うつろいゆく思考


20160116

昨年秋から学科の2年生のための補習講義を担当している.2年前期の専門科目で不合格者が例年になく増えて,留年者が大量に出るのではと危惧された.必要なら自分が担当すると部門会議で口にしたのは,それなりに勇気が要ったが,諸事情により大学での業務に力を入れられない時期が長く続いたんで、それを許容してくれた同僚への罪滅ぼしになれば,ぐらいの気持ちであった.

娘の中学進学を機に妻娘を東京に送り出し,その前後に想定外の問題が色々と起こったんだけども,1年半が過ぎて,ようやく落ち着いたなと思えた時,自分に残された大きな懸案は名古屋で暮らす持病のある父親のことだったが,昨年末に急死した.

自分が物性研に居た頃,動脈が詰まり心臓バイパス手術を受け,危機は脱したものの,その後も何度も救急車で運ばれるような状態だった.このサイトでも,父のことだとは表立っては書かなかったが,分かる人にはわかるように近況を記してきた.はっきり言って,子供の頃は好きじゃなかったし,あんな奴早く死ねばいいと友人たちと話していたのを覚えているから.今時の若者たちがシネとかコロスなんてつぶやいてても驚きはしない.

しかし,最近,ある学生の飲みっぷりの良さにこちらも調子に乗り日付が変わるまで一緒に飲み続けた結果,寝坊して翌朝の講義に出られないという事象が発生した時,両親に申し訳ないと素直に反省の言葉を口にする姿が印象的で,自分の馬鹿さ加減が強調されたようで辛かった.やはり,育ちの問題でなのか,三つ子の魂百までで,子供の頃に形成された人格は一生変わらないのかもしれない.

そんな親不孝者でも,3年前に父が一時危篤になってICUで2週間過ごし,いつ死んでもおかしくないと悟った時に,次に倒れた時はもう病院か施設で過ごすことになるだろうから,その時は,自分が面倒をみようと心に決めていた.妻娘の東京生活も落ち着いて自分なしでも十分回ってるし,大学でも,誰も行使しようとしない,サバティカルを取る権利があるからそれを使って,いざとなれば辞めてでも,自分が名古屋に行く,なんて飲み会で自分の決意表明のような話をして帰宅したその深夜に電話があった.

ほろ酔い気分で帰宅し,補習講義の成績判定をどうするか考えて深夜2時過ぎに関係する先生方にメールを送った直後で,その時点では父はまだ病院に居たんだけども,新千歳からは朝8時まで飛行機は飛ばない.慌てて,フライトを予約し,仕事の代理をお願いするメールをいくつか書き,しばらく帰れないことを覚悟し、全身真っ黒となる服を選んで着替えて,大学に向かった.補習の再試験の採点結果にクレームがあり,調べたら,確かに集計ミスが見つかって,当人には結果を知らせた.

学期が始まる直前に,講義内容のデザインからはじめて週2回の演習を実施して答案の採点もするとなると,自転車操業となり,チェックが甘くなっていたのは確かだ.慌てて,点数集計作業を再度他の方にお願いするよう手配し,他にも一箇所ミスが見つかったが,成績評価に影響はなかったので,ご容赦願いたい.

深夜からみぞれのような雪が降り積もり路面は最悪で,札幌駅までの徒歩の道のりで,靴はずぶ濡れとなった上に,一番早くセントレアに着く予定のフライトを選んだが,雪のため1時間以上遅れ,正午過ぎに父の亡骸と警察で対面した時に靴はすっかり乾いていたのを妙に覚えている.

自宅近くの道路で倒れ,救急車で担がれた大病院では2時間程度の蘇生処置を試みたらしいがそれまでだった.死因解明のための検査結果では,外傷もなく,内臓からの出血もないため,死亡診断書に二重線が引かれた死体検案書の直接死因は不詳とされた.

病院に居たのは4時間ほどのようだが,診療明細と保険適用前で20万円ほどの請求書が渡された.蘇生措置よりも,大量の画像診断の費用と集中治療室1泊10万円で決まったようなものだ.打撲による内出血や,内臓における出血があれば,必ずわかるという話で,結果としては,脳梗塞もなく,心臓が止まったとしか言いようが無いとのこと.大病院が遺体を長く預かってくれないという話は聞いていたが,死因不詳で事件性がないか捜査する必要があり,警察に押し付けたということだ.

持ち物に診察券と保険証があったにもかかわらず,かかりつけの病院に運ばれなかったのは運が悪かたっとしか言いようがなく,そこなら自分も知っている医者が居たので対応が違ったのではと悔やまれる.病院の遺体安置所も落ち着くものではないけれども,警察署はこんなものかと愕然とした.もちろん,冷たくなった父との対面という現実が重すぎて,それを受け止められず,些細な違いが気になったのかもしれない.

しかし,むしろそれでよかったのかもしれないと今は思えるのは,警察の人々が大変親切にしてくれたからだ.冷静に考えると,どうしてそこまでしてくれるのかというぐらいの対応だった.病院との往復にクルマで送迎してくれた上に,やり取りはほとんど任せてしまったし,きちんとした葬儀屋を見つけるのも,彼らの助けがなかったら,いったいどうなっていたかと思う.

私が幼い時に離婚して,基本的に,父子の二人暮らしで,父の血縁関係で付き合いは一切無かった.私が大学に入って上京し別々に暮らすようになってから,父に連れ添いが出来た.それはそれで色々あって,この数年は別々に暮らしていたんだけども,行き来は頻繁にあり,孤独でなかったのは良かったと思っている.

警察には世話にはなったが,一刻もはやくここから出してあげるために葬儀屋を決めようと思った.落ち着いて遺体と過ごせる場所はなかなか見つからず,できるだけ早く火葬をと希望を出したら,翌日の朝なら火葬場の仮予約が取れたということでそれに賭けた.

私が父と過ごしたのが18年で,それよりも長い歳月連れ添った家族と見送ってやろうと考えたのだが,最期ぐらいは本当の家族で見送ればいいと遠慮してくれた.東京から駆けつけた妻娘と私の3人で,通夜はなし戒名もなしで,翌朝,お経だけは唱えてもらい,葬儀と初七日までの儀式を済ませ火葬場に向かった.

朝10時で一番乗りかと思いきや,既に,独りで火葬が終わるのを待つ女性を何人か目にした.親なのか配偶者なのかは分からないが何をするでもなくぼんやり火葬が終わるのを待つ姿には,自分もそうなる可能性を若い頃から想定してきたし,核家族化が進んでお一人様も増えた現実を垣間見た気がする.

火葬場で全骨収拾を希望するなら事前に伝えることとあり,名古屋では部分拾骨が一般的らしい.火葬場が霊園にあり,残りは合同埋葬するとのことで,焼き場が不足してかなり混雑していることで時間短縮の意味もあるだろうけども,東京での葬儀と比較するとちょっと驚く.

火葬するには火葬許可証が必要で,そのためには死亡届を出さねばいけない.死亡を届け出る場所が,死亡地,本籍地,あるいは,届出人の居住地とされているのには困ったが,葬儀社の機転が利いて,住民票のある役所で手続きが出来た.マイナンバー手続きで大混雑しており焦ったけれども,間に合ってよかった.名古屋に着いて父と対面してから,怒涛の24時間だった.

その後、妻と娘と食事をして,新幹線で彼女らを東京に帰し,遺骨と父の住んでいた部屋をどうするか速やかに考えなければならなかった.部屋は私の名義で借りているので,しばらく放置することに.父は実家からは勘当されたようなもので,墓に入れてもらえるはずもなく,死んだら骨は捨ててくれればいいと言っていたが,骨を許可無く捨てるのは違法である.

父は離婚後程なく別の女性と暮らすようになり,私もいい人だと思っていたのだが,1年ぐらいで家を出て行った,むしろ,その別れの方が記憶として深く刻まれている.それからしばらくして,小学校入学前だったと思うが,無理したんだろうか,仕事で大きな怪我をして永く苦しむことになる.高校時代に,頚椎を削る大手術をして3ヶ月入院したが,左半身の麻痺が完治することはなかった.そんな状況に陥ると,藁をも縋る気持ちになるもので,怪我をして1年ぐらいは幼い自分を連れてあちこちに出向いたが,どこかで開き直ったのだろう.

その後も,様々な宗教から勧誘を受けるのだが,見事に論破して撃退していた.フツウの人よりは人生で不運なことが重なったこともあるのだろうか,神の存在を否定する話に妙に説得力があり,また暇だから勧誘話にじっくり付き合いながらやんわり入信を断り続ける.根負けして勧誘を諦め退散していった人々を何度も見た.

幼い子供を抱えて,身体が思うようにならず,一時は自殺まで考えたことを知った時は複雑な思いだったが,自分は好きな様に生きてきて悪い時もあればいい時もあったから,それで充分で,何にも干渉されたくないと言い続けていた.そんな宗教嫌いの父を,形式的な宗教的儀式で祀るのは考えられない.東京に新幹線で運んで永代供養できる場所を探そうとも考えたが,いずれは自然に還るようにするとしても,しばらくは札幌で一緒に過ごそうと遺骨を持ち帰ることに決めた.

そこで,航空会社に問い合わせるも,どこも,奥歯にものが挟まったような言い方で,感じが悪い.理解したのは,遺骨を機内に持ち込むのは問題ないが,それが他の客に遺骨と気付かれないようにすることと,離着陸時は足元か収納ケースに入れるか,座席をもう一つ購入してそこに置く,ということであれば,問題ないということだ.

幸い,骨壷は小さく,リュックに入るほどで,うまく梱包すれば,座席下にも入る程度だったので,座席を余分に購入することなく,持ち込めると判断した.荷物検査場で,お荷物横にしてもいいですか?と必ず尋ねられることをこれまでは鬱陶しく思っていたが,今回だけはその配慮に感謝した.ダイソーで様々な梱包グッズを買い込み,外見はおみやげのような状態だったので,検査員も見た目では遺骨とはわからなかっただろう.

一番怖かったのは,札幌に帰った時の凍りついた路面だった.タクシーに乗ればよかったのだが,なんとなく,リュックで抱えて歩き出したら,足下が見えず,滑ってかなり焦った.背負いに切り替え,なんとか自宅まで持ちこたえた.まあ,落としても問題ないぐらいにガードしたつもりだが.

しかし,名古屋市街地から空港まで移動する電車でリュックに入った遺骨を抱えて座っていると,熱田神宮あたりで車窓から見える風景が様々な記憶を蘇らせ,思いがけず,涙がこぼれ出し,空港に着くまで止まらなかった.楽しいことも,苦しいことも,次々と思い出され,自分が父との記憶を,忘れていたんではなくて,封印していたんだなあと今更ながら気がついた.

軍人だったという祖父に厳しく育てられ,嫌になって高校を中退し,家を飛び出したと言っていた.ある人が,祖父は近衛師団に属して昭和天皇に仕えたぐらいだったから,あの戦争に勝っていたら父も御曹司だったのになあ,と言っていたが真偽は定かで無い.それでも,Wikipediaに名前を見つける事ができるぐらいだから,それなりの地位の人だったんだろう.祖母が癌になって,介護が必要になり,それが元で離婚することになったという話だから,介護問題はその頃からあったということだ.程なくして祖父も死んだと父は言っていたがそこは話が曖昧で良くわからない.

学歴は無かったが,頭のいい人だった.こちらが何か言うと,大抵,そうとは限らないと反例を指摘してきて辟易としたが,論理的思考力は父に鍛えられたんだと思う.小学校高学年ぐらいからはまともに会話をしなくなり,中学時代はやりたい放題だったのを,よく放っておいてくれたと思う.もちろん,要所要所でアドバイスはくれた上で,自分もやりたいようにやってきたから,お前も好きな様にしろと繰り返していて,それが父の本心だったのかどうか,今となっては知る由もない.

自分が子育てを経験してみて,よく父親独りで育ててくれたなと思わざるを得ない.あの父なら再婚しようと思ったら出来たはずだ.自分だったら,自分のような子供を独り身で抱えることになったら,施設に預けるんじゃないかと思う.迷惑はかけないから大学は東京に行かせてくれと伝えた時の,父の年齢に到達したが,あの時には,自分の願いが叶うかどうかしか頭に無く,父の気持ちに思いを馳せることはなかった.

今更ながら,聞きたかったことがたくさんあるにもかかわらず,その答えを聞くことが叶えられないという事実に打ちのめされ,いろいろな記憶が蘇り様々な感情が呼び起こされ頭のなかを占有していることで,それまでの自分とそれ以後の自分の連続性が保たれないとさえ感じる.

年が明けて仕事に復帰してすぐ,私が名古屋にいる間に実施した補習講義に関するアンケートの結果を,事務の方が,わざわざ,コピーを残してくださり,渡してもらった.それをパラパラと見て,補習があってよかったという回答がいくつかあり,これまた思いがけず,こみあげるものがあった.

これまでは,講義アンケートは結果が良ければ,それは講義がうまく出来た,悪ければ,うまく行かなかった,ぐらいにしか思わなかったが,今回は,何故か,感謝されているように感じ,彼らの役に立っていることが嬉しく思えた.それでふと,自分は父に感謝の意を伝えたことがあっただろうか?という疑問が浮かび上がり,全く思い出せないことに愕然とした.

この数年は,主に携帯メールでのやり取りだったが,何を話題にするか困っていたはずで,一体何だったんだろうと思う.聞きたいことを次々に尋ね,何もなければ,些細な事に感謝し,いままで育ててくれてありがとうと毎日伝えたって良かったんじゃないか.

若い時は,父が亡くなったらせいせいするのでは?ぐらいに思っていたのがこの有様で,独りで火葬場に行くことになっていたら心が折れたに違いない.すぐに駆けつけてくれた家族の有り難みを痛感したし,仕事で関わる人々も惜しみなく助けてくれて,講義のために札幌に一度戻った時に声を掛けてくれた人々の気遣いは本当に身に沁みた.

死ぬのなんて怖くないし,どうせ死ぬのになぜ無理したり我慢したりするのか?という思いが昔からあったが,父の死がこれほど堪えるとは想定外だった.自分が死ぬことでそのような思いをするかも知れない人々のことを思いやり,彼らとの離別を想像できるようになれば,自分も死を恐れるようになるのだろうか?あるいは,それも強がりにすぎないんだろうか?

この動揺は,自分にも人間らしい感情が内在していたということなのか,あるいは,単に理屈で感情を押し込めていただけなのか,よく分からない.自分のした行為や持てる環境などの外から見える部分と内なる自分自身を切り離すよう努め,理性重視で深く考えれば,外にまとったインターフェイス部分で大抵のことは処理できるというつもりでいたが,内面にある人間としての感情や生き物としての本能をもっと大切にした方がいいということなのかもしれない.

共同研究者から論文原稿が送られてもう投稿できるというところで,このような事態となり,しばらく作業がストップすることの許しを請うメールを送ると,すぐに返信を頂いた.その人も父親が心臓を悪くし似たような境遇にあったこともあり,気にかけてくれていた.そういう状況なら,苦しまずに亡くなったのではないかとの一文で,父が3年前に倒れて危篤になり,意識が回復してから,あんな風に苦しむことなくす~と意識がなくなって死ねるなら,それが本望だと言っていたことを思い出し,少し救われた気がする,

その時はこちらはそんな風には考えられず,脳への血流が不足すると,もう自分で話をすることは困難で,救急車を呼ぶことも無理であるということを知り,その時から,孤独死したらどうしようという心配が常にあった.世の中進んでいて,そういう事態を想定し,警備会社は様々なプランを用意しており,何か申し込むかと考えていたところだ.

夜の横断歩道で倒れていて,自動車事故に遭遇せずよかったと警察は強調していたし,救急隊員によれば運ぶときには息はあったという話をした時の,孤独死でなくてよかたっという,身内を孤独死で亡くし3週間後に発見されたという経験を持つ方の言葉には重みがあった.自分のコントロールが効かなくなったとき,あとは偶然の重なりに身を委ねるしか無いわけで,死に方を選ぶのは難しい.

どんな死に方でも納得行くことはないんだろう.しかし,時間の経過が苦しみを軽減してくれると期待しよう.酒量は,ますます,増えそうだが.

私と父の関係は特殊なものかもしれないけれども,どんな家族にも,それぞれの履歴を反映した特別な関係性があるに違いない.どなたにも,頼るべき親兄弟が居るうちは,いつでも,感謝の意を表し続けることをおすすめしたい.孝行のしたい時分に親はなし.知識としては持っていても,それを実践に活かせない自分の浅薄さを思い知らされた.オヤジの最期の教えだと肝に銘じたい.

名古屋に何度か足を運んで,ようやく,部屋の片付けに目処が付いた.狭い部屋ながら,きちんと整理され,どこに何があるかはすぐに分かる状態だった.自分の部屋とは大違いだ.ホント,ちょっと出かけたという雰囲気で,しばらく待っていれば,帰ってくるのではないかという気にさせるほどだ.様々な手続きに必要なものと形見になりそうなものをより分けたら,あとは遺品整理屋に任せることにした.業者も色々で,迷ったけれども,見積もりに来た担当者の対応で一つに決めた.

電気とガスを止めるのに電話しても全くつながらず,ネットで出来るとアナウンスが流れるのでトライすると,英字を全角で入力することを強制する入力フォームだし,実際に存在しない情報の入力を必須項目としていてダミー記号を入れないと先に進めないし,請求書の送付先を職場でもいいとしながら事業所の個別郵便番号は受け付けないし,もうあり得ない仕様の連続だ.きっと,ITゼネコンに丸投げし,その下請け業者が,易く請け負い,こんな利用者のことを考えないモノが出来上がるんだろうなあと想像してしまう.

1人の人間が亡くなることで発生する事務手続きは,相続関係を除けば,基本的に,引っ越ししてあらゆる環境を一新することと似たようなものなんだけども,他人が実行しなくてはいけないという点で手間が大きく異る.個人情報保護法は,対応する者が罪に問われないようにと膨大な無駄な作業を生み出し,プライバシー保護とバランスが取れてるとは言い難い.責任回避のために仕事が増えているのは大学も同じだが.

これまでなら,些細な事でも,無駄や不公正なことを感じると,すぐに大声を出して,おかしさを主張したものだが,今は言われるがまま,出来そうなことは淡々とこなし,難しそうなことは放置.

今までは見えていなかった大きな支えを失い,何のために生まれて何をして生きるのか?なんて考えだすと,自分にとって些細な事はどうでもよくなってきて,これをしなきゃ,あれもしなければ,というような追われる感覚はかなり減衰した.

死の恐れを知り繊細になっていくのか,死の重みを知り些細な事は気にしなくなるのか,いずれにしても,しばらくは父の死と向き合いたい.

そういえば,献体に申し込むからと,同意書にサインさせられたのに,親族二人以上の同意が必要ということで頓挫していた.こんなことまでもひとり親家庭に世の中は厳しいのかと呆れたが,最近は希望者が増えすぎていて,バリアを上げているのかもしれない.そんなこんなで,死後どうするか何度も話し合ったものの,決心を固めることは難しかったようだ.

介護でお前に迷惑をかけることはない,俺は施設になんて入る前に病院で死ぬから心配するなと生前に言っていた通りになった.それでも,自宅近くの賃貸物件を契約までしたのに,一度も来ることがなかった札幌に,骨になってやってくるとは考えていなかったに違いない.人間万事塞翁が馬,まさにそれを地で行く人生だった.安らかに眠って欲しい.


20150817

たまたま国内で開催され,久しぶりに参加した国際会議から戻ると,所属する専攻の存続が危ぶまれるような話が出てきて頭を抱える.隠しようがないので事実の一端を述べると博士課程の定員の充足率が低すぎるとか.確かに,ここ何年か50%を割っている.北大は文科省の要請に対してグローバルに通用する研究者を育成するというプランに手を上げた訳だから,それに見合った貢献をしていない部局に改善を求めるのは当然の成り行きではある.

専攻を分割するという案があるらしく,それなら,博士を育てられる研究室とそうでないのとで分割して,将来的には一つを存続させ,もう一方はお取り潰しでいいじゃないかと偉い人に提言したら,そういう消極的な変革は認められないとのこと.

これに関しては,自分自身,北大に来て13年目でありながら一人も博士の学位を出していないという事実が重くのしかかっている.私が指導した学生で,成績優秀者に与えられる特権である大学院入試における筆頭試験免除の対象となったのは片手では足りない程いるのに,博士に進学したのは一人だけで,その男も学位は取得せず別の道を歩もうとしている.修士に進学した学生はほとんどが国際会議での発表を立派にこなし,研究を継続すれば博士の学位を得るのに十分な成果を出すと思われるのにこの有様だ.それで,皆が特別幸せであるならそれでいいかと思えるけれども,ありふれた暮らしぶりなら,進学をもっと強く勧めてもよかったのでは?と思わないでもない.

それでも,自分の行く道は自分で決めるのが最善であると信じているので,学生の進路を強制的に決めてしまうなんてことはあり得ない.自分はお取り潰しになる方に回してくれていいし,単なる運営資金の問題で何人かが早期退職することで専攻の長期存続が約束されるなら手を上げてもいい.あくまでも,教員と学生の自由意志が尊重されることが,研究・教育の場としての大学の存在意義であるはずだ.その信念を曲げるようなことがあれば重大な何かが起きているということで,それに自分が気が付かないことは無いと思っているが,迷える今の心情を記録に留めておこうとこの文章をタイプし始めた.

自分自身のことは今の若者には参考にならないかもしれないが,大学に入った時の将来構想としては,お金を沢山稼ぎたかったし,大企業で管理職になれば公務員やそれに準ずる給与体系の大学教員よりずっと稼げるとのことだったので,研究室配属について具体的に考え始めるまでは企業に就職するつもりだった.大学院重点化直前で,定員が学部の半分程度であり,希望する研究室に行くためにはそれなりの努力が必要であることなど全く知らず,今現在専門としている物性理論の研究室があることも把握してなかった.というより,実験をせずに学位が取れる学科だとすら知らずに進学した.数学を究めることを諦め,少しでも就職に有利な実学がいいという意識が少しはあった.

大学1年から自宅に就職情報誌が送られてくるし,4年の時もまだ,就職する気がなくても,リクルーターが寿司をご馳走してくれる時代だった.バブル崩壊は就職状況を一変させ,修士の時には,就職希望者はせっせと会社回りをしていたし,夏にグループで関西の企業の見学に行っている間に電車に身を投げた者まで出た.博士進学を決めていた自分は同行しておらず,その知らせを聞いた時のなぜ?という思いは今でも消えていない.

成人して四半世紀で世の中大きく変わった.バブル経済で潤った業界はどうなったか?不良債権を抱えた大銀行は全て一時実質国有化された.超低金利で世の中から金を集めながらも融資能力は相変わらずで,日本国債を買い増し国の借金体質を支え続けている.北海道の主力銀行が潰れた影響は今でも残っていると聞くし,大手証券会社も潰れた.バブル崩壊後大儲けしてTVCMを流しまくっていたローン会社はいつのまにか大手銀行の傘下に取り込まれている.エネルギー資源関係に重心を移しうまく舵取りしたようにみえる総合商社もここ数年の価格下落による含み損を隠しきれなくなり,その損失を取り戻すのは容易でないように思える.

流通系は外国人観光客の爆買で株価を上げているが,これまでの店舗縮小とリストラの効果が現れてきた結果にも思える.それでも,アパレル中心の商売から脱却しない限りは今の経営規模は維持できないだろう.つい最近,何年かぶりに自分で服を買う気になり,とある海外ブランドが日本のアパレルメーカーとのライセンス契約を解除し直営店の販売に集中して高級化路線を全面に出すと聞きつけて,その前にと札幌の百貨店に行ってみた.確かに,客はほとんどが外国人で,店員が片言ではあるが堂々と英語でやりとりしているのには驚いた.少なくとも,コンビニ,居酒屋,工場の単純労働などでコツコツお金を稼ぐようないまどきの学生に買える価格ではない.

もう日本人男性の半分ぐらいはユニクロがあれば十分なのではと思っていたが,渋谷のZARAやH&Mなどの外資系ファストファッションに入ってみたら,デザインはもちろん安さでも決して負けてない.大人買いしたつもりだが,先のブランドショップではポロシャツ一枚も買えないほどの値段で,価格は10分の1ぐらいの感覚だ.ライセンスを切られた方も大手だけども,経営的には勝負にならないだろう.ファッションに関しては消費者の立場になれば今の若者の方が恵まれている.しかし,ブランドやデザインのライセンス商売で潤っていたセクターでの雇用は,こちらも大手商社が握っているが,縮小していくに違いない.

応物系専攻の主な就職先である電機メーカーも,何千億の赤字を垂れ流しながらやっていけるのは不思議だけれども,雇用面では大打撃だ.利益を上げているように見えたところも巨額な不正経理が発覚して,あれで逮捕者が出なかったら,組織のためなら何をしてもいい社畜バンザイという価値観が意味を持ち得るわけで,メーカーにかぎらず,大会社に務めることがどういうことか,よく考えたほうがいい気がする.数人の役員を犯罪者として差し出すぐらいで済むのなら経営判断としてはそれもありということになるのかもしれないが,グローバル化した経済状況下ではそんな企業は淘汰されると信じたい.

就職先としての大学はどうか.最近,国立大学を独法化したのは大学に自由を与えると同時に競争を促すためじゃないんですか?と若い人が真顔で言うので,そんなの公務員削減のための数合わせであって自由度はむしろ減ってお上の締め付けがきつくなった,と本気で答えた自分のような人間が大学改革を阻害しているのかもしれない.それは棚に上げて,自由に研究がしたくて教育にある程度の意味を見いだせるのなら,私が知る範囲では,国立大学教員はいい身分だと思っていたが,自分の指導する学生たちには先見の明がありそのようには感じていなかったのかもしれない.理解する面もあると同時に残念にも思う.

学位取得後に助教として採用されるために必要な業績がどの程度のものかはここでも言及してきて,それは一定の労力をかけることで達成可能であり,その基準は今でも通用すると思っている.一つの例として参考になればと自分がここまでたどり着いた経緯も晒してきた.何度でも強調するが,私のところで修士論文を書き上げていった卒業生たちは,自分の院生時代よりずっといい仕事をしているし,研究を続けていく資質が十分に備わっていたと確信している.

彼ら自身がそう自信が持てないというだけのことならこちらで肩を押すことはできるし,より積極的に声をかけていくべきなのかもしれない.しかし,それぞれの価値観で判断して,その労力をかけるに値しないということなら,どうしようもない.面白いと感じないことに没頭するなんて無理だし,義務感から研究するぐらいなら,民間企業で働いたほうがハッピーだろう.

さらに,その先は険しい道程だ.数年前に聞いた話でも,グローバルにアクティビティの高い部局で物性理論の准教授を公募すると,それだけで決めるわけではないにしろ,citation index は1000程度が最低ラインになるらしい.自分が採用された時はそんな基準には程遠かったことを考えると,運が良かったとしか言い様がない.あるいは単にここのアクティビティが低いということなのかもしれない.今でこそクリアしているけれども,この数字が基準になっているのだとしたら,フツウの人が個人の努力だけで達成できるレベルではないと思う.

しかし,それは民間企業で出世するのにも似たようなことがあるに違いなく,終身雇用が崩壊しているのは明らかで、多くの企業が50歳超えの社員をどのように扱っているかは知ってみるとかなり厳しい現実がある.それと比較すれば,任期付き教員の身分も,私自身3つ経験してそれなりに神経をすり減らしたけども,民間企業に行った人々と比較して不安定な立場だったとは思わない.

要するに,グローバルな比較において日本のあらゆる分野の労働生産性が著しく低いことに対する修正圧力が高まっているということなのではなかろうか.民間企業の多くは先行して最適化が進み,グローバル化の波に乗ろうとしている.大学でも既に事務職員の多くは非正規雇用化されており,教員も法人化前と比べれば組織運営に大きなリソースを差し向けている中で,研究・教育にもメスが入れられたということだろう.

北大ではグローバルに羽ばたくどころか札幌から出たくないという学生も珍しくないんだが,他方,今回の国際会議でよく知るM1の二人が次々に現れる外国人研究者に一所懸命にポスターの説明をする姿は頼もしかったし,何ができるのかはわからないけども刺激を求めて留学したいと相談してきた学生が二人この夏アメリカへの短期留学を実行に移したのも素晴らしいと思う.多様な学生が混在していることから,平等主義では皆が沈むだけなので,もう,やる気のない学生には好きにしてもらって,研究の意欲がある学生に集中しろという導きとしか思えない.

学生実験委員会の委員長として,若い先生方のリソースをやる気のある学生のために使ってもらえるようなシステム改革に乗り出した.講義に関しても,成績上位層の学生達から,実際にはもっと柔らかい物言いだったが,一部の講義であまりに簡単な事しか扱わないのは我々を馬鹿にしてますなんて勢いの苦情が,飲み会でだが,出てたのには驚いたけども,希望の光とも言えよう.今年から担当する後期の量子力学の講義では学生を飽きさせることが無いよう鋭意準備中である.

思うに,試験で6割の得点で合格とするんだから,6割を理解できるような内容にしておけばいいということなのではないか.トピックを広げ多様性を持たせ,最低限6割の内容に集中すれば良いとした方が,狭い範囲を全て確実に理解せよと期待するより,経験値が上がって将来的には役立つ可能性が高いはずだ.狭い範囲を確実に理解するというのは研究室に入って専門性を高めてからでいいと思う.

それでも,できるだけ多くの学生が理解できるようにという考え方も否定はしない.多様性がある方が生存戦略上は有利なはずだ.ある先生は中の上ぐらいの学生がよくわかるようにと講義してるんでうちにはとびきり優秀な学生は来ないんですと謙遜されていたが,確かに一定レベルの学生を集めているので,それぐらいの戦略はあっていいだろう.ともかく,理解度の高い意欲ある学生には先へ先へと自学自習を怠らないようにお願いするしか無い.研究室配属前でも,一定人数が集まれば,例えば,場の量子論の輪読をしたこともあるし,個別に先に進むためになんらかの協力はできると思う.成績が思わしくない方にも申し出があれば対応したい.

あとは研究をきちんとするだけだ.やる気のある学生は,是非,インターンシップとして研究室に出入りして,研究を早く始めたらいい.博士課程に進学するかどうかなんてのは入ってから考えればいいんで,むしろ,勉強と研究の違いを早い段階で知り適正を見極めた方がいい.

少なくとも物性理論研究では,物理現象の本質を端折った簡単な説明で納得していては自分で新たな結論を導くことは難しい.新しい原理を見つけようとするんだから,何を見ても答えが書いてあるはずもなく,自力で計算してそれを他人に納得してもらえる説明ができるようになるまで,ひたすら,わからない状態と悪戦苦闘が続くことになる.なので,何かがわからない状態にあることへの耐性がある程度ないと辛い.こういうことを言っているから敬遠されるのかもしれないが,どんな難題でも,簡単な問題に分解して,これはわかる,それもわかる,と地道に理解を積み上げ,小さな報酬に喜ぶことで少しずつでも前に進めると思える楽観性が求められるのは事実だ.

労働生産性が低いとは,仕事という労働のみならずゲームや恋愛など私的活動でも成立する普遍的な公式:(ヒットレシオ)×(試行回数)=(成果)を(ヒットレシオ)=(成果)/(試行回数)と変形して,この値が小さいことを意味する.多くの学生は試行回数を減らして効率をあげようとしているのに対して,教員はこれを増やして生産性を下げ,ブラックな研究室になっていると見ることもできる.

しかし,現実に起きていることはそういうことではない.ヒットレシオとは,その時点での能力と言い換えてもよく,学習効果を無視すれば,試行回数で変わるものではない.つまり,学生は必要な成果を過小評価,あるいは能力を過大評価して試行回数を減らし,教員は過大な成果を要求し,あるいは学生の能力が低いと考えて,それにあわせて試行回数を増やす必要があるということで,そうなったら,すれ違うのも当然だ.

世の中が変わったからと説明することもできる.同じお金を稼ぐのも,同じ学位を得るのも,昔と今では,求められる成果の量が全然違うということであり,それに見合った知識やスキルを持ち合わせていないせいで労働生産性が低いのだという事実を受け入れ,スキルアップに取り組まないと状況は改善しない.衰退していく話ばかりしてきたが,隆盛を極めた分野が消滅してしまうことはそんなになくて,ヒットレシオと試行回数を極限まで高められた一部の勝ち組だけが生き残る格差社会になっているとうことだ.

経済の方はグローバル化に対応してきた企業が生き残り,求められるスキルが上がって就職が難しくなっているのであろう.大学も学問が成熟してくると新しい知見を得ることが難しくなってくるのは不可避で,さらに経営の効率化も求められているということなのかもしれない.

成果は小さくていいから試行回数を減らすことで効率をあげるべし,何でも楽なのが良い,という価値観を持つ人間に大きな成果を求めるためには,その価値観から変える必要がある.大学の改革がどのように進むのか想像もつかないが,ゲバラが現地住民を教育しながら仲間を増やし革命を目指したことを同列に考えるのは極端すぎるとしても,我々教員一人ひとりが学生たちの価値観を変えるだけの説得力,実行力,人間的魅力を持ち合わせているかということが問われているとすれば,自信が持てない.自分もどちらかと言えば,お金のためだけに働くことはしたくない派だ.給料半分にして,倍の人間を雇えばいいとずっと主張している.

上に立つ者として素朴に考えると,人を変えるなんて容易ではないことはすぐに分かるのだが,下の立場になれば,いい意味でも悪い意味でも先輩方の価値観に影響されないなんてあり得ない,とも思う.自分がM1の時,ある先輩が別の先輩のことを,くだらない論文を量産しやがってと罵っていたことは,自分に小さくない影響を及ぼしているし,自分も含めたそこ出身の多くの人々の出版論文数が業界の中では多いと言えないのは,その価値観が共有されているからではないかと邪推している.世間一般にわかりそうなアナロジーで言うと,いわゆる,意識高い系と呼ばれる人々の行動が,実力が伴ってないと,低評価になるのと似ている.

今では,ディスっていた方もディスられた方も,大学教員になっていて,この事例からはその価値観がどれほどの意味を持つのかわからない.何が重要で何がくだらないのかきちんと説明できないようではダメだと思うんだけれども,クズ論文を出し続けてはいけないという価値観はけっこう幅を利かせていて,そう思っているであろう方々が,どこそこの人事はおかしいでしょうと不満を述べるのを何度も聞いたし,そういう人々が関与する人事ではくだらない論文を量産していては採用に至らないんだろうと思う.ちなみに,人事は通常教授案件なので私自身は現在全く関与していないことは注意しておく.

しかし,学生としてでなく職を得て研究に取り組むとその価値観が実は二流であることを思い知らされた.きちんと定義されてないものを一流とか二流と判断するのもおかしな話で,それを上手く説明できない自分は,二流どころか,三流の研究者なのかも知れない.この価値観の議論はいまだに自分の中で普遍化されておらず,具体的な話をここで述べる勇気はないが,あえて言うと,くだらない論文を量産するかしないかは,いい仕事をするかどうかとは無関係に思える.数としては,論文が多くないしいい仕事をしているようにも見えない研究者の方が多数派だ.若い人は採用されるまで論文を出し続けるしか無い.

いい仕事が何かももちろん価値観に依存する.今の自分は,基本的なことをやれ,という教えに従っているつもりだ.どんな分野でも,基本的な要請があって,そこから導かれる普遍的な事実を明らかにしろということだと理解している.普遍性というのは難しい言葉だが,安定性があると置き換えてもいい.モデルのパラメータをこういう値に選ぶとこんな現象が起きますなんてことばかりやっていてはダメで,むしろ,どういうパラメータを選んでもこういう現象になりますと言えることをやれ,というお言葉をそれを体現している人から頂いた時は,物性理論の仕事は未知の物性測定値を予言することだぐらいに考えていたそれまでの自分が全否定された気になり,かなり凹んだ.

それでも,確かなことは,何事も一流なものに触れると世界の見え方が変わるということ.それで自分が一流になれるわけではないが,真実を知ってしまうと誤魔化しが効かなくなるという感じか.自分が一流でないことを思い知らされてこそ,新しいステージに立てる.というか,一流の人と同じことをやっていては勝ち目がないので違うことをしようと思える.あるいは,一流の人に食い下がって教えを請い続けるのもありかもしれない.いずれにしろ,無知の知という認識論的自己反省が重要であることの典型例だ.

研究とは関係のない場面でだが,最近,怖いもの知らずで失うもののないバカには近寄らないほうがいいという話を複数の人から聞かされ,フクザツな気分になった.世の中の階層構造の分断というか,格差が拡大し,その固定化が確実に進行している気がする.それぞれのコミュニティにそれぞれの常識があるといいうことで,それが通じない人々とは交わりたくないということなのだろう.プライベートな生活圏をどう守るかという話なら,そうなるのも致し方ないのかもしれない.

今の大学入試のやりかたは,投資効果が有意にあることは確かだけれども,どんな家庭の子女でも高校まで行ければそれなりのリソースに到達できるはずで本人の能力に応じた努力をすれば合格可能だから,階層間移動を可能にするいいシステムだと思う.ここでいう階層とは,もちろん,経済的な観点からの一次元軸で異なる座標にいるということだが,実際に学生に接すると分布の広がりを感じるし,クラス担任をして詳しい家庭状況まで把握するようになると,それを確信できる.

国立大学の授業料免除は,基本的に,家庭の収入で判断されるが,自分は学部4年間一度も払ったことはない.若い人に自分がどういう環境で生まれ育ったかを説明するときに,「こんな僕でも社長になれた」なんてのはマシな暮らしで,子供の時はよく見えていなかったけれどもダークサイドだけを強調すれば「ぼくんち」になるかなあ,と言ってみたが,どちらも自分の周りではそれほど読まれていないことがわかった.

右傾化した知識人やネトウヨには,学区内にお隣の国の学校があって周りに在日がたくさん居たというと勝手に想像を膨らませてくれる.小学校時代に新築された時は高級マンションのようで地元では当時珍しかった中学受験をするような友人達が住んでいた公団住宅が,10年前ですらすっかり古くなり地上にあったショッピングモールはほとんどがシャッターが降りているようなさびれ方だった.今では南米人が多く住んでいるらしく,卒業した小学校のホームページにポルトガル語による案内があったりする.

名古屋大学のある先生に,こちらはそこの出身だと表明しているのに,実情は知らないだろうと思われる伝聞情報を並び立てて,だからあんな所には住むものではないと力説されたことがある.大学の先生の他人への配慮はそんなもんだ.人間的には玉石混淆であることは,むしろ,学生の方が経験的に知っているのかもしれない,

かつてのブロンクスじゃあるまいし,自分はそんなこと気にしないから札幌でも便利さ優先で家を探した.そうすると,なんでそんなところに住むのとか,ナマポ受給世帯がいっぱいいるんだよとか,差別発言を平然と口にするのは大学の先生方だけでなく,様々な階層の人々から似たようなアドバイスをいただいたので,多くの人々の中に私には見えない次元の確固とした評価軸が存在するんだろう.

昨年に東京で家を探すときも新宿3丁目にいい賃貸物件があったのだが,歌舞伎町の隣ですからお子さんがいるなら絶対やめた方がいいと不動産屋に強く主張された.伊勢丹やビックロに歩いて買い物にいけるし,飲んでもすぐに帰れるし,娘も徒歩で通学できていいと思ったのだが,娘が女王にでもなったらまずいか,とそこは断念した.自分らしくないと思うが,フツウの人の意見でもこのように影響を受け人間は変わっていくのかもしれない.

研究を始めたら,研究者としてはどこで生まれ育ったとかどこに住んでいるなんていう次元で判断されることはないし,国立大学での採用はほとんど研究関連業績だけで決まると思われる.採用されれば,大学教員として世間の評価は定まり,仕事としても,研究室はほぼ単独で小さな会社のようなものだから,義務もたくさんあるが,個人の裁量の幅が大きい.思想信条まではわからないけれども,仕事で接する限りは,差別的な意識が表に出てくることがまずないのは,本当に良いことだと思っている.商売が絡んだらそうは行かないだろう.大学の先生だって酔っ払ったら本音が出るのだが,それは個性と受け止めておけばいい.

私が北大に来た頃は,大学の運営業務の役職は教授の先生方が担っていて,当時の助教授や助手は,研究室内の業務と学科の教育の一部を担当していればよかった.それは名前だけでなく,法律的にも教授を助けるだけの職務であって,独立した研究者・教育者としては認められていなかったということだ.独法化と職名変更のどちらが先だったか忘れたけれども,それぞれ,准教授と助教に移行し,法律上,教授とは独立した職員とみなされ,年々膨れ上がる運営業務を担うようになっているから,自由度は大幅に低下している.

大学では教育者としての評価基準などないし,ほとんどの人が訓練も一切受けていないはずで,その対応は千差万別だ.基本は研究でしか評価されないんで,教育に手抜きが見えてくるのは避けられない.それでいいと表立って言うことはできないけれども,学生は勉強は自分ですればいいと思えば,害は少ないと期待する.むしろ,過剰になる方も問題だと思う.学生は黙って俺について来いというタイプだけでなく,表向きはソフトに学生のためになるからと口にしながら徹底的に管理しようとするのもいかがなものか.

誰にとっても自分の言動にポシティブな反応があるのは嬉しいだろう.しかし,学生は教員に対してネガティブな反応は出しにくく,それが故に指導はのめり込みやすい.効果を度外視して,時間をかけただけ仕事をした気にもなってしまう.学生を貶めることで自分を神格化してしまうような人ははっきり言って怖いし,教育熱心も度が過ぎるとそれ単なる自慰行為では?と感じることもある.教育は本当にさじ加減が難しい.

自分は自分の好きなように生きたいだけで,学生に影響を与えたいとか価値観を変えてやろうなどとは思わない.他人の人生に真剣に関わったら面倒なことになるに決まっている.それでも,自分が大学で価値観を変えるきっかけとなった人々に出会えたことは意味があったと強調しておきたい.相手が変えようとしてくれなくても,こっちが自発的に変わることがあり得るのだ.大学はスペクトル広く人材を抱えているし,懐の広い人間も少なくない.研究の世界に足を踏み入れることで,一流な人々と出会う確率がより高まるはずだ.もちろん,危険人物は避けねばイカンが.

研究に限った話ではない.守るべきモノがあって今の環境を維持して生きていけると信じる人は冒険する必要はないと思っているのかもしれない.誰だって失敗は回避したいし傷つきたくない.だからといって,外とのつながりを断ち切って個人の限られた経験だけにとらわれていると行動や思考の範囲がどんどんシュリンクしていく.

自分のやりたいことが見つかればラッキーでそれに集中し,見つからなくてもなるべく苦痛に感じない分野を見つけ,そこで何事かに時間をかけて取り組み,失敗による学習を積み重ねてヒットレシオを上げていく.一流の人々と接するチャンスがあれば大きく飛躍できるチャンスで,そのようなフィードバックというか自己反省を繰り返して自分自身が幸せになれる価値観に到達して欲しい.願わくば博士課程に進学しそれを見つけて新たなフィールドを開拓してくれればいいのだが.

人を変えようとは思わない自分でも,学生がいい方向に変わっていき成長していく姿を目の当たりにするのは楽しく思える.その一方で,成長には困難が伴うのが必然なのだが,自分には学生と苦楽を共にする覚悟ができていないのかもしれない.「嫌われる勇気」はあるつもりだが,絆が希薄な「回避性愛着障害」だからと逃げたくもなる.今は自分こそが変わらなければいけないということなんだろう.人生の折り返し地点をとっくに過ぎて,現状維持すら難しいことに気がついた時に,さらなる変革を求められるのが人生である,というのが実は一番重要なメッセージだったりして.

ヒットレシオを高めるか,試行回数で勝負するか,あるいは,目指した成果を諦め別の目標を立てるべきなのか.問題の基本的枠組みは普遍的に思えるので,個別の対策により得られる普遍的な結果を議論すれば面白いのかも.持ち時間を試行回数だけでなくヒットレシオ向上のための学習に分配したり結果からのフィードバックを考慮すればたちまち非線形問題になり,状態の安定性が議論できる.自明な解は専攻を取り潰すということになるだろうが,非自明で安定な固定点を探すのは一般に難しい.誰か考えてくれないかなぁ.

何年後かにはセンター試験が廃止され,入試に人物評価を取り入れるとなると,どうなるんだろうか.最も公平と思われるペーパーテストで測れない学校外の活動で得点が稼げることになると,資金力のある家庭が容易にポイントが上げられて,階層の固定化が一段と進むのかもしれない.文科省の役人が旧帝大は別法人にして授業料をアメリカ並みに上げたらいいと話していた.これからの四半世紀も社会も大学も大きく変わっていくだろう.

北大はなくなることはないと信じるが,応物はどうだろうか.「ゆく川の流れは絶えずして」で川としての流れを保ち続けられるかどうか「もとの水にあらず」で別物に置き換わってしまうのか,自分にはわからない.個々の分子としての個人は流されてもどこかには行き着くはずだとポジティブに生きていけばいいんではないか.

「嫌われる勇気」の最後に,「一般的な人生の意味は無い」が「人生の意味は,あなたが自分自身に与えるものだ」とアドラーが語ったとある.その通りだと思う.自分にできることは限られるが,同調圧力に屈しないでいられるかどうか,そこだけは変わらぬままでありたいと思う.いずれ新宿3丁目にも住んでみたいし.


20150611

今年は新4年生がグループには配属されず、一年おきにやってくるという周期が安定してきた。現役の4年生と干支が同じであるというのは、北大に来た12年前に受けた衝撃よりは軽い気もする。年齢の対応だけで比べると、今の学生にとっての自分が、自分にとっての誰にあたるかを考えると大変暗い気持ちになるのは自分だけだろうか。

自分が今でも付き合いのある先生方は自分が頼りにしたいと思う人々だから、彼らと比して自分が劣っているのは仕方がない。そんな人々も今となっては自分の飲み仲間であると勝手に認識しているんだけれども、とある人が、年下の人は、自分は対等な関係だと思っているつもりなのに、友人のようにはつきあってくれないんだよなあ、とおっしゃったことがあった。

そんなもんかねえとその時は思ったけれども、確かに、飲みに行きましょうと誘ってくれる若者は限られるし、対等に話ができているようにも思えない。こんな自分でさえ、学生時代に年齢が倍以上の先生に飲みに行きましょうというのは相当の勇気がいったし、タテ社会の構造は、若者の方では崩れつつあるようでいい傾向だと思うものの、こちらは逆の立場でタメ口をきけるほど肝は据わっていない。

そういう自分も、今どきの学生たちの考えていることが気になり、ツイッターを見ていたら、今年の新入生歓迎会で、私が学生のアカウントを監視していると歓迎会幹事の学生が教員紹介スライドで暴露した。それをきちんと受け止めたであろうアカウントの多くが鍵をかけたのは学習効果があるということで望ましいんだけれども、むしろ、応物配属後にそれらのアカウント間で相互フォローがなされていないのはこれまでになかったことで、少々、心配している。年々、フォロワーが単調増加で増えているので、状況は常に変化しているんであろう。

一昔前のツイッターでは、他人に見られているという意識が感じられ、有益な情報を共有しようという配慮のあるアカウントが多く、こちらも色々と学ぶところがあった。某コンサルの採用担当をしていたという、講演などではお面を付けてまで匿名性を保持しようとしている、アルファーブロガー女史や、元理論物理学者と称する金融マンの、経済理論をパロった、投資と「東京いい店・・・店」的な話題をつぶやくアカウントをフォローしているのは、学生のつぶやきの影響で、それぞれ、何冊か著作を買って読むまでした。有益と言ってもその程度のことではある。

最近は毒を吐くことがメインのアカウントが増えてきて、それは大衆化したことの証だが、S/Nが悪い。とりあえず、最近の若者もマンガやゲームなどにハマっていて、昔とそんなに変わってないということはわかったので、そろそろ、退き時なのかもしれない。

マンガは娘から借りて、巨人やグール、テラフォーマーや銀匙など、楽しめるけれども、流行にキャッチアップしていくのは絶望的だ。それを講義のネタとして活用するのには努力が必要で、意識して読みに行かないと無理だが、そのモチベーションは保てない。

ゲームは、バイオハザートやデビルメイクライをプレステ2でクリアしたのを最後にもう腰を据えてトライすることはなさそうだ。DSやWiiも家にはあるが長続きしない。ドラクエのスマホアプリをやってみたけども次の移植版はやる気を失ったし、つい最近、Google Playのプレゼントで新たなゲームアプリを購入してみたが一度も立ち上げていない。

結局、ゲームもマンガも、向かう時間を確保する余力がないということだ。いつだったか、睡眠時間を削ってゲームをしていたら、社会人としての自覚を持て、と言われたことがあったが、それから自覚が成長したわけではないと思う。

いったい、いつ頃からゲームにハマったんだろうと思い出すと、インベーダー、ギャラクシアン、パックマン、ゼビウス、ラリーX、ポールポジション、などが流行った頃で、小中学生時代にゲームセンターに入り浸っていたということでしかない。しかし、ファミコンやGAMEBOYは買わなかった。そのプロトタイプに当たるであろうゲームウォッチは持っていたが。

古いゲームのアイテムが現代のゲームにも取り入れられ,Google mapでパックマンが出来たりと、当時のゲームを知るクリエーターが活躍しているのかと思うと、何となくうれしく感じるが、「ゲームセンターあらし」世代のオヤジにもカネを使わせようという広告戦略なのかもしれぬ。

自分は子供時代から鉄道よりはクルマのほうに興味があって、F1にはかなりハマった。修士の時代が最高潮で、アーケードゲームにもファイナルラップという進化版があったりして飲みに行くと途中ゲーセンに立ち寄り対戦に興じて、帰宅してからテレビ中継を観るなんてことが多かった。F1が全戦地上波で中継されていたと言っても今の学生は信じないだろうし、セナの走りを観た時に覚えたゾクッとした感覚はもう二度と味わえないと思う。

プラモも作ったし、ラジコンカーも何台か組み立てた。フォーミュラカーではタイヤの素材やウイングの角度で走りが大きく変わることを実感したし、バギーではオイルダンパーによるサスペンションの安定化や防水と放熱の対策などに苦心した。その時、空力、粘性、熱伝導なんていう概念をきちんと教えてくれる人がいたら、機械工学に興味を持つことになったかもしれない。

小学生時代、プラモは田宮に小遣いのかなりの部分をつぎ込んだ。クルマにとどまらず、ミリタリー系にも手を染め始めたが、どこでその熱が収まったのかは記憶が欠落している。トムキャットかイーグルが欲しかった記憶が残っているが戦闘機を組み立てたことはない。当時、自衛隊がF15を所有しているなんて想像もしなかった。今は、F35の納入がいつになるのかぐらいは気にしている。

ミリタリ系のプラモ作成は今の時代のフィギュア作成につながっている気がするが、有機溶剤で少しいい気分になりながらの色塗り作業において自分の不器用さに気がついたことで、熱が冷めてから冷温停止状態にある。なんでこんな工具持ってんの?と結婚してから疑問を持たれたが、自宅にラジオペンチとニッパーがあるのはその名残だ。

自分が最初にハマったコンピューターゲームはなんだろうと思い出すと、当時、千葉に造られたのに東京と名乗ったテーマパークをパロったアドベンチャーゲームである。なんせ、何ヶ月か、ある場面でストップし考え続けたので忘れようがない。そのしばらく前に流行した、昨年STAP問題の舞台ともなった神戸の埋立地で起こった殺人事件をテーマにしたゲームもそうだったんだが、動詞と名詞を打ち込んで進行していくという方式で、しかも、英単語を使わなくてはいけなかったことがその困難さを助長した。

十字架を棺桶にはめ込むことは明らかなのに、その動詞が中学生には思いつかない。今の時代なら、ネットがあれば瞬時に解答が得られるだろうに、当時は、情報伝達の重要な手段は固定電話で、そこは家族の監視による情報操作が可能な世界だ。女子に連絡を取ろうと夜に電話すると、その父親が出ることを想定しなければいけない時代である。

大学院時代ですら、飲み会の店が決まったら家に電話してと言われて、電話すると親が出て、こちらが怪しいものではないことを主張しながら、宴会の場所を伝える必要があったという話を学生としたのは10年近く前だと思うが、携帯メールアドレスを聞くときが最大のバリアですかねえと言った当時の学生の話も今は違ってきているのかもしれない。話が大きくそれたが、attach cross というのが正しいコマンドらしいとどこからか調べだした友人から聞くと、あとはそれほどの手間はかからずエンディングに到達した。

当時は、フラッシュメモリーなんて当然存在しないし、HDDすらなく、8インチだったか5インチだったか忘れたが、フロッピーディスクは超高価で、庶民に買えるものではなかった。データはなんと、カセットテープにアナログデータとして保存していたのだ。ゲーム中盤のその位置までデータを読み込むのにもかなりの時間がかかった。

毎回、そんな手間をかけて起動するのに、ストーリーが一次元的な進行しか許さないために同じ場面で数ヶ月も進展がなく、候補となりそうな英単語を探しては打ち続けるだけの状況でもゲームを継続できたことと、この3ヶ月の間、研究で有限の値を与えるはずの物理量を計算しているつもりなのに無限大になるのを回避できない状況に耐えられていること、は無関係ではない気がする。進歩がないと言われれば、そうなのかもしれない。

大学の食堂で学生がトランプをしているのをたまに見かける。どんだけ暇なのよと最初は思ったが、自分もポーカーやブラックジャック、セブンブリッジに、こいこい、かぶ、麻雀など、ひと通りハマったので、似たようなものだと考えるようにしている。

中学時代にポケコンのBASICを使い倒したのはギャンブルで勝つための有効な戦略を探るシミュレーションだった。適当な戦略を組み込んで対戦できるプログラムを作り勝率を比べた。あのわずかなメモリー空間でも、トランプや花札ぐらいなら、ぎりぎり、計算ができた。あの程度の評価なら、今であれば、期待値を計算すればそれでおしまいの所を、乱数を発生させてのシミュレーションに頼ったのは知恵がなくとも暇だから出来たことだ。

そのうち、画面のドット表示を制御できることを知り、シューティングゲームを作る過程で、2進法の論理演算でドットイメージの重なりを表現できることを知った時は感動した気がする。鶴亀算の答えを求めたり、二分法で方程式の解を求めるなんていうプログラミング演習を楽しめるのは、教育的かもしれないが、その場限りで、そこで止めていたら高価な電卓に成り下がるところだった。

中学生時代に獲得したそのプログラミング技術が、今の仕事の基礎となっているのは、これも進歩がないということの証か。しかし、その後に購入したパソコンは、高校時代には興味を失い、高価なゲーム機だったと言わざるを得ない。どうせなら、ファミコンを買えばよかった。

現代の若者の持つ興味の多くを共有できる気でいるんだけれども、同じハマったと言っても決定的に違うのは、言うまでもなく、インターネット環境の有無である。情報量が桁違いだ。ゲームはミッションクリアすると、組み込まれたすべてのシーンへの到達を目指すことになるが、当時は、そのコンプリートも難しいことではなかった。

しかし、現代のゲームは、どうも、終わりがなさそうに思える。短期的な報酬が適当に散りばめられ、要素が後から追加されていき、到達可能に思える目標が次々と設定されたら、シンプルな達成感を得たいヒマな学生が時間を溶かしていくのも無理はないし、忙しいはずの社会人が課金してその時間分の労力を買うことで、利益を吸い上げるシステムが確立しているということなんだろう。ストレス解消なんて言い出したら、もう uncontrollable craving、つまり、 addiction のレベルで、簡単には抜け出せない。

最近,ネット依存症とアルコール依存症が気になり,様々な本を読むと,依存症に陥ったかどうかは自分では判断できないというのは,周りを見ているとそうだと理解しても,当事者は違うと思っているのがやっかいだ。現在読書中の「THE FIX」面白いんだけども,vocabulary が足りなさすぎてなかなか進まない。

依存症になるほどハマれることがあるのは幸せだと私自身は思うので,学生には,自分の好きな場に参加するのはいいけども、出来ることなら、そこから新たな場を開く側に回れとか、何か疑問が生じたら、検索して表示されたトップページの上から数個をチェックするだけじゃなくて、とことん調べつくして知識に厚みを持たせろとか、色々と言ってみる。しかし,よく考えてみると、それらは自分が上の世代の人々に言われてきたことと同じじゃないか、という気がしてきた。

プログラミングに熱中していると「I/O」を貸して欲しいがために擦り寄っていた人からは、電子回路を自分でハンダ付けして組み上げられないと、とか、ラジコンやプラモの組み立てにハマれば道具を借りていた人からは、様々な素材を自分で加工してモノづくりが出来ないのか、とか、そういうコミュニティの先輩たちからディスられたものだ。何かに困って、相談に行くと、関連する別のことを尋ねられて、そんなことも知らないのかとか、もっと基礎から勉強しろとか、難癖をつけられた。

なんだかんだと助けてくれたからいいんだけれども、もう少し丁寧に教えてくれる人が居たら、自分のその後の人生は全く違ったものになった気がする。どっちが幸せかはわからんが。ともかく、古い技術のことなんか気にせず、新しいプラットフォームの中で十分時間をかけて歩き回れば、ある程度の全体像が見えてきて、そこから枠をはみ出す奴が出てきて、また新しい何かが生まれるというサイクルは不変だと思えば、今の学生たちはネットを使ってもっと広い世界に飛びだせる可能性を秘めているとも言えるだろう。

ルール遵守で決められた枠を守りたい意識の高い人々が新しいことを産むのには不向きなことは今に始まったことではないので、そういう人はそれで楽しいんだから放置すればいい。しかし、そんな中でも知識が足りないと確率の低い事象に時間を溶かすことになる。

最近のツイートで気になったのは、就活で100社にエントリーして1つしか内定がもらえない状況を、1%のガチャ100回引けばいいと思えばワンちゃんあるでしょ!みたいなのがあって、1%の確率でもやる価値あるでしょうというポジティブ思考なのかと思ったら、どうも100回引けばほぼ確実に取れるように考えているように感じたので、それぐらいの確率は計算しろよと言いたい。

100回で1度も当たらない確率は (1-1/100)^100 だから、理系の学生ならこの値の近似値はすぐに出せるはずで、およそ37%の確率になる。まあ、6割の勝率を確実に勝てる範疇だと思えるのならこの話は無視していい。この計算は確率10%を10回でもそんなに変わらないこともわかるはずだ。

人生の大きな決断とくじ引きを一緒にするのがそもそも間違いだが、試行回数で稼ぐのではなく、戦略を変えて確率を上げる方に力を入れるべきだし、多くの場合、枠の外に出れば、もっと簡単に、違った幸せを見いだせるものだが、変化が嫌なんだろうね。

正直なところ、幼い頃の自分は、型にはまらないといえば聞こえがいいのかもしれないが、規範意識が大きく欠落していた。今で言えば、発達障害と分類されたに違いなく、当時そのような診断がなされなかったことは、運が良かったのかどうかはわからない。人に興味がなかったし、無口だったので、変わっているとは思われても、普段は周囲を困らすことはあまりなかった、と信じたい。

他人の気持ちに関する感度が低かったのは確かで、何らかの相談に行ってディスられたり難癖を付けられるのはあまり気にならなかったが、会話があまり成り立たず,俺の知りたいことを教えろよと不満を覚えることは少なくなかった。何度もトラブルを起こしたのも事実だ。子供の頃は、特にオトナには警戒心が強くて、会話が成り立たなかったのは自分のせいだったと、今なら理解できる。

オトナに問い詰められて、はっきりと答えがわかることには答えたが、どう思う?などとあいまいに問いかけられると、大抵、何も感じませんとか、何も思い付きませんなどと返していたのは、自分でもアホだなと思うとともに、周りは呆れてたに違いない。自分がオトナになってから、そんな時には相手が望む答えを想像してテキトーに答えてたと友人に言われた時には、なんでそうしなかったのかと考えたが、相手の望む回答なんて分かるわけ無いだろうと思ってたし、別にわかりたくもなかったから、それでよかったんだろう。

中学生になると、周りの人間が言うには、目つきが悪くなり、好戦的で、簡単にキレるようになっていた。失うものは何もないと思い込んでいたこともあるんだが、鼻つまみ者であったに違いなく、自分にとっても暗黒の時代で、長い間、記憶を封印していたのに、とあることをきっかけに、それが蘇り反芻させられる時が来るとは予想もしなかった。しかし、それも因果応報と諦めるしかない。

何かあると、母親からの愛情をしっかり受けなかったからだと言われたのにはマジでブチ切れたが、ごく最近、そういう状態に愛着障害という診断名が付いていることを知り、まともそうな大人までがどうしてそういうことを面と向かって口にするかねということへの疑問の一部が解けた気がする。当時からあったのかどうかはしらないが,別の名前にしろ,なんかあったんだろう。

自分の父と母に何があったかの本当のところは分からないが、双方からの情報で一致する事実は、幼稚園に入る前の子供を置いて母は家を出て、困った父は頼れる身寄りがなく、出て行った妻の姉に子供を預け、その姉は妹を不憫に思い子供と引き合わせるが、子供は母にはなつかず、逆に、父と暮らすと口にしたことで、父子家庭となったということだ。

お前らの意思はないんか!と思わないでもないがどうしようもなく、それ以来、母とは会ってない。この件では、私が子供時代にほとんど唯一、心を許していた親類のひとりが大変苦しんでいたことを、随分時が経ってから知り、本当に申し訳なく思う。幼い頃から、自分が大学に入って上京したのとほぼ同時期に東京に出てきて、自分が結婚するまで、頻繁に会うことはなかったけれども、彼女が居たから自分にも家族が居ると思えたことは間違いない。しかし、その程度に、家族関係は破綻していた。

そういう家庭環境を知っていたら、問題行動を起こす自分にそのようなレッテルを貼るのは無理もないと今ならわかる。何かの枠に押し込めないと、理解できないというか、報告書が書けないんだろう。それでも、当時はそんな風に考える余裕はなく、大抵のオトナには心を開かなかった。

それにしても、母と子の愛着がないのは事実だが、それが生物としての本能を無視した育ち方だと言われてもなぁ。まあ、そう括られるようなことをしてきたのは事実だし、今では、逆境を生き延びたストレスに強い個体なんだとポジティブに考えるようにしている。

ある人が、子育てに悩み、子供を叱る時に、つい、お前なんてウチのコじゃない!などと叫んだことで子供がそれを真に受けて困っているという話を打ち明けてくれた。それを受け、自分もコドモの時に、あまりに自分が言うことを聞かないので、父が困って母の所に行くか?と一度だけ言ったことがあり、その時の気持を思い出すと、そう言われた子供の気持ちもわからないでもないからそれはきちんとケアした方がいい、とアドバイスした。

すると、それは父が困って本気で言ったことであって自分は本気で言ったのではないから、お前の話は参考にならん、と返され、それもそうだと思った。ただ、その人は結局、自分は悪くないと言って欲しいんだなと、次に述べる議論の後に気がついたんだが、そういう返答を私に期待するのは無理がある。それなら最初からそう言ってくれないと。

ともかく、その相談のやりとりを別の人に話をしたら、それはお前が怒るべき場面だと諭された。それには、ピンと来ず、話をするうちその人の主張することは分かったつもりだけども、久しぶりに、自分に人間らしい感情が欠けているのかもしれないと気付かされた場面であった。まあ、そうなんだろう。父との関係もフツウじゃないから、思い入れがないことの現れかもしれない。

ただ、自分のしたことは棚に上げて、そういう物言いをされた時の不安な気持ちは忘れないし、今なら、その時の父の気持ちも理解できる。感情は希薄だったけれども、当時の気持ちが大きくねじ曲げられていることはないと思うし、今はどんな時でも相手の立場になって考えようと努力しているつもりなので、父が本当に困ったであろうことも想像できるということだけども、そこに特別な感情は湧いてこない。

当時、発達障害や自閉症スペクトラムなんて言葉は当然なかったし、コミュ障なんて言葉が広まったのもインターネットが発達してからだ。どうしてそんなことが叫ばれるようになったのか分からない。コミュ障と自称する者が居るのを見ると、レッテルを貼り付けることで、周囲の者にも本人にもメリットがあるんだろうか。別に、最近になってそういう人間が増えた訳ではなかろうに。

今の基準で捉えれば、少なくとも中学生までは、コミュ障であったことは明らかだ。今でもそうだと言われたら反論しないが、少なくとも当時の自分の中では、コミュニケーションを取る必然性を感じない場面で何かを要求されても意味がわからなかっただけだし、自分の中では怒りがこみ上げて爆発する時には正当な理由があったのだが、周囲の子どもたちと比較して経験と知識が圧倒的に不足する中で、それでも足りない頭を絞って自分が取り得る最善の選択として到達した結果だったのだと解釈している。

世間一般でフツウと思われてることが全然そうなってなくて,そんなことありえないでしょうってことが日常的にあると感じさせられるような環境で永く過ごせば,引きこもるか弾けるかのどちらかが最良の選択に思えて,経済的に許されるなら他者との接触を断つことで自分自身の尊厳を保てるひきこもりを選ぶだろう。

残念ながら,小学校時代は友人に、ギャンブルで生計を立てていると信じられていたような家庭だったし,実態も似たようなもので,引きこもっていられるような状況ではなかった。逆にそのことが社会との接点を強制的に作り出し,子供にしては可処分所得が多かったのは、好き勝手に出来て、かえって幸運だったのかもしれない。

その後の人生もいろいろあって、今の状態にあるのはまた別の話だけども,変化は決して連続的ではなく、何度か不連続的に別のステージに移りながらここまで来られたのは、周りはみんな敵だ!みたいな感覚で過ごした中で、僅かに残された世間とのチャネルの中に自分に声をかけ続けてくれた人たちがいたからだ。

自分のことで精一杯でそのような支えの有り難みに当時は全く気が付かなかったけれども、今は本当に感謝している。小中学校時代に助けてくれた人々には謝りに行きたいぐらいだが連絡する勇気がまだ持てない。高校時代の恩人には何度か会っている。

最近、大学でも発達障害とかコミュ障とかいう言葉が頻繁に出てきて、そうカテゴライズすることで一括りにし、どうにかしなくてはと問題になっている。自分なんかは、まずは話を聞いて、本人が自分ではどうしようもなく苦しんでいるということでなければ、それまでの人生経験からそのように最適化されてるんだから、基本は、本人のやりたいようにさせればいいと考えている。それでは何も変わらないと反論されても、本人に変わる意思がないならそれでいいじゃないかと返す。

これらの話は、やる気のない学生だけでなく、前向きな学生に対してもあてはまる。修士まで順調に進んできた学生でも、将来設計に対して現状がどうあるべきかの理想と現実のギャップに悩む時が必ず来る。現状を大きく変えないという価値判断を大切にするか、今の価値観を捨て去りジャンプして別のステージに飛び込む覚悟があるか。どちらが正しいという話ではなく、どちらを望むかということだ。

それでも、認知の歪みが正しい判断を阻害している場合がある。それを正すのが大学教育の役割なのかどうかは別として、修正のきっかけとしては、他人の価値観に触れるのが良い。コミュ障だった自分がモノをはっきりと言えるようになったのは、周囲の人々との関わりから経験を積んだことにあるのは間違いなく、多くの人を、自分の傍若無人さに呆れさせたり、不快な思いにさせたりするという犠牲を払いながら、それでも、そのような経験から学んで、今があるんだと思う。考え方が平均的な人から大きくずれていたり、人の話を言葉通り受け取ったりで、困ることはいまだにあるけども、それは個性の範囲と受けとめてもらえるかと楽観視している。

多くの先輩方や歳の近い友人たちが、こんな自分の誘いに乗ってくれるのは、基本、酒が好きだからだと思うが、本当にありがたいことだ。久しぶりに会えば、新たな価値観を与えてくれるし、何度か続けて会えば、様々なことを議論するうちに、思考の幅も広がる。孤独に過ごす時間が長くなると、現状維持バイアスが強化されるに決まっているので、人と会う機会は大切にすべきだと気をつけてきたのが、いつしか、純粋に会話を楽しめるようになっていた。

そのような他者との交流により自分にはない価値観に触れるきっかけは、飲み会でなくても、サークルや、同じ趣味を持つ人間が集まる場所だったり、facebook や twitter でもいいし、オフ会でもいいんじゃないだろうか。研究者仲間では、飲み屋で知り合った人と結婚した者も居れば、ブログの掲示板で知り合った人と、というケースも有る。

理系は学生の間に彼女を作らないと、という類の話が出る時がある。ダメだと思うなら自分が変わらなきゃいけないことは自明だから行動に移せばいいじゃないかと思うが、これはもしかしたら、自分が彼らの言うことを文字通りに受け取っているのがいけないんだろうか。非モテコミットにはならぬようにというのがいまどきのアドバイスだろうが、もちろん、意思がないものは新たな出会いを求める必要はなく、孤独を愉しめばいいと思う。

ともかく、自分にとって飲み会は、図らずもコミュニケーション矯正に役だったのだが、若い時は鬱屈した気持ちを発散する場でもあったし、オトナになったらなったで、こうすべきとかああでなくてはなどと合理性をひたすら求めながら、それが実現しないギャップを受け止める場であった。そんな中で、順風満帆な人生を送っているかのように私には見えた先輩方の経験談は、本当に有りがたいもので、身に沁みた。挫けそうになったのを何度救われたかわからない。

自分自身は普通の人があまり遭遇しないような経験をたくさんしてきて、同調圧力の強いコミュティでは生きづらさを強く感じた。心地良い経験そうでない経験どちらも今の自分自身を形成する欠かせないピースなんだろうが、もう少し平坦な人生でもよかったのでは?と思わないでもない。しかし、冷静に考えてみれば、同調圧力に押しつぶされるような経験がなさそうな人にも、それぞれのヒストリーがあって、その人だけの経験を積み重ね、今のその人があるのは明らかで、自分だけ何かが違うというのは、見方が浅いだけなんだろうという境地に、今は、到達しているつもりだ。

あるひとつの評価軸を定めたとき、神のように高みに居て、自分の存在する空間とは完全に直交する世界に生きていると思えるような人々から、自分にもこんなことがあって、などと、違う軸方向の話を聞くと、実は住む世界には重なりが大きく、同じ人間なんだと、アタリマエのことを納得させられる。もちろん、長い年月余分に生きていれば色々なことがあるということかもしれない。

長時間平均すればランダムな事象、端的に言えば、運に左右される出来事は正規分布に従って発生し、表には出さなくとも、誰にでもハッピーな事もあれば、試練もあって、結果として、おおよそフェアな条件で生きているのだと感じられると、平均値の違いは、能力と努力の結果の差でしか無いことを思い知らされる。そう理解できたら、あとは自分自身が勝負できると思える場所を探して、適切な方向に努力していけばいい。誰にでもその人に合った場所が見つかるはずだし、個人的な幸福を追求していけばいいと思う。

自分は、人より分散が大きく揺らぎが大きいんだなと解釈するようにした。リスクの大きい投資をしていると思えば、こんなものだろう。だからこそ、刹那的になってはいけなくて、ゆらぎに惑わされない一貫した戦略が重要だとは、頭では理解しても、実践するのは・・・。

今の時代,どんな状態でも,一般常識があれば,野垂れ死ぬようなことはないだろう。たとえ、心が病んで働けなくなたっとしても、公的に認められれば障害者手帳が交付されて生活保護で生きていける。

数年前に「安心ひきこもりライフ」を興味深く読んだが,それを話題にするチャンスはこれまでなかった。ひきこもりたい人には必読。その後,知人の間でも、うつ病で障害者手帳を申請しているという話を何度か聞いたから,珍しいことではないようだ。そういう知識を持っていて、偏見がないことがわかれば話をしてくれるということなんだろう。

福祉に頼らなくても,支えてくれる人がいればそれでいい。自分も昔を思い出して,あれぐらいの暮らしでも生きていけると思えば,理不尽なことに耐え忍ぶことが強制されるようになったとしたら,現状維持にこだわることはないだろう。自らすすんであの頃に戻りたいとは決して思わないが。

振り返って、自分が先輩方から受けたような助力を今の若者達に施せるだろうか?正直、現状では、彼らの心に沁みるアドバイスができているとは言いがたい。

最近、留学したいという学生が何人か相談に来て、わかることは伝えたつもりだが、最終的には、その気持ちを持ち続けて頑張れとしか言いようがなかった。学者になりたいという相談には論文を書けばいいと伝えるだけだからそれで問題ない。やる気のある学生は、その気持ちを削がないようにすればいいだろう。身近に、元気な学生がたくさんいることを知れたのは嬉しい限りだ。

そうでない学生ももちろんいる。成績不良でやる気が無いと判断した学生には、大学を中退したほうがいいと迷わず忠告している。自分としては、むしろ、坂を転がり落ちるようなことを経験しても人間しぶとく生きていけるという例は沢山知っているので、そういう方向に肩を押すのは悪く無いと思っているのだが、それでかえってやる気を出して卒業して行ったりするので、不思議なものである。

飲み会で、ある若者が将来構想を語る中で、自分の、母の違う、兄が・・・と言い出して、それがなんの躊躇もなく出てきたのか、ちょっとした告白なのか、その場では自分では判断できなかった。それで、自分にも、父の違う、兄弟が居るんだ、とこれまでごく限られた人にしか話をしたことがなかった事実を話してみた。続きを聞くと彼の方はその兄とは仲良くしているらしいのに対して、自分の方は会ったこともなく名前すら知らない。

色々と思うところがあるに違いないが、彼はそれを受け入れ前向きに生きていることに感動したのと同時に、自分の心の狭さにちょっと落ち込んだ。その話は他人に簡単に告白できるものなのか?という感情を覚えたことが,「What Do You Care What Other People Think?」を信条として生きているつもりなのに,何らかの呪縛から逃れられないでいることの一端が表出したのかもしれないと思った。もしかして愛着障害のせい?これからはそう言うことにしよう。このように、こちらが若者から学ぶことも少なくない。

いずれにしても、話を聞く窓はいつでも開放しているつもりだ。最低限、酔っ払って眠るまでは、聴き続けられる。自分の経験が役立つような相談をしてくる学生はあまり多くないかもしれないが、話につきあうぐらいはたやすいことだ。求められれば,自分が助けられたように,変わるためのきっかけとなり得るよう,偏見を持たず接したい。まあ,こちらは楽しく飲めるだけで充分で,願わくば、自分と一緒に研究がしたいという人が来てくれればより幸せなんだが。

この辺で終わりにするが、「真面目な人は長生きする」を読んで、愛着障害を知り、同じ著者の他の作品を読み進めるうちに、attachment disorder の翻訳であることに辿り着き、うつろな思い付きが繋がって、久しぶりにこのサイトを更新する気になった。思考が大きく飛躍したついでに、自閉症関連で「跳びはねる思考」はオススメ。切れ味するどい表現を目の当たりにすると、冗長な自分の文章を消し去りたくなるが、これもまた個性ということで。

最後に「マーケット感覚を身につけよう」の中の人に敬意を表して、そんじゃーね。


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