとなく,借金に縛られた気分であったのは(文字通り借金なんだけれども),現状の立場を考えれば,それ程,気にすることでもないような・・・,「残念な人」の内容がすんなり受け入れられるということは,経済原理というか,目に見えて分かりやすいものを大事にするという価値観で行動していることからそうなるような・・・.学生にも目に見えてわかる成果を,ひたすら,求めてきた・・・.自分で取り組む研究も・・・.目に見えるものしか信じないという価値観を守ること自体はひとつの生き方だと思う.しかし,自分のその態度は,単に,楽な方向へと身を任せてきて,少なくとも,研究については,結果として手を抜いているだけだと言われても仕方がない.

学生の時や,助手になりたてのころは,任期の無い職を得ることを目指して,ここでも結局は食っていくためなんだけれども,相当無理して研究に打ち込んだ.結果,体調を崩し,子供の頃の持病が再発して,2週間の入院.酸素マスクを着け,点滴を腕と脚に刺された状態で,何度か意識を失いかけた際には,こんなところで死ぬわけにはいかないと本気で思った.それから,6,7年,薬を使い続けた.こちらに来てからも,大学で不調になり,大学病院の急患に這うようにして辿り着いて,点滴をしてもらったこともある.いまはそれをすっかり忘れるぐらい,体調は回復した.体力はある方なんだと思うけれども,ストレスで体調を崩していくことを身をもって知ったので,それを避ける努力をした結果が今の状態なんだろう.

今はあらゆるものが最適化された結果,体調が維持されているような気もしないでもないが,大切なものを見失っている気がする.それが何なのかははっきりとはわからないけれども,まずは,昔のようなきちんとした研究をする日常を取り戻したい.数か月うつろに考えて,ようやく,そのための一歩を踏み出した.現状を変えたい.やれば出来そうな問題ではなく,ノーベル賞がとれるとは言わないが,本質的に重要な問題に取り組みたい.バランスを欠いて周囲には迷惑をかけるかもしれないけれども,研究が好きならそういう方向に進むべきだと,いまさらながら,そう思う.どういうスタイルに落ち着くか先は見えないが,大切なものは目に見えない,ということで,しばらくは,違う星にでも行くつもりでさまよってみよう.


2010年4月

新年度を迎えて,気分一新と行きたいところだが,年度末の忙しさにかまけて放置した事務処理が全く片付かない.現実逃避でホームページの更新をしようと思い立ち,卒業式のときに撮影した写真でもアップしようとするもデータがどこにあるかわからない.学生にこちらのわかる場所にアップロードするよう伝えたつもりだが,こちらの指示が忘れ去られることにはすっかり慣らされてしまった.というか,自分自身が依頼された仕事が忘却の彼方となることが頻繁に起きるようになり,他人に依頼した作業を確実に実行してもらうには,強い意志を持って,何度もお願いするしかないということを,至極当然なのかもしれないが,認識したこともあって,些細なことに目くじらを立てても仕方がないと思えるようになった.

研究に関わることであればモチベーションを保ちながら作業をし続けることはそれほど難しくはないが,そうでない仕事も少なくない.昨年度は明らかに自分のキャパシティを超える仕事を引き受けてしまった.どれも最低限の責任は果たしたと信じているが,同僚や学生も含め周囲の人の助けがなければ成り立たなかった.単なる個人の仕事の総和でなく,チームを組むことで初めてできることがあることを何度も思い知らされた一年だった.何年か前に学生時代の後輩が研究室を立ち上げた時にそのようなことを強調したことに対して,理論は個人プレーが大事ですからと答えた自分の浅薄さが今では恥ずかしい限りだ.

この1年,恒常的に忙しかったのだが,9月,1月は特にひどく,平日の平均的睡眠時間は3時間ぐらいだった.そうすると,週末は眠り続けるかというとそうでもなく,逆に,平日と同じ時間に早く目覚めてしまうくらいだ.芸能人や漫画家,医者などの多忙を極める職業人が一日の睡眠時間は3時間でもやっていけるという話を聞いても,実際はどこかで短時間に刻んで眠っているんだろうぐらいに考えていたが,人間,本当にそれでも生きていけるのだと身をもって知った.

ある時.学生の得た結果を発表しようとしたら,講演の数日前になって,結果がおかしいです!と言いだしその学生がパニックに陥った.出張先のホテルで不眠不休の作業を続け問題を解決し事なきを得たが,彼もよくあれだけ眠らないで仕事ができたと思う.もちろん,卒業がかかっていたこともあり,火事場の馬鹿力だったのかもしれない.

当然ながら,皆がそう出来るはずもなく,また別の学生は,朝までに結果を用意するのでお待ちくださいと言うので,翌朝結果を送るように連絡すると,眠っちゃいました・・・と返答があり,冷や汗をかかされた.そんな中で,ひとつひとつの締め切りをきっちり守り,こちらの想定以上の仕上がりで仕事を片付けていく学生もいたのには感心した.その彼も,何か大事な結果を送ってくるのは決まって深夜で,中身を見てしまうとその場で対応せずにはいられなくなる.

そんな中で,誰が一番苦労したかと言えば,実はあらゆる困難に一人思い悩みながらも独力で解決し締め切りを守った男だと私は思うが,最終的には全員が非自明な結果を得たので,結果オーライだ.それぞれが,時間をかけただけのことはある.我々のやっていることはシュレディンガー方程式を解いているだけだと言われれば確かにそうなんだけれども,物の性質の重要な部分を定量的に予言できる物性理論の威力には,研究を始めて随分時が経過した今でも,素直に感動を覚える.

その一方で,扱う物質系が複雑になってきていることは否めない.解決に必要な数学的道具立ては実はそれほど昔と変わっていないのだが,学部で教える内容は明らかに削減傾向にあるため,研究室に入ってから時間をかけて習得する他は無い.相当優秀な学生でも知識量の不足は深刻で,それはカリキュラムの問題であることは明らかだ.しかしながら,実験の研究室においては,知識不足は問題になっていないようで,話は噛み合わない.

ともかく,研究には時間がかかるんだけども,この1年,自分が何に苦しめられたかといえば,たまたまメンバーが全員夜型人間だったことにある.彼らは深夜や朝方まで議論したとしても,それから眠ればいいし,実際,そのように議論が押した翌日には夕方にしか現れないが,こちらはそうはいかない.事務的な会合は日中にあるわけで,結果,睡眠時間が削られることになる.

ぎりぎりになって慌てふためくのを回避するために,締め切りを前倒しすればいいという考え方があり,研究室によっては卒論・修論の提出締め切りを12月にしているところもあるらしい.卒論を始めるのは実質的に9月か10月だから,それで研究なんてできるんだろうか?できる人もいるだろう.昔は,(仕事量)=(仕事率)X(時間)なので効率を上げるか,時間を長くかけるかで,それなりの成果を上げられるからと説明して,鍛錬を積んで仕事率を上げるか,体力に頼り切って時間で稼ぐかのどちらかで何とかなった.

この話が成立するためには,仕事率が連続量であり物理を学んできていればどんなに小さいとしてもその値はゼロではありえないことが前提にあるが,どうも最近の学生について考えるときは,仕事率は量子化されて不連続な値を取ると考えた方がよさそうである.つまり,仕事率がゼロということがあり得て,一定の知識と経験を獲得しない限り,いくら時間をかけても結果が得られないということだ.具体的には,膨大で複雑な情報を処理することになるので,自分の頭の中に一定量の知識をオンメモリーの状態で保持しないと作業がうまく進められないと言うことができると思う.

それでは,記憶力がよくなければ駄目かというとそうでもないところが面白いところだ.物理は少数の基本法則により記述され,そこから論理的に導かれる普遍的な性質により強い拘束条件が課されるため,さまざまな物理量は相互に関係しており独立に値を変えることはできない.つまり,すべての量を独立に把握する必要はなく,一部の量の変化を追えば,他の量は追随して変化するので慎重に変化をみれば結果を予測することができる.その挙動がおかしければ,新現象を発見したか自分が間違ったかのどちらかだが,ほとんどの場合,自分のミスであり整合性のチェックにより誤りを訂正できるわけである.

要は,首尾一貫した話になっているかどうかが大切で,重要な結論であればある程,どういう道筋をたどっても行きつく先は同じということが多い.その昔,ある医師と宴席で同じ卓を囲んだ時,物理は答えが一つしかないから好きになれないという話をされた.医学ではそうではないんですかと尋ねると,同じ病気でも対処方法は複数あるとの返答.その時はそれ以上掘り下げなかったが,それは医学的処方の多くが対症療法であるからで,根本的原因が分からないからだと邪推する.原因が特定されれば,最も有効な治療法を選択するんではなかろうか.

物理の場合,答えは一つかもしれないが,それに至る道筋はたくさんある.むしろ,どういうやりかたでも同じ結論に至るというべきだ.自分の計算した結果が本当に正しいかどうか,何をもって結論付けるかは難しい問題だ.多くの場合,異なる方法で得た結果が一致することで良しとする.そのように論理的整合性を常に意識できるかどうかがプロとアマの違いなのかもしれない.知識不足のまま異なる手法を用いて計算するなどということは容易ではない.

物理的な論理的整合性のチェックがなされず,計算技術も未熟な場合に何が起きるかというと,ミスの発生レートがゼロにならないために,いつまでたっても正しい結果に近づけず,時間平均すると仕事率はゼロということになる.さらに,間違いを正すより,誤りの発生レートの方が高くなって,仕事率がマイナスになる可能性さえある.

物理的な結論に至る道筋にはそのような誤りは許されないので苦労するのだが,卒論・数論を含め,研究内容をまとめる文章に首尾一貫性を持たせるのもこれまた,大変,骨の折れる作業である.学術論文は完ぺきな状態で出版しているつもりでも,間違いを含んでいることは少なくない.ある偉い先生に「この式の導出がどうしてもできないんです」と教えを請うたら「希望です」とおっしゃられたという話から,重要な項を落としていたり,定数倍の因子を忘れたり,間違いの種類は多様で,それに気が付かず随分痛い目にあっているし,逆に,間違いを含んだ結果を出版してしまったことも少なくない.

最近,首尾一貫させることの難しさを思い知らされたのが,翻訳の仕事だ.学生時代に世話になった人々からの依頼だったので引き受けたが,辛い作業だった.三年経過してようやく三分冊にして上中巻の出版に漕ぎつけた.

吉岡書店のウェブサイトにある宣伝ページ

この作業,時間がかかる上に,ちっとも収束しない.原著者は二人でこれだけの内容をまとめたと思うと頭が下がる思いだが,単純なタイプミスから根本的な誤りまで膨大な修正リストが出来上がり,そのやり取りだけでもかなり消耗した.同意が得られず,翻訳で誤りを増やしてはいけないという判断でそのまま放置したところもある.

下訳は5人で担当箇所を割り当て,その後,全員で用語やスタイルの統一を図るのだが,何回読んでも修正個所は無くならず,学生の論文仕上げのことを言える立場ではないと痛感した.結局,仕事の精度というか,先ほどの見方で言えば,目指す内容に見合った程度にまで仕事率を高めなければ,成果は出ないということだ.

知識と経験で仕事率はどんどん上昇するので歳を重ねれば仕事は早くなるものだが,体力的にも立場的にも研究に注ぐことのできる時間は確実に減っていくので,一定の仕事量,つまり,成果を残せるようバランスを保つのは難しい.今思えば,学生の間は新たに学ぶことがいくらでもあり,時間も自由に使えて,羨ましい限りである.

不惑の歳を迎え,寿命を削るような生活からは抜け出したいと強く思うが,まずは,学生に夜型生活を改めるよう指導すべきか?というより,夜明け近くにこんな文章を書いている自分の生活を改める方が先だな.今年は研究科長にどうしてもと1年の継続を頼まれた役所仕事以外はあらゆる雑用をお断りして,日中に,研究する時間を確保したい.さてこの一年,どんな生活になることか.夏までは既にスケジュールが・・・.睡眠不足の生活はもうしばらく続きそうだ.まあ,好きでやっているんだからいいんだが.


2010年3月

このページの更新は数ヶ月に一度ぐらいと思って始めたが,年度末に一度がやっとの状況である.ウェブ日記やブログをこまめに書き続けられるのは,自分で生活を規則正しく律することが出来て,かつ,こころに余裕のある人なんだと思う.その昔,教員によるホームページの更新が頻繁なところは研究を蔑ろにしていると揶揄されることもあったが,時代も変わって情報発信は義務となりつつあり,忙しいなどと言い訳している教員に心の余裕が無いのは明らかである.もちろん,研究に忙しくてと答える場合はこころの余裕とは無関係だろう.どちらにしても,更新が滞っていることは学生にとってそのことを教員に質問してみたときの回答は研究室の雰囲気を知る重要な情報となりうると思う.

そもそも,このページは,研究室配属前の学生に研究室での生活や大学教員の日常がどのようなものかを伝えられれば,という思いで開設したページであり,楽しくなるような話題を提供したいと思うのに,なかなか,そうはならないのはなぜか?大学で過ごす日常で何が楽しいかと言えば,難しい問題が解けて新しいことがわかったとか,学生の成長を実感するとか,研究・教育に関わることになる.そういう意味では私はこの仕事をおおいに楽しんでいる方だと思うが,苦楽は相伴うのが常であり,実は苦しい時間のほうが長く感じるということはある.何か新しいことをしようとすれば必ずこういう事になるはずだ.

ある学生が,論文を仕上げるのは大変だったということの引き合いとして,大学入試の例を挙げ,それよりもきつかったという話をした.大学に入るのに浪人したはずだから受験勉強にはそれなりに時間をかけて努力したに違いない.それは大変だったねとねぎらいの言葉をかけるべきだったのかもしれないが,そんなの当然だろうと返答してしまった.大学入試では教科書をすべて積み上げても20cmにも届かないような狭い範囲の勉強を繰り返しすればいいのに対して,卒業論文や修士論文をまとめるには,過去の文献を調べても出てこない結果を自ら導きだして論理的にそれを示さなければならないということで,その大変さは全く比較にならない,はずである.実際,彼は自分の持てる時間のかなりの部分を注ぎ込み,膨大な結果を得て,きちんとそれをまとめた.

だからこそ,受験より大変だたっという言葉が出たのだろう.早い段階で締め切りまでに結果をまとめるのは無理かもしれないと話をしていて心配したものの,回り道はしたが計算をきっちりこなして,まっとうな話に収まった.私自身が卒論で行った数値計算は1台のパソコンを使って1月ぐらいで結果がまとまった.修士論文では計算機センターのスパコンを利用したが,CPU Time1時間の使用料が1万円という時代で,貧乏な研究室ではそんなに予算があるわけもなく,小さいサイズの予備計算を除けば20時間程度で完了したはずである.それに対して彼は,今は安価ではあるが高性能なワークステーションが研究室にたくさんあるうえに,ひとつのCPUで複数の計算を並列して実行可能であることまで考慮すると,単純に一つ一つ直列に計算を実行したならば数年間計算し続けるぐらいの量をこなしたはずで,それだけでも誰にでもできることではない.処理速度まで考慮したら・・・.

当然ながら出てくる計算結果も膨大な量で,それを上手く数枚のグラフにまとめ上げ,特異な物質の物理現象を良く知られた普遍的振る舞いで理解できることを明らかにした.私が自分一人で計算してもこんな短期間でこのような結果にはまとめられなかっただろう.これだけの仕事をこなせる自分に自信を持っていい.周りの助けがあったことを忘れてはいけないが,知識レベルも仕事の処理の処理能力も研究室配属前とはまったく違うレベルに到達したと思う.

大学はこのようにあるべきだと信じているが,実は世間にはそう思われていないようであり,できるならそんな苦労したくないという学生も少なくないのかもしれない.社交性のある付き合いの広い学生は,必ずと言っていいほど,なぜそんなに忙しいのかと自分の周囲の人間に言われました,という話を一度は口にする.確かに,文科系では4年生になると週に一回ゼミに出席すればいいとか,卒論を書かなくてもいいところもあるようだ.時折,卒論の代筆をしたとか金で買ったとかいう内容の話を聞いたり読んでだりしてもそれはその程度の大学の話だと気にもしなかったが,実際に誰が誰の卒論を代筆したという話の両方を知っていたりすると,もう疑いようもなく,それが有名大学でも起こりうるとは,何とも言えない気分になった.

最近,自分の娘をを連れて書店に行き,子供向けのコーナーで立ち読みをすることが多いのだが,中高生向けの人生指南書のようなものが数多く出版されていることに気がついた.ある時,その昔マスコミによく出てきた元役人で今は大学教授である男が書いた本を手に取ると,人と同じことしかできなければグローバル化した世界ではそれをいかに安くできるかという競争になり,消耗戦で,最終的には日本人が勝てるわけはないので,これだけは他人に負けないという力をつけるべきだ,という話があった.現状のルールの中で自らの利益を最適化することを一番と考える人間がいてもそれはいい.ところが,そのあとがいただけない話で.大学入試までは研鑽を積めても,大学に入ってからは学年が上がるほど努力がおろそかになり,4年生では大学の外で自分で何かしないと駄目だという.おまえは何を言っているんだ!まず自分がしっかり教育をしろ,と怒りを覚えてそこでページを閉じた.

確かに,研究意欲を喪失して途中で大学を去り別の道を歩んでいく学生は昔からいたし今もいる.最近は,卒業・修了する気はありながら,研究にかける時間が極端に少ない学生がいるという話を耳にするようになった.その理由は十人十色でひとくくりにはできないけれども,そういう学生に結果を出させて社会に送り出すために先生方が注ぐ労力は並大抵ではなく,卒業・修了の判定会議での説明にその苦労が窺われる.私ならとても面倒見切れない.

自分の学生について言えば,そもそも,やる気のない人はこんなホームページを見たら志望しないだろうし,話を聞きに来た学生にもこちらから逆に質問をして,自分のやり方ではついてこられないと思えばそうはっきり言うし,来てほしいと思うような学生にも,必ず,他の研究室も回ってもう一度よく考えてから希望するように指導する.そのようにフィルターが掛かっているせいか,学生に応じて対応の仕方は全く異なるけれども,結果として,さじを投げるようなことには至らず,むしろ,終わってよくやったと思わない学生は,今のところ,一人もいない.

しかし,それでは面倒な学生を他の先生方に押し付けているだけではないかという罪悪感は多少なりともあって,最近,飲み会で同席した先生方に色々と尋ねてみたところ,苦労話は止めどなくでてくる.その具体的内容にはここでは言及しないが,そういう学生に研究成果を求めることに無理があるんで,既存の研究成果であっても,体験する価値のあるものを選別し,それを再現することを課題として修了させるようにしたらどうかと提案した.だが,その場に居合わせた全員が否定的な見解を示したのには驚いたと共に,うれしい気分になった.

学生のことばかり問題視しているが,実は,教員側にも問題はあるわけで,大学教員のコミュニケーション能力は同じ学科卒で会社に入った人々と比較して,平均的には,劣っているような気がする.学生との対話をなるべく少なくしようとしている人もいれば,学生の反応を考えることなく一方的に話をするだけとか,それでは学生の方もやる気をなくすだろうというような話を聞くと,教育がしたくないなら研究所に行けと言いたくもなる.均等に割り振られるべき大学運営の仕事の量が明らかに遍在しているのもそれと無関係ではない.

そんな中,教育にも十分に力を注ぎ研究も一定のレベルを保とうと努力する先生が少なからずいることに安堵した.また別の会合で,いつもは自分が先に酔いが回って見かけることのないある先生のほろ酔い上機嫌な状態に遭遇した.酔いが回りながらも,物理への美意識をとうとうと語っていたのが印象的であった.確かに,学生の発表を聞けば指導教員の姿勢は一目瞭然で,その先生の目指す所は研究レベルが他とは違うのと同時に,心血を注いで教育に取り組んでいることも明白であり,本人の話を聞いて腑に落ちた.ここには学生のことを親身になって考えてくれて惜しみなく対応してくれる教員が少なからず居るので,向上心のある学生はそういう研究室を選び切磋琢磨しながら研究を楽しんでもらいたい.

理想を語りかつ行動が伴った先生が存在するということについて私自身は心強く思う一方で,平均的学生にとってそれが幸せなのかどうかは実はよくわからない.しかし,やる気のある学生にとっては得るものが多いことは確かだろう.いまや,有名大学を卒業したからといって,安定した生活が保障される時代ではなく,それ以前に,希望する就職先にことごとく断られ苦労する学生も珍しくない.同じ授業料を払うなら得るものが多い方がいいだろうなどという損得勘定ではなく,困難な問題に果敢に取り組み,解決に全力を尽くすプロセスを通じて自分を高めるチャンスを活かしてほしい.研究をやり遂げたという経験は社会に出て何かを新たな価値を創造する立場に就いたとき役に立つに違いない.ここまでの話に出てきたような先生方はその手助けを惜しまないだろうし,さらに研究の面白さに目覚めて博士課程へと進学してくれる学生が出てくることを期待しているはずだ.研究室生活も楽しめること請け合いである.

時間をかけるとか努力するとか,自分を高めるなどと書いていたら,一時期,マスコミがはやし立てたカツマーとカヤマーの論争を思い出した.向上心が高すぎる人や,そういう人と相関があると感じるのだが,薄っぺらな知識で何でも知っているかのように話をする人と過ごすと,大変,居心地が悪く,疲れてしまうことから,自分は後者の方に共感が持てるのだが,研究・教育に関する行動原理は実は前者に近いのではないかという気がしてきた.自分のできる範囲で能力を高めようという意識だが,実は自分の方が周囲の人々を疲弊させているカツマーのかもしれない,と思うと話はまた振り出しに戻って,これが楽しい話題にならない元凶なのかもしれない.

総じて,教員は研究を楽しんでやっているが苦労もしていて,まして,学生はもっと大変だということか.しかし,その教員も皆が必ず学生であったはずで,どこかで苦労が軽減されるのか,あるいは,もともと苦労の少ない人が教員になるのか?ここまで来ると苦労とは一体なんだということの共通認識がなければ話は進まないが,自分の持てる能力で有限時間内にできると想定した仕事を確実に実行することを苦にせずできるという力が,研究を遂行するにあたり,大変重要となる.そんなこと,研究に限った話では無いはずだが,まあ,飛び抜けて頭のいい人でない限り,そこが研究者となれるかどうかの鍵となることは確かだろう.幸い,研究者になりたいかどうかは別にして,そういう努力のできる人が集まってくれているし,これからもそうであることを願う.苦労はしても,一緒に研究を楽しめる学生とまた出会えるのを楽しみにして春を待とう.


2009年4月

今年も人の入れ替わる季節で,修士の学生が修了し,新たに博士研究員の人がやってきた. 思いがけず,とある研究プロジェクトの一員に加えていただくことになり,急遽,PDを雇用できることとなったものの,それが決定したのは11月の末. 主要なPD就職口の採用結果が出てしまっった後で人が見つかるのか不安になるも,無理に雇用しなくてもいいとアドバイスを受けていたので信頼できるところに声をかけて候補者を探すと想定以上に応募があり, その選考には頭を悩ませた.

当然ながらその内容を述べることは出来ないが,会ってみるとその時点で職が見つからないのは皆さんかなり難しい問題にチャレンジして結果が出るのに時間がかかって論文の数が足りないだけのように思えた. もちろん,そういう前提が有るので就職活動にはそれなりの戦略をもって臨む必要が有るというのも確かなんだけども,研究を続けたいという純粋な気持ちが前面に出るほどでないとあのような大きなテーマには取り組めないとも感じるので, その気持ちを大事にして欲しい気もする.

逆の立場で,ウチの修士の学生は就職活動が上手くいかなかった. 夏も過ぎた頃,ようやく内定の報告を受けるが,同時に,それは断るとも言われ,その理由を聞くと,いわゆる,技術派遣の会社らしく, それは,気持ちも理解できるので受け入れた. 次に内定をもらった企業はNEDOの予算でとある研究開発を行っている会社で物性研究の経験が大いに役立ちそうな職だった. それにもかかわらず再び断るという話になった時は,かなり問い詰めた.

彼の答えは,自分が何をやりたいか考え直し,大きく方向転換して,農業・畜産業に従事したいと決めたからだと. 内定を断るのは君の後輩にも影響があり得るなどと半分脅す様な言い方で説得したが気持ちは変わることはなかった. 日本の将来を考えれば貴重な人材となりうるが,あまりに不器用すぎるとも言える.

彼は,研究室に来た当初,対人コミュニケーションを極度に避けていて,色々な人から大丈夫かと心配された. 告白するが,対話を重視する私は彼が私のグループを志望すると部屋にやってきた時に考え直すように忠告した. しかし,彼は私の質問に一つひとつゆっくりとだが論理的に回答し,私のぞんざいな対応にもかかわらず,希望は変わらないと断言したので,私は不安を抱きながらも最終的には受け入れることとなった.

最初は挨拶もせずいきなりドアを開けるような非常識ぶりだったが,実際は,思考回路は常識的で言われたことは確実に実行する,非常にきちんとした男だった. 話せば分かるということで,彼が知らないのは今まで誰もそれを指摘しなかっただけだろうと,多くのことがそう思えた.

理論研究というのは基本的に個人の頑張りによるものであって自由にさせるのがよいと思うのだが,独断に陥ってはいけないということと, 学生の場合は放置するとあらぬ方向に進むことも有るので,私のグループでは週の初めに何をするか,週末に何をしたかの報告だけは義務付けている. そう言うのは簡単だが,実はそれをきちんと実行できる学生は貴重な存在である. 彼はそれをきっちりこなし,私が不在がちなのでいたら捕まえてくれという約束もしないようないい加減な対応にもかかわらず,別に用が有る場合は必ず断りを入れる丁寧さも持ち合わせている.

しかも,取り組んだ研究テーマには多体問題の知識が必要であった.昔なら物性理論の研究室なら修士に入った時点でしっかり教育されたものだが,こちらに異動してからは, そんなのは無理だと学生にそのような勉強をすることを求めもしていなかったから心配したけれども,それも全く問題なし. 計算機プログラミングも最初は大抵の場合パニックに陥り先輩達の世話になるというのが定番だが,こちらも適宜教えを請いながら無難にこなしていた.

結果がすんなり出たわけではなく,明らかにおかしな結果にはおかしいと言い,もっともらしくなるとこのパラメータを変えてみたらと議論して修正を施す,というような作業を毎週積み重ねて最後はそれなりの結論を得た. こちらが考えて議論をしたい時につかまらないのはもどかしかったが,自ら問題点を洗い出し,それを克服するために何をすべきかよく考えて着実に進歩していたので,彼のやり方を尊重し任せることにした.

研究室に日々滞在する時間は非常に短かったのでスマートな男だと感心していたら,実は居室にいないだけで図書館に篭っていたと送別会で告白していた. 研究は相当難しく,時間をかける必要があったと. 配属されてきた時はあれほど無口で自らの歓迎会を無断ですっぽかした男が,送別会で残る人々への挨拶の中で農業をやりたいとしっかりと述べていたのには,本当に変わったと感動した. いばらの道を歩むことになったが,力強く生きていってもらいたい.

それにしても,物理で修士や博士の論文をまとめるということは世間一般から見れば非常に高度な能力が要求されるはずで,もちろん,周囲の助けがあって成り立つということはそうなんだけども, そういう能力が有る人に職がないという事態が頻繁に生じる社会はいかがなものかと思う. ワーキングプアが問題視されてるが,むしろ多くのチャンスをもっているはずの高学歴の人々が高度な技能の獲得を目指しそういう方向に突き進むことで めぐり巡って同じところに行き着くかもしれないというのでは,何かがおかしい.

民間企業は利益をあげてこそ成り立つものだからそれに直接的に結びつくものでなければ意味がないとか,国は小さな政府を目指して公的支出は聖域無しで可能な限り抑制するとか,今の社会はいったい何を目指しているのだろうか. その中で大学はどう対応していくべきなのか.

細かいことを言えばきりがないが,重要でかつ実行可能なのはあらゆることに関して透明性を保ち,無意味な力関係を排除しフラットな議論を可能にしていくことではないかと私は思う. 例えば,就職活動というか採用の側に立てば人事だが,その選考過程と採用の根拠ぐらい公開したらいいと思う. 個人情報の問題があるので,全てをというのは無理だけれども,面接までして不採用としたら,せめて何がまずかったのかぐらいは伝えないと, 改善点が分からないという意味で失敗から学ぶということが容易ではない.

独立行政法人化後,大学も予算が年々削減され,職員がすべき仕事は増大し忙しくなっていることは認める. しかし,大学人は利益追求を目指す必要もなく,透明性を高めたり無意味な仕組みを廃することは簡単なことではないか?

最近,その考えが甘いことを痛感させられる場面に立て続けに遭遇した. パターンは決まっていて,私が何か変だと思ってそれを口に出すと,話が紛糾するというものだ. 自分が配慮に欠ける人間で,軽率な発言をして迷惑をかけていることを棚に上げて言うが, 前例がないので受け入れられないとか,頭ごなしに発言を押さえ込むとか,大した問題じゃないでしょうと無かったことにするとか, 全く筋の通らない物言いで,くさいものには蓋をし,既得権益を守ろうとするような人と対峙していると,ここは世の中でもっとも高度な知的活動を営む人間の集まりではなかったのかと,本当に悲しくなる.

もちろん,現実には大部分は頭脳明晰で研究者らしく論理を大事にする全うな人々だ. それが密室ではしきたりとか立場とかいうのが幅を利かせてくるのはいかがなものか. 助手の頃まではそんなことを感じたことが皆無だったので,それはたまたま自分が幸せな環境にあっただけなのか, 昔は若造が何か叫んでいると相手にもされていなかったのか,歳を取って自分の傍若無人振りが増強したか,理由は定かではない. ともかく,理屈では説明できない決まりごととか,建前みたいなものが有るのなら,それを受け入れられるかどうかは別としても,事前に教えて欲しいと思う.

ただ,昔はそういう反応があったときも相手が納得するまで頑張った気もしないでもない. そういえば,酒が入って自分の指導教員や助手の方に怒鳴るように不満を叫び続けたことがあった. 若かったことも有るが,話せばわかるという信念もあった. 彼らは根気強く付き合ってくれたし,幸いなことに今でも個人的にお付き合いさせていただいている.

社会常識を欠いた自分を,それは今でも変わりがないのかもしれないが,ここまでにしてくれたのは周囲の方々が,その心の中までは読めないけれども, 私の側から見れば愛情を持って受け止めてくれたからだと思っている. 経験しなければ,言われなければ分からないことがたくさん有ることは頭では分かっていても,実際に教えてもらうまでは気がつかないものである. このことには本当に感謝している.

無意味なことでも,単にそれを知らないということだけで悪い印象を与えているのだったらそれは不幸以外の何物でもない. 最近学生と話をしていて,就職活動で会社の人事に履歴書を送る際に添え状を付ける事を,それなんですかと言う. そんな学生が便箋で添え状を書いたら一枚白紙をつけておくことなんてまして知るはずもない. そんな時に,若者は口をそろえて意味ねーと言うのだが,調べればすぐに分かりそうなことをその努力をしないのはやる気がないと判断しているのかもしれないとなだめることにしている.

しかし,確かに意味がないと思う.何でも理屈でかたが付くと考えているわけでは決してないが,無意味なことを受け入れなければならない状況は避けられるものならその努力をするし, それを知らないということだけで何かを判断されたらたまったものではない. やはり,集団の暗黙の了解を自ずと理解し,平均から外れたものを排除しようという発想なのだろうか.

話が長くなって何を言いたかったのか分からなくなってきたけれども,大学は透明性を保つよう努力すべきという話だった. それは,持てる情報は可能な限り公開し,暗黙の了解などということはなるべく排除することで,実質的で意味の有る議論が出来るという方向を目指すということだ.

筆記試験の点数であればそこには曖昧さはほとんどなく次に何をすべきかは明白である. 何でも点数化できるわけではないことも事実だが,基準がはっきりとしていることは公開すべきだし,それが出来ない部分は,結果として何を決め手に採用を決定したのか大学はそれを公開すべきだ. 同時に,その判断が尊重されるべきである.公開することでその公正さは有る程度保たれるに違いない. 低い評価を受けた方は,そこで初めて自分に足りないものを突きつけられ,それと向き合えるのだと思う.

また,教育の場なんだから,若者の素朴な疑問や小さな過ちに寛容であって欲しい. 無知で常識のない若者だと思ったら,厳しさを持ってそう指摘しつつも,愛情を持ってしっかりと教えていくべきだ. 教員側だって理屈に合わないことを言う可能性ももちろんあるわけで,相手に寛容であれば,自分に対してももっと気楽になれるのではないか. 過ちを犯したときにそれを素直に認めすぐに公開するというのは商売においてもリスクヘッジの基本となっているはずだ.

特に,研究とは誰にも知られていない真実を炙り出す作業なので,間違いを恐れずアイデアを出し,かつ,それを多方面から穴がないか検討していくということを厭っているようでは新しいことが生まれるはずがない. 狭い世界に閉じこもり強い力を得た者がそれに甘んじて努力を怠り,都合が悪くなると弱者に自己責任を押し付けるのでは,格差社会を生み出す原因そのものではないか.

大学の中ぐらい話せば分かり合える風通しの良い社会であってほしいし,そういう雰囲気を身に着けた人間が現実の社会をより良くしていってくれる事を切に願う. 最近はよく語られるようになったが,個人が自己責任を突き詰めて努力するだけでは限界が有る. 知識や経験の薄い者には持てる者が出来る範囲で教え諭し,疑問に感じたことを躊躇せず口に出来て,本当におかしなことならすぐに変えていけるようなところで,せめて大学は,あるべきだ.

想像力をたくましくして,同じ境遇を経たら自分もそうなったかもしれない,と考えて弱者に優しく手を差し伸べる社会であってほしい. そうであってこそ,失敗を恐れず難しいことにチャレンジができるのだと思う.

何が幸せなのか,人それぞれ感じ方が違うんだろうけども,私自身はその場その場で,はじめに考えたこととは違ったとしても,結果として納得いく選択が出来て,今の自分を肯定できていることなんだと思う. ここが4つ目の職場だが,他のいくつかの公募で不採用になってようやく決まるというのが普通で,札幌には採用の面接で来たのが初めてだった. 行ったことも無いようなところによく応募するねえと冷やかされたものだ.

北大に来てからはや6年,一番長く在籍する職場となった. この先どうなるのか全く読めないが,修了した彼の残した結果を足がかりにプロジェクト研究を着実に遂行し次なる納得のいく選択へとつなげると共に,進む方向は違うけれども彼自身も納得できる選択が実現していくことを祈りたい.

2008年7月



新年度を迎え,人が入れ替わるこの機会に新しい研究テーマを考えようとしたら,我々のグループを志望する4年生は居なかった. それなら,既存のメンバーと密に議論が出来ると前向きに行こうとすると,想定外の仕事が舞い込んで,それどころではなくなった. このウエブサイトの更新も同様.講義のページだけは配布物もあるので毎週更新しているが,その更新も講義前日の夜になりつつあり,危うい状況だ.

4月にメンバーページの更新をしたときに,写真を取り直そうと思い,自分の分だけは遊びでとある人物の写真を置いてみた.

私と付き合いの長い人なら,髭を伸ばした姿には違和感はないと思う. しかし,常に伸ばしているというより,何日か放置してしまうと処理しきれなくなり,そのまま伸びたい放題というのが実態で, たまに会う人には,どうしたんだと尋ねられることがある. 暖かいお言葉を頂くときはいいのだが,いかにも嫌そうな雰囲気で問われるとこちらも答えに窮してしまう. 学生の講義アンケートを期末に行うと,ほぼ毎回,鬱陶しいからきちんと剃れという苦言を頂戴する. そういう訳で,このむさくるしい顔を不快に思う人が一定割合いることは承知しているものの, 髭は濃いが肌が弱いという人には理解してもらえるのだが,不規則な生活が続いて睡眠不足に陥るとその処理は容易ではない.

それで開き直って,髭を伸ばした状態の写真を載せてしまおうと思いついたものの,新年度になったばかりで髭もすっかり剃り落としてしまったし,髭の写真は見つからない. ふと,とある人物に似ていると言われたことを思い出し,ネットで検索して配られていた写真から切り出したのが上の写真. 本当はよく知られたAndy Warholの絵を貼り付けようと画策するも著作権フリーの画像は見つからず断念. また,よく知られた写真では思想的に危うい人物とみなされる可能性も有るので,若かりし頃の写真を選んでみた. 公開以来,誰の写真かと問われることは何度かあったが,言い当てた人はまだ居ない.

話しは変わって,授業アンケートは学部の講義では実行されているが,大学院では実施されていない. 大学院といえば研究をするところで,講義など出なくても自分で必要な勉強をすればよいと私の学生時代はそういう雰囲気だったし, 今の先生方の多くもまだそう考えているように感じる.

しかし,大学院重点化以後,大学院生は倍増しその知識レベルは明らかに低下している. 自分の知らないものを吸収しようとする意欲がどうなのかは別にして,教えれば理解できるので, 持っている知識の量が足りないという意味である.

そういうことに敏感な大学では,大学院の教育カリキュラムを大きく見直し, アメリカ的に修士の学生に徹底的に勉強させる方向に変革を進めている. 何でもアメリカに倣うのはいかがなものかと思うけれども,大学院教育を何とかしなければならないことは確かだ.

今年度から部局の教育企画室などというところのメンバーに加わり,所属する部局の大学院教育の実質化に向けて,まずは,アンケート実施を進める役回りを引き受けた. およそ200ある講義から,どの程度の回収率となるかわからないが,集まるアンケートの回答をどのようにデータ化し,分析,利用するか,頭が痛い.

まずは,教員にフィードバックをかければいいのではという誰でも思いつくアイデアが,使えないらしい. 聞くところによれば,受講者数が数人ということが実際に有るらしく,回答者が特定される恐れが有るとのこと. 受講生が研究室内で閉じるような講義はゼミでやってほしいものだ. 実態にあわせて,講義ではなく,研究室のセミナーに単位を出すようにすればいいと思う. 修士修了までに10個もの専門的な講義を選択して単位を取る必要が有るのは多すぎだ.

アンケートでは忌憚の無い意見が出てくるのを望むがどうなるだろうか. 学生も学業というよりは,自分のやりたいことができるように最適化して,いい加減な授業を上手く利用している面も有るので, そういう方向で教員と学生の馴れ合いが続けば,組織としては衰退の一途を辿ることになる. そうはならないように,実質的な改革が断行されることを信じるしかないし, これまでに投入した,また,これからもするであろう少なくない時間が有意義な結果に結びつくことを期待したい.

2008年2月

今年度の卒業論文・修士論文の審査が終了した. 当グループメンバーは無事に全員合格となりそこに至る道のりについて語れば色々なことがあったことは確かだが,様々な研究発表を聞いて考えさせられた事がありここに記しておく.

私が大学院生になりたての頃,ある若き優秀な物性理論研究者が自ら命を絶ったという話を某先生から伺った. 記憶が曖昧で話が大きくなっている可能性は有るが,その先生は次のような話をあわせて教えてくださった. その研究者によると理論研究の仕事のほとんどは2つに大別され一方は結果に誤りが有る,もう一方は自分が計算したことが有り,あるいは,するまでもなく当然の結果である,と豪語していたとのこと. それは大口をたたいていたということではなく,物理に真摯に取り組み追求した結果で,それが行き過ぎて追い詰められたのではないかという話であった.

物性理論の広い分野にわたり大きな足跡を残したその研究者と比べるべくも無いけれども,そんな私でもそれはないだろうと口を出さずにはいられないような発表がいくつかあった. 物理は実証科学で有り正しい手順で得られた実験結果は必ず何らかの意味を持ちうるが,理論計算はそうとは限らない. ほとんどが誤っているか当たり前のどちらか,というのは的を得た物言いであると思う

ある物理現象に着目し,何らかのモデルを設定し,それから結果を導出し,導かれた様々な結果から普遍的事実を抽出する,というのが理論研究の一連の手順である. どこに本質的な困難があるかは問題によって異なるが,卒業・修士論文では学生自身がその困難の解決に関して本質的な貢献をすることが求められる.

その過程で重要なのが整合性のチェックである.物理のモデルでは対称性と保存則から生じる結果に対する拘束条件が少なからず存在する. 最初からそれを利用してモデルを簡略化する場合もあるが,むしろ,対称性の有る特別な場合に整合する結果が得られるかどうかを計算チェックに使う場合が多い. その確認は理論の誤りを見出すのに非常に有用である反面,面倒で退屈な作業でもある.

計算する前に対称性に気がつかないとか,気がついていても結果にどう反映されるか理解していないことはあり得ることなので,それ自体は責めるべきではない. しかし,対称性から禁じられていることを実現しようとするのはどう考えても無駄な努力としか思えない. 自分が設定したハミルトニアンから本質的な部分を抽出して対称性を議論する必要が有るが,その抽出が不十分で意図する対称性が実はその物理に関係しないことに気がつかない場合や,逆に,抽出の仕方がまずく本来成立する対称性を破ってしまう場合もあり, 対称性の議論は容易ではないのかもしれない.

私自身はそれに厳重に気を遣ってきたということはなく,むしろ,いい加減な議論をして痛い目にあったことが何度もあり,その反省から学生を指導する際には対称性が有る場合の結果を厳しくチェックするよう心がけている. 対称性を満たさなければ間違い,整合性が取れて当然.学生にとっては辛い作業が続くことになる. こちらも,追い詰めることのないよう大変気を遣うが,ダメなものをそれで良いと言うわけにもいかない.

以前,共同研究者に最初は面白いと思って研究を始めたのに私と議論を重ねるたびにつまらなくなってくると言われたことがある. 学生に繰り返し単純な対称性のチェックを要求するたびに同じように感じているのではないかと心配になる. そういえば,対称性について深く考えず発表しているように見える学生達は,気のせいかもしれないが,楽しそうに発表していた. 最初は理論の整合性などにあまりこだわらず結果を出す方向で進めるのが教育上は望ましいということなのか. 自分のやり方では研究の楽しみを削ぐことになっているのか.

対照的にウチの学生達の発表は自信無さ気で言葉も練れておらず準備不足なのは明白だった. 数日前まで結果の解釈をどうするか議論していたのだから当然の結果だろう. そこまで持ち越したのは,もっと早くに妥協して結果をまとめることはできたという意味では,私に責任が有るのかもしれない.

それでも,私はそうしなかったことを結果的には良かったと思っているし,素朴に興味を持った現象を理解したいという思いから始めた研究を,単純なモデルでその現象をコントロール出来そうな所にまで到達した彼らを最大限に評価したい. 指導教員がある程度結果が出ることを見込んでテーマを与えていると思われるような発表が少なくない中,彼らは荒削りながら私の予想を超えた現象の解釈に到達した.

議論が白熱して日付が変わったことは1度や2度ではない. 腹が減って焼き鳥屋で一緒にビールを飲みながらノートを開いて続きの計算をしたことさえ何度か有る. それは,彼らが午後遅くにしか大学に来ないこともあり,午前中から来てくれたら同じペースで議論しても夕方には帰れるのにと思わないでもない. しかしながら,それはともかく,理論の整合性を求めて度重なるチェック,多くの場合は結果が合わないためダメだしされるが,それを乗り越え蓄積した膨大な量のデータは,頑強な足場を固めてその上に議論を積み重ねることにより,確かに,非自明な結論を導き出したのである.

想定されるあらゆる整合性のチェックに苦しんだ後にようやく到達する非自明な結論を得るためのこのプロセスを楽しむのが研究の醍醐味だと思う. そういう意味では私は彼らの得た結果に感動を覚えたし,私をおおいに楽しませてくれた .彼ら自身がそう思えたかどうかが問題だが,少なくとも,頭をフル回転させ時が経つのを忘れるほど議論を重ね,データの端々に見える重要なポイントをつなぎ合わせて,現象の本質を見出すことができた経験が今後の人生のどこかで生かされることを信じている. もちろん,もっと早く結論に到達し完璧なプレゼンテーションをしてくれたらより素晴らしいけれどもそれは望みすぎだろう.

どういう研究指導のやり方がベストなのかはいまだよくわからない.研究はどの段階でも楽しく進めるほうが良いに決まっているし,命を削るようでは意味が無い. しかし,理論研究の楽しみは,単純なチェックをひたすら繰り返し築き上げた確かな舞台の上で初めて可能となるような高度な知的活動にあることを私は強調したい.

それはともかく,修士を修了して旅立つ2人はあらゆる意味でグループを3年間支えてくれた. 彼らが卒業して行くことは両腕をもがれるような思いだが,大学の研究室は常に人が入れ替わることで新たな活力を得ているところである. 残るメンバーも1年前と比較して確実に進歩していて頼もしい限りだ. 新たな人員が加わって,また,私を楽しませてくれることを期待したい. もちろん,本当に願うことは,学生一人ひとりが研究を楽しめる余裕を持つことなのだが.


2007年3月

Google Scholar による検索: ここをクリック

これにより,いわゆる,Citation Index (他の論文からの引用状況)を知ることができる. ウェブ上に公開されたデータをもとに作成されたリストで部分的なデータではあるが参考にはなる. タダでこのような検索が出来るようになったのは世の中のIT化による恩恵といえよう. 研究を遂行する過程で,ある論文の結果がどのような進展を遂げたかを調べることは,どこかの段階で必ず必要となるからこれを使わない手はない. どこで使うかは,聞いてみると人それぞれでおもしろい.

業績評価の指標として,論文の数やそれにインパクトファクターの重みを付けた数,あるいは,引用数など様々な数値が存在するが, 最近,「h-index」と呼ばれる数値が提案されている (日本語の解説)(英語の解説,こちらの方が詳しい) . 日本人研究者との会話でこれが話題に登ったことはなく,何かの評価でこの数値が用いられることは当面はないだろう.

しかし,ある研究者から聞いたところでは,アメリカでアカデミックポストを得るにはこの指数が20以上必要だというのが常識になりつつあるとのこと. その真偽は定かではないが,様々なところでこの数値を計算できるようになっているので,そういう流れにあるのかもしれない. ISI Web of Knowledge による計算では13だった.アメリカなら失業か・・・.しかし,引用度は増加関数であるので・・・などと言い訳しても仕方あるまい. 数字は後からついてくるもの.研究に邁進するのみ.

学生の皆さんへひとこと:

研究を始めると,文献を調べて勉強しただけでは解決できない問題に遭遇することが多々あります. それこそが自分が成長するチャンスと捉え,問題解決に全力を尽くして下さい.

多くの学生が研究室配属直後には研究のイロハもわからず悪戦苦闘するものの,論文を仕上げまとめる頃には,例外なく,頼もしい姿に成長しています. それは,もちろん,これから4年生,あるいは,大学院に進学する皆さんにも,同じく,大きな飛躍の可能性があるということですが, その陰には,個人のあらゆる能力を駆使し困難の解決にひたむきに取り組む日々の努力があることを忘れてはいけません.

頭の中で物理現象の再現・予言が可能となることの楽しさを感じられ,そのための問題解決に対する労を惜しまない,というスタンスが取れれば充実した研究生活を送ることが出来るはずです.

我々のグループに関心をもたれた方は,まずは,グループの学生に声をかけてみてください. 理論研究を行う学生の日常がわかると思います.もちろん,私も時間の許す限り対応しますので,お気軽にご訪問下さい.


2006年3月

Google Scholar による検索: ここをクリック

これにより,いわゆる,Citation Index (他の論文からの引用状況)を知ることができる. ウェブ上に公開されたデータをもとに作成されたリストで部分的なデータではあるが参考にはなる. タダでこのような検索が出来るようになったのは世の中のIT化による恩恵といえよう. 研究を遂行する過程で,ある論文の結果がどのような進展を遂げたかを調べることは,どこかの段階で必ず必要となるからこれを使わない手はない. どこで使うかは,聞いてみると人それぞれでおもしろい.

最近,この論文の引用回数はさまざまな場面で評価に用いられようとしている. 私の研究レベルでは,結果の重要性,問題解決の難しさ,引用回数には,今のところ相関はあまり無いように思えるのだが,有名な研究の場合,概して,大きな値となるので,何らかの意味はあるのだろう. ある研究ポストの公募で引用回数10回以上の論文をリストアップして提出せよというものがあった. 結果がどうだったのか知りたいものだ. 昔所属したある研究部局で引用回数50回以上という調査があったときの結果は意味があったように感じられた. ということは・・・.

学生の皆さんへひとこと:

研究室に所属し研究を始めると,それまでの試験勉強でのやり方では解決できない問題に遭遇することが多々あります. それを自分が成長するチャンスと捉え,解決に勤しむことが大切です. 北大に来て4年目になりますが,学生たちが例外なく飛躍的に成長していく姿を見て,羨ましく思う限りで, これからの皆さんにも大きな飛躍の可能性があるということです. 研究に何が大切かといえば,頭の回転が速いことは不利ではありませんが,それよりもむしろ困難に直面した時に集中して解決に努力できるということだと思います.

我々のグループに関心をもたれた方は,まずは,グループの学生に声をかけてみてください. 理論研究を行う学生の日常がわかると思います. もちろん,私も時間の許す限り対応しますので,お気軽にご訪問下さい.