うつろいゆく思考


20141111

年頭から色々あって,10月末ですでに飛行機の搭乗回数が50回を超えていたが,最近はその頻度も減り,ようやく,札幌に腰を落ち着ける生活が出来るようになってきた.人生をどのように締めくくるのがよいのかについて考えさせられる日々が続いていて,様々な事例に思いを巡らし,あーでもない,こーでもない,と思考が迷走した挙句,自分の現実として受け止めた人でないとわからないのでは?と思考停止して振り出しに戻る,を繰り返している.

しかし,自分の死の経験を語ることが出来る人間は存在しないわけで,死を考えるということは今をどのように生きるかを考えることにつながる,という思考になれば前向きになれる・・・などと簡単には行かない.

自らの病体を気遣い,僅かなリスクを回避するために少なくない代償を払ったとしても,我慢して,これをやる,あるいは,やらないことに躊躇しない様子は,その人のこれまでの堅実な人生がそのように築き上げられたものだということへの自信の表出に思え,私の悪い口癖の,それ意味あるんですか?という一言を封じさせる.

その一方で,もうちょっと気を遣えよという人も.今日明日が山場かも,と医師から連絡があり,駆けつけると,心機能補助に大動脈にバルーンが,呼吸補助に気管支に管が,腎機能補助に太ももに透析のラインが,様々な点滴と共に,身体に繋がれた状態で,こちらが思ったのは,不謹慎ながら,これで生きていると言えるなら人間簡単には死ねないなということだった.運が良いんだか悪いんだか,その後,奇跡的に回復して,それまでと変わりない生活を送っている.

さすがに,タバコは止めたようだが,他に何を我慢するということもなさそうだ.そのタバコも禁煙外来で処方された薬を飲んでいた気がする.そのとき病院に運ばれた記憶はないらしく,あのように倒れて死ねるならもう怖くないと言いつつ,その後もしっかり119で救急車を呼んでいるので,死を恐れないということはないだろうが,いい感じに達観しているようにも見えなくはない.

いまどきの若者がどうなのか聞いてみたいけども,自分が学生の頃は,30歳になったときの生活なんて想像できなかったし,30で人生終わってもいいぐらいの感覚で生きてたつもりだ.楽しいことも苦しいことも今よりたくさんあって刺激的な毎日だったが,若かったからやっていけたんだと思う.ましてや,還暦を過ぎた人生なんてことに思いを巡らせるなんてありえなかった.

周りの誰からも,家庭的とは最もかけ離れた存在とみなされ,自分自身,そう思っていたのが,大学院の同期の誰よりも早く,学位を取る前に結婚した.今のところ,あの頃が一番研究に没頭していたと思える.

任期があったこともあるだろう.職場を移ったその年に持病が悪化し救急車で運ばれ,その後入院して,突然,意識を失いそうになってここで死ぬのかと思った時に少し意識が変わった気はするが,一番大きいのは後先考えず,必死だったからだと思う.そのうち,30を過ぎていた.

その後も,ゼロではないが,理不尽なことに悩まされず,心穏やかに過ごせてこられたのはありがたいことで,それは,私が所属してきた,物理系の部局では理屈が尊重され,疑問に思うことがあれば年令に関係なく意見することが許される場であったことが大きな要因だと思う.

理屈が通るというのは,それが理解できるからというよりは,それを大事にする人々が集まった結果だろう. 変な人も居て,何度も叫んだことはあるけれども,世間一般にあふれている理不尽さと比べれば,無視していい.

当たり前だが,小中学校ではそうは行かない.歳が若いほどprimitiveな価値観が前面に出て,力が強いとか,美を追求する,などというわかりやすい側面が重視され,生まれ持った身体的特徴で大きな差がついてしまうことから,辛い目に遭うのは稀ではないことが,最近の学生の昔を語るつぶやきからも容易に想像できる.

受験でフィルタリングされ,階層構造の中の適切な場所に入ると何かが変わるのかというと,五十歩百歩のようだ.平均値は変わっても,分散がゼロになることはありえず,概して,時間が経つに連れて,その広がりが大きくなる. 物理の研究者コミュニティがいいという意味は,もちろん,その平均値が高いという意味で,分散は小さくなく,変な人もいるということだ.

ここ1,2年で,大学生のtwitterの使い方が質的に変わった気がする.昔は,他人に見られていることを意識して,有用な情報発信のつぶやきがたくさんあって,こちらも学ぶことが多かった.

最近は,日々の生活をオープンにするようになって,理系学生であっても大学は就職するまでのモラトリアムであると公言することが恥ずかしいことではなくなり,ゲームやネットに多くのリソースを投入していることがわかる.それがダメだというつもりはない.自分だって,小中学生の頃はゲームとマンガに夢中だったし,20代は飲んだくれていた.日常会話をするためのツールになったと思うべきなのかもしれない.

それにしても,そういう幼さを見せてなんとも思わない者もいれば,妙に年寄り臭く,身近で遭遇する常識のないとされる行為に不寛容である内容のつぶやきが多いことに驚く.犯罪被害にあったならそれは気の毒だと思うが,若者が優先席に座っているとか,隣近所の騒音や,厳密に言えば道路交通法違反なんだろうけどもという類の不正など,そんなことに腹立ててエネルギーの無駄遣いじゃないかとかと感じることも多い.

しかも,怒りを覚えながらもそれを注意することは出来ないケースが大半で,そういう不満を吐き出すのに最適なメデイアとして広まっているのだろう.その一方で,他人の身体的特徴を揶揄するツイートを連投したり,ヘイトスピーチを躊躇すること無くリツイートしていたりするのは,いわゆるB層が着実に拡大しているように思えて不安になる.

自分の気に入らないものにすぐキレるが,案外にテレビの流す情報に詳しかったりする,小中学校でグレたヤンキーと精神構造は変わらない大学生が沢山いるということか.

力を使うか使わないかには大きなギャップがあるが,昔ヤンキーだった人々も,社会人になったら暴力が割に合わないことを理解するし,働いてお金を稼いでいる分,社会性は高かったりする.そのうちに日本の仕事の大部分がサービス業になるだろうから,実は,人間関係を掴みとる能力の高い彼らのほうがハッピーに生きていけるかもしれない.

同じ学生でも,大学デビューでおちゃらけた人々が軽蔑される傾向は昔からだ.しかし,そういうことに苦言を呈するものに限って,軽いノリの行動ができないことの反動から出る言葉だったりする.

そもそも,気にならないことなら,それに苦言を呈する事につながらないわけで,何らかのコンプレックスに起因するのではないか.あるいは,そういうコンプレックスなしに,真のエリートとしてここまで来たのだとしたら結構なことだが,それまでに挫折がないのはもっと怖い気がする.

ある先生の変数Zの発音が,カッコつけてるけど,間違いだろう!というつぶやきがあった.きっと,フランス語のアルファベット読みには無関心で,まして,その先生がフランス語を流暢に話す可能性など想定出来ないんだろう.

まあ,自分の知識だけで世界が回っていると思えるならそれは幸せなことだが,それに反するものは軽蔑の対象とするような振る舞いをするとしたら,弱いものを見つけて貶めることにより自分を持ち上げようとするオトナの社会の欠陥構造をどこかで身に付けたか,その写し鏡であるコドモのいじめの構造をそのまま引きずっているのかもしれない.

そう考えると,物理系研究者コミュニティの,うまい言葉が見つからないけれども,過ごしやすさは際立っていると思う.学問の性質もあるのだろうが,これほど理屈が優先される社会はあまりないのではと個人的には感じている.屁理屈をこねて,自分の利益を通そうとする人間も中には居るが,屁理屈でも理屈を通そうとした結果なので,それを解きほぐし議論することで合意に達することが可能だ.

学問的価値観が共有され,いい仕事は誰にでも理解できて,誰がそれに貢献したかが明らかなので,評価がしやすいということもあろう.どうして奴があのポジションにという妬みはあっても,こんないい仕事をしたのに不遇という事はあまりないという印象である.誰もが認める進歩というのはめったにないので,そういう貢献をした人はさっさとプロモートされるし,残りは一定基準を満たせばくじ引きで選んでも結果は変わらないだろう.

フツウの研究者でもある程度のレベルの雑誌に出版された論文が一定数あればポジションが得られるので,それに見合った努力が出来るのであれば,理不尽さの少ない社会で生きていけるというモチベーションを持ち,それを目指すという生き方があってもいいのではないか.

もちろん,努力だけでなく運も必要で,だからこそ,いっそのこと,くじ引きに参加していると思えばどうかということだ.確実性がないのは不安要素だろうが,そういうランダムな要素があったほうが,結果に多様性が期待できて健全だと思う.一般企業への就職活動よりは,業界を選んで就職するという観点からすれば,確実性が高い気がする.

北大には,くだらない決め事はまだまだたくさんあるけれども,無駄なだけで,理不尽なことはかなり淘汰されてきた気がする.慣れただけなのかもしれないが,ともかく,その気があるなら,躊躇せず,研究者を目指したらいいんではないかと思う.

陽の当たる場所へやる気のある学生を導ければと思う一方で,学生がダークサイドへ堕ちていくのを見るのは忍びない.

若者の不正行為というか,それが表面化し問題とされることが増えている.一つひとつは,そんなことあり得るよなあと思いながらも,それを問いただす立場に置かれると,これがなかなか辛い.

裁く場に持ち込まれるんだから不審なことがあるに決まってるんだが,問いただしてもやってないと言い張るので信じてみたら別の尋問で白状したこともあれば,言動がいかにも怪しいので腹をくくって追及したら発言を翻し白状したこともある.たまたま,関わったケースではいずれも最終的には非を認めたので,改心すると信じて,一定のペナルティを与えて解放した.

直接関与しなかったが,クロ判定で処罰後留年した例や,グレーで疑わしきは罰せずとなったけれども,その残した印象が強すぎて目をつけられ,そもそもの不真面目さに起因する弱点を突かれ厳しい状況に追い込まれているケースも有る.他大学でも似たようなものらしく,不登校の学生が相手によって言うことを変えるというか,要は,ウソつきで対処に困るという話を聞いて,お疲れ様ですと言うしかなかった.

STAP細胞問題発覚以来,不正の問題について,講義でも触れてきたし,ここでも何らかのコメントができればと考えていた.自分の周囲の研究者間では,あれは捏造と言っていいでしょうという意見が大勢である.そうでないコミュニティからの意見で気になったのが,それなりの地位にある人が,そんな杜撰なことしますか?というものだ.言い換えれば,そんなアホなことしないでしょう?ということだが,オトナ社会では不正に手を染めるのはアホと認定されるということだ.

不正に手を染めない人々は,成長過程で,倫理的価値観としてダメだと体得するのか,あるいは,損得勘定として割にあわないと理解するのか,色々な人に本心を聞いてみたいが,何となく聞いてはいけないような気がするのはどうしてだろうか.

電車の優先席を占拠する同年代の若者を見て怒りを覚えるのはなぜだろう.隣近所の出す騒音に苦痛を感じるのは,理解できる側面はあるが,正しくない行いをしているという理由で怒りを覚えるのだとしたら,似たような構造が見いだせる. もちろん,我慢して黙っているのがオトナの対応だ. 怒りを覚えてもそういう対応ができる人々は不正からは遠いところにいるのだろう.

それでも,あえて極端な意見を言えば,困っている人が居なければ座ってもいいじゃないかという考え方もあるし,集合住宅である程度の騒音は受け入れてもいいのではないかとも思う.

自分は幼い頃から地獄耳と言われた.休み時間,中学の教室で一番後ろの廊下側の席に居たのに,ちょうど,前方の対角にあたる一番離れた位置に居た友人たちの会話で自分の名前が出てきたことに気がついて,つかつかと歩み寄り,何の話だと問いただしたら,大笑いに.お前が地獄耳だと話していたんだと.

今でも寝室の隣のリビングにあるHDDレコーダーの動作音でさえ気になるけれども,マンションの上の階の部屋でコドモが走り回ってうるさくても,下の部屋で犬がひたすら吠え続けても,気にはなるけれども,まあ,仕方がないかと思える.騒音も誰が出しているかはっきりわかれば我慢できることが多い.しかし,幼い頃から持ち家で個室を与えられ静かな環境で育たっとしたら,狭いアパートで一人暮らしはキツイのかもしれない.それをどうしても避けたいのなら,一軒家を借りるしかない.

他人を不快な気分にさせたり,迷惑をかけたり,という側に自分が回るケースを考えることは意味があるし,その延長上に,不正に関与してしまう可能性を想像してみることも必要だと思うのは,そういう自分こそ,若い頃は,自分の振る舞いが正しいと強く思い込んでいて,視野は狭かったし,ココロの変化の振れ幅が大きく迷惑をかける側に回ることが幾度となくあったからだ.

電車を降りようとしたら駆け込んできて肩がぶつかっても平気な人間を引きずり下ろして口論になったこともあれば,静寂が求められる場所で走り回るコドモの頭をひっ捕まえて説教し泣かせたこともあるし,大学の居室で計算中に近くのお茶部屋で騒ぐ先輩や同期にうるせー!と叫んだのは一度や二度ではない.

単に切れやすいアホだったと言われればその通りで,ツイートで毒を吐くだけで我慢しているオトナしい学生と一緒にするなと思うかもしれない.しかし,人に絡んでみて初めて分かることもある.そういう注意を受ける人々は,ほとんどが,罪の意識なくやっているが,言われた時にはしまったと感じるものだ.確信犯とはそんなに遭遇しない.簡単に言えば,悪気はない.

カンニングや論文のコピペ問題は,それなりの覚悟の上のはずで悪意があると考えるなら,発覚したら容赦なく厳罰にしておくべきだろう.最近,反省文をいくつか読む羽目に陥ったが,その場しのぎで罪を軽くしたいという思いで書くだけであれば,心底から反省するわけないし,オトナの側が別の場で説明できるように言質を取るためだけにあるのだろうとぐらいにしか思えない.

反省なんてのは,長い時間をかけて,自分の行為がいかに浅薄で,それで周囲の人にどのような影響を与え,彼らがどのような気持ちとなったか,そして自分がどのように思われたかを,自分のココロで理解していく過程で初めて生まれるものだ.

本当に学生のためを思うなら単位認定をもっと厳しくすべきで,多くの科目で合格者を水増しした現状は目に余る.一夜漬けの対策で合格できるような試験だとしたら,カンニングで合格させるのとあまり違いはないと私は思う.カンニングが無意味になるようにとメモの持ち込みを許可すると,かえって,出来が悪くなるという事実は,短時間でメモだけ作ればなんとかなるという考えの浅はかさを表していると思う.

少なくとも,自分の講義の評価方法は相対的な順位で決まるものではなく,不正で点数が上がったところで,他人の評価に影響はないし,本当に困るのは,実力が備わらないまま学年だけ上がっていく本人のはずだから,カンニングするような学生のことに気を回すのは無駄だと感じることもある.

ただ,よく考えてみると,自分も含めて,理想的状態でないことには目をつぶり,講義の内容を薄め,試験問題を安易に簡単にしてしまうような,志の低い状況に流れている今の状態は,学生が,みんなやってる,見咎められなければそれでいい,仕方がないんだ,と自分に言い聞かせながら不正に走るのと,精神的には同じ構造じゃなかろうか.

規則を守るか破るかという話とは違うという見方もあろうが,大学の先生だってルールを順守しているわけでもなく,これまで何度も例にあげているが,大学の教室・居室も含めて指定場所以外は禁煙というルールを守れない先生は居るし,工学部同窓会は卒業生でない現役教員も会員とすると決めたのでので会費を支払えという通知を送ってくるのだが,それを無視しているのは私だけではない.

やったのか,やってないのか,という尋問を最初にした時に,ふと,中学時代に引き起こした事件を思い出した.自分に非があることが明確なんで比較できる対象ではないんだが.すぐに通報されて相談室に連れて行かれ,生活指導の教員と担任に尋問を受けたことが頭を巡った.その時,どうして?何があった?と繰り返し問われても,自分は悪くないとだけ主張して,感情が昂って他に何もまともに言葉が発せなかった.

当時は,窓ガラス壊して回っても,盗んだバイクで走りだしても,学校内の出来事なら,警察沙汰にはならないことが,そんなに,珍しいことではなかった.実際,卒業した中学はそんな感じで,一学年上で殺人に至った時はさすがにニュースにまでなり,いろいろな人からそんな中学に居て大丈夫かと心配されたものの,それなりにやさぐれていた自分にとって居心地は悪くなかったし,生徒同士の小さな争いなら学内で解決しようと努力していたから,今とは教師の力量が違ったといえよう.

担任と2人になってからも,彼女がなんか長々と話をしていたけども内容は全く覚えていない.その後,特に処分を受けることも無く,日常に戻った.しかし,その事件を境に,自分は変わってきたと思っている.その理由がなんだったのか思い出せないのは残念だけれども,そのおばちゃんを信頼してみようと思ったことは間違いない.

人間,一線を越える時は,それなりに悩むし,それなりの覚悟がある.それで正当化するつもりはなくて,心に余裕がなくなって自暴自棄になると言い換えてもいい.しかし,他人の不正を見た時,たとえそれが自業自得の状況であったとしても,もし,同じ状態に自分が置かれたら,それを踏みとどまらせるものは一体何かを考えてみてほしい.踏み越える正当な理由なんて無いのは当たり前だが,それが規則だからとしか答えられなかったとしたら,環境が激変すれば持ちこたえられなくなる可能性はあると思う.

そして,不正をしないと何かを失う,あるいは,不正をすれば何かが得られる,という事態に直面し,倫理観がそれを支えられなくなった時,損得勘定で一線を越えてしまうのだとしたら,それは目の前のものを失った時の自分自身に大きな価値を見い出せなかたっということで,自己肯定感を失っている,あるいは,元々守るべきものなどないかわいそうな状態かもしれないし,そういうことに気がつかないほど判断能力が鈍っているか,それこそ,単なるアホというしかないケースも有るだろう.

カンニングや剽窃ぐらいで何を大げさなと感じるかもしれないが,知的労働に携わるものとしては知的財産権の侵害を見逃す訳にはいかない.また,大学教育で権限を発揮できるのは,単位を認定すること,学位を出すこと,ぐらいしかないので,これらを軽視してはいかんだろう.しかし,同時に人間教育も大事とされ,人物を見て対応することも求められる悩ましい状況であるということだ.

自分は人間教育に興味はないし,その能力もないので,どうしたものかと途方に暮れるが,自分の中学・高校時代の感性を持った人々が居ると思えば付き合っていける気がしてきた.考えてみれば,大学に入るまで,それ以外の進路を考える必要もなく,将来どうやって食っていこうかと悩む必要もなかったんだろう.

親から独立して暮らすようになり,時間とお金がある程度自由になって,ゲームやマンガ,アニメ,ギャンブルなどにはまるのは理解できるけれども,まるで,中学生じゃないかと思うのは,昭和の人間だからだろうか.

インターネットなんてなくて,パソコンは,当時はマイコンと呼ばれていて,その機能もショボく,簡単なプログラミングやゲームとしては楽しんだが,人と人とのつながりを生むツールとしてはバリアが高くて,生活に変化を求め自分の世界を広げていくには,新たな人間との出会いを求める方が刺激的だった.

中学時代は大須の電気街に行ってPEEK,POKE,CALL文でポケコンで出来ることを確かめようとして,大抵,暴走させて店のオヤジに怒られたりしてたのが,高校に入って定期券で通えるようになったのに,電気街には興味を失い,ファッションに気を遣って洋服屋に出入りし,近くの美容院に通うようになった.受験勉強もしたけれども,少なくとも,ゲームやパソコンに向かっているよりは外で遊んでる方が楽しかった.

大学に入っても,ゲーム機もパソコンも自分では購入しなかった.ほとんど家に居ないんだから,あっても,使う暇もない.携帯電話もまだ自動車電話か今のノートパソコンより大きなものしかなかったと思うが,ポケベルは持っていた.周囲の大学関係者は誰も持ってなかったが,プライベートでは重要な連絡手段ではあった.ポケベルが鳴らなくて,なんてドラマの主題歌が流行ったが,今の学生には理解不能だと思う.

今は,スマホがあれば,あらゆる欲求が満たされてしまうのかもしれない.パソコンでも,アプリのインストールもせず,ディスクをデフラグしたり,ブラウザーのキャッシュを消したりするメンテナンスすら,なにそれ?という学生が少なくない.SNSでは趣味の合う人間と,緩く広く繋がれて,嫌ならブロックすればいいし,過去を消したくなったら,アカウント消去すればいいとうお気楽さだ,

若者のツイ消しに関する敏感さは,我々の世代の振る舞いと比べると,いいことだと思うが,それは暇だからチェックが頻繁で単に気が付きやすいだけのことだろう.パクツイの方が問題の根が深いと思うのは,剽窃と共通しているからだ.おもしろいツイートも,検索してみると,驚くほど,パクリが多いことがわかる.世の中の知的所有権というか,オリジナリティの重要性に対する意識の低さは,近くの大国のことを笑えない.

だから,カンニングや剽窃に対しては,性善説を信じられなくて,厳罰にすればという話にしたくなる.だけども,人間は弱いもので,ほんの些細な事で,悪の道に足を踏み入れてしまうことはありえるし,逆に,過ちを悔いて,変わることも出来るとも思う.むしろ,学生の時にそれに気がつけた方が,社会人になってからそうなるよりはずっといい

弱い存在で低い方に流れるのを回避するために厳罰化が必要なのか,環境要因の偶然の重なりで弱さが顕在化することを考慮して寛容になるべきか,矛盾したことを平気で述べているのは,迷いがあるということなんだけれども,一つだけ確かなことがある.

過ちを犯した,あるいは,そうでなくても何らかの疑いをかけられ,説明を求められている時に,最善の戦略は,できるだけ早く知っている事実を正直に全て述べることである.これが裁判で戦うとなったら話は別なんだけれども,少なくとも,大学はルールを大切にする場でありながら,教育の場では規則を厳格に適用するというやりかたはなじまないと認識されていることもあるのだろう.

しかも,多くの人の処罰の判断は,行為そのものに対してより,経緯というか,時間軸で見ると,その不正行為が起こった瞬間だけを見るのではなく,もっと,長いスパンでの振る舞いを考慮して,なされている.大学がそういう組織だとわかったのは,ちょっと,驚きだった.そして,大学だけでなく,あらゆる組織がそういう傾向にあり,社会全体がそうであるという気もしてきた.

何かがウソではないかと感じた時にどのように対処するのかは人それぞれだが,情報の出し方を操作するだけなら嘘をついたことにならないという論法を使う人は少なくないので,怪しいと思っても,その場では深く追求しないのがオトナの対応である.

特別な例を上げて,自分に都合のいい説を押し通すとか,都合の悪い例を覆い隠して,印象操作をするなんてことを平気でするわけで,自分としては,全くの作り話との境界線はないと思っている.

しかし,聞いた方にとって大切な話なら,必ず内容を確認するし,少なくとも,現実にあったことをなかったことにするのは非常に難しいので,もしうまくウソをつけたと思い込んでいる人がいたら,それはあなたが他人に興味を持たれていないだけだと言いたい.

STAP細胞問題はまさにそれで,あれほど注目を集めなければ,何をしたかを調べつくされることもなかったかもしれない.今となっては,Nature論文も撤回され学問上は白紙に戻って,OBKTさんは自分の学位論文をさっさと提出すれば,もうあとは,捏造か否かとは,結局,ウソつきと認定するか否かという話に聞こえるが,自分はそこには興味が無い.しかし,共著者であった所属部局のセンター長がどういう考えで関与したのかは,時を経てから,本音を語るのを聞きたかった.

存在しないことを証明するのは悪魔の証明だから,そんなことを頼りに突き進むとも思えない.詳細は全く理解できないが,様々な検証報告によれば,存在の証拠となりうる部分をきちんと詰めれば,その証拠の有効性を検証できたはずで,それは知っていたに違いなく,それをしないのは怠慢だという話があった.しかし,怠慢を理由に責を受けるのだとしたら研究者はやっていけないだろう.

自分の出来る範囲で頑張っても,それ以上のことをやってないから怠慢とされたらたまらない.とにかく,その検証をやってないのだったら,その事自体を責めても仕方がないと思う.それでも論文を通せる文章力があったことが災いしたとは言えるかもしれない.

頭のいい人だったらしいから,ウソだと言われないように十分気を使っていただろうし,それで本当にできればいいと賭けに出たのかもしれない.そうだとしたら,その賭けに負けただけのことで,アホだと言われても仕方がないとしても,命を落とす程のことではないはずだ.さっさと,辞めさせて,海外にでも行かせてあげれば良かったのにと思うが,それが許されなかった所に,何か闇があると感じざるを得ない.

永い間,身近では,オトナがウソをついている可能性を想定しない暮らしをしてきたので,一連の出来事に動揺して考えたことを書きたかったのだが,支離滅裂になってきた.司法試験というあれだけの難関を乗り越えて裁判官や検事になろうという人の気持が全く理解できない,という意見に同意するし,裁判員に選ばれても拒否したい,人を裁くなんてのは,出来るなら,回避したいと強く思う.誰かがやらなければいけないと思えば,そういう人々に感謝すべきなんだろうが,今の日本の有様は,三権分立とコドモに教えるのが虚しい状況だと思う.

現実の生活にも影響があって,単純な言い間違いや,勘違いを,それウソじゃないかと疑ってしまう事例も生じた.マジメな話,それぐらい動揺した. 大学に入って,先生に呼び捨てでなく,さん付けで呼ばれた時の,それだけで,一人前のオトナとして認められたようで嬉しかった感覚は忘れがたく,大学生をオトナ扱いするだけで,それなりに成長すると思っていた.

それでも,若者をオトナ扱いすることには注意が必要であり,もし不正を見つけても単に文面通りに処分を課すのではなく,きちんと指導して,改心することを信じてやらなくてはいけないということなのだろう. いっその事,年度初めに,あなたはオトナですか?とアンケートを取り,オトナ扱いしていいかどうか確認したいぐらいだ.

正直であるべきだということで,もうひとつ気になることがある.楽観的に生きるのはいいことだと思うが,なんでもポジティブに言い換えればいいという風潮は,自分の立場を過大評価することにつながってよろしくないのではという気がしてきた.根拠の無い自信というのは,将来に対するものであれば,別に構わないと思うのだが,先に進むために必要な現状把握は,できるだけ正直に行って,正確であることを目指した方がいい.

教育に悩んで,コーチングや,行動経済学,自己啓発の本を読み過ぎた影響か,例えば,何事も諦めたらそれで終わりでゴールに達し得ない,という誰にでもわかる事実を,対偶を取って,何事も成し遂げた人はそれを諦めなかった,と言い換えると多くの人にとってありがたい言葉に聞こえるらしいという,最初は信じがたかったことも,今では平気で言えるようになった.対偶なら,まだ同値な表現なので罪はない気もするが,適当な言い換えだと,問題が起こることもある.

まずかったかもしれない事例の一つは,ホームページの中に,可積分系の研究をするには特殊能力が必要です,と書いた表現で,これはフツウに言えば,人並み以上の高い計算能力がないと研究では勝負できませんよということだ.

独断で可能性を排除してはいけないと,ポジティブな表現に置き換えたつもりだったが,残念ながら,いまここで教えている数学の出来ではその能力を測れるレベルではなく,その段階で躓くようなら無理だと思う.人並み以上の,という表現を,並の理論物理学者より,と言ったほうがより正確かもしれない.

可積分系の話は今でも着実に進歩しているし,重要な問題は恐ろしく難しいけれども,それに見合った能力とやる気があれば,私は指導できなくても,紹介できる先生は何人か居る.向いてないと判断した学生にそう伝えないのは教師として誠実ではないことぐらいはわかっていたが,自分がそう決めつける必要はないと責任を回避していた.今は,向いてないと判断すれば,正直に,そう伝えるだろう.一つの意見として聞いた上で,あとは自分で判断すればいいのだから.

一線を越えてしまった時こそ正直であれ,という方向に話が流れてしまったが,現実問題としては,現状をいかに維持するかのほうが重要だ.実は,還暦を越えた年配者が寿命を意識しながら心身の健康を保つために必要な何かと,而立以前の若者がダークサイドへの一線を越えることを踏みとどまらせる何かとが,似通っている気がしてきて,不惑のど真ん中に立つ自分には,少し恐ろしく感じる.

知的生産活動で食っていければと物理学者になって,考えることの力とその大切さを理解するものとしては,その踏みとどまらせるものを個人の考える力で構築できると信じている.最近流行っているらしい,ハンナ・アーレントの「思考の欠如」による「悪の凡庸性」と言ったら大げさかもしれないけれども,深く考えることで乗りきれる場面で考えず安易に一線を踏み越えてしまう状況がありふれている,と思うのは悲観的すぎるだろうか.深く考え続けることで解決できる問題がたくさんあることを伝えるのが,人間教育に繋がるのだとしたら,自分にもできることがあるかもしれない.

高校時代に良く聴いた尾崎豊とREBECCAは今でもiTunesの中に取り込んでいる.NOKKOの,一時期歌えなくなった後に出した,CDの存在を最近知って買って聴いたけれども,全く別物になっていた.尾崎豊が45歳になったら何を叫んでいただろうか.まさか,盗んだバイクで走りだすことはないだろうが,その時代に応じた,支配からの卒業を歌い続けたんじゃあないだろうか.

もっとやさぐれ感満載だった中島みゆきは今でも受け入れられているし長渕剛だって売れてるんだから,REBECCAや尾崎豊が売れない理由はないと思うのだが,ニューミュージック全盛の後半に実力で這い上がってきた人々と,バブル経済が始まる頃にその場の勢いでレコード会社に持ち上げられたお子様ロックバンドとの底力の違いなのかもしれない.

あるいは,時代が変わっても生き残る普遍性がなかったのだろうか.さとり世代にロックは受けないのか.我々40代が時代に取り残されているのではという気もする.今は亡き尾崎豊がどうこうとほざいている時点でダメなのかもしれない.仕組まれた自由に誰も気づかずに,というのは今の大学生そのものだと思うがなあ・・・.

そう言えば,つい先日,50代の先輩研究者から,自分の関わるある分野で,40代の研究者が育っていないと面と向かって愚痴られて,そうですねと答えるしかなかった. 昔から,人はいっぱい居るはずなのに,人材不足だなあと偉い先生方は嘆いていた. それはちゃんとした仕事をしたと認められる研究がいかに少ないかということである.

ちょうどその直前に,40代の先輩研究者と,少し違う分野だが,あの大御所の先生方が引退したらどうなるんだろうという話になり,自分の関わりはほぼない分野なので,その場は,あなたが引っ張っていくべきでしょうと逃げたんだけれども,確かに,50代,60代の組織力の高い研究者の方々と比較すると,我々40代は明らかに力不足だ.偉い先生方の手のひらの上で遊びまわっているに過ぎないのかもしれない.

結局,世間の評判通り時代の波に乗っかっただけのバブル世代がお荷物だということか.若者をdisっている場合ではないな.まあ還暦までは頑張って生きてみようか.そこまで走り抜ければ今の悩みも,そんな時代もあったねと笑って話せる日が来ると期待しよう.


20140621

年度替わりで,ホームページを更新せねばと思いながら,6月も後半に.ようやく更新する気になったチャンスを逃さないようにして,タイプしてみる.いつもは,何か気になることがあると,メモしていたのだが,この一年は,全く,その余裕がなかった.

いろいろな面から自分を支えてくれて,こちらも頼りにしていた,家族の一人を亡くし,早一年が経とうとしている.それから,立て続けに,大病を患う者が近くで続出したのは,それと無関係ではあるまい.人生の中でかなり大きな決断だった,計画の遂行もあり,綱渡り的にだが,全てを,なんとか,乗り切ったつもりでいたら,歪は弱い所に集中するという,必然の結果を,あちこちで,思い知らされた.これはいかんと,立てなおさねばと思っている,というのが現状だ.

大学では,学生達に大きく迷惑をかけた,というより,何もしなかったというのが正確だろう.自分としては気にかけていたつもりだが,学生からのアプローチがないのをいいことに,結果として,野放しとなり,これだけはやりますといっていたことに挫折したり,こちらとしては望ましくないと思う決断に至ったりして,為す術もなく,自分の無力さをつきつけられ,途方に暮れた. 結局,自分が,彼らにそれを踏みとどませるに足る,信用を失っている,あるいは,元々,そんなものは築けていなかったことに,気がついていなかったということだ.

それとは別に,ひょんなことから,学生に,そんなことも知らないのかと私に思われるという,恐怖感を自分が与えていることを,思い知らされた.いや,それは学生だけではなく,様々な場面での周りの反応が,それで説明できるように思えてきて,ちょっと,恐ろしい.

例えば,こちらが優秀だと認める学生に限って,決まって,うちの学科ではこんなことも教えてもらってないんです,なんてことを口にするのはどうしてだろうと気にしていて,そんなの気にせず,どんどん,先へ先へと勉強すればいいじゃない,と返すことで,正のフィードバックがかかればといいと,楽天的に考えていたんだけれども,それが,逆方向に作用する可能性に思いが至らなかった.

教員でも,ある会議で議長に苦言を呈したら,そこまではっきりものが言えると気持ちがいでしょう,なんて言われて,話を逸らして何を言ってんだこの人は,と訳がわからなかったが,同じことなのかもしれないと,今更ながら,そういう気がしてきた.あの時は,本当に頭がオカシイんじゃないかと思って口にしたので,それが正確に伝わったというだけのことだが.

はたして,自分が劣っていることを自覚させられるという場面は,回避すべき状況なのか?辛いのは理解できるけれども,オトナなら,それを表立って言えるのは,信頼関係が築けている間柄だけなんで,どうでもいい人から言われたなら無視すればいいし,そうでない人からの,具体的な指摘なら,むしろ,ありがたいぐらいに,私なら,思う.

自分に何かが欠けていて,それを自力では埋められない,という絶望感を持つことの辛さは,並の人よりはわかっているつもりだった.それは,何らかの価値観の評価軸を決めた時に,周りと比較して強烈に劣っていると自覚するか,強烈に優れたものを目の当たりにしてその存在が頭を離れなくなるか,のどちらかで生まれるものだとすると,そのような感覚を持ち合わせているのではと臭わせる北大生に出会うことは稀だ.そんな環境で,自分も,ある意味,平和ボケしているのかもしれない.あるいは,老化して感度が鈍ってるんだろうか.

自分の大学に入るまでの絶望感といえば,健康問題と家庭環境だが,前者に関しては,近所にいい病院ができてからは,大きな問題と感じられなくなっていたので,病気に悩んだら,良い医者を探すのがもっとも重要であるということをその時に学び,今でも,その信念に変わりはない.中学生まで公害認定患者であった経験を語ることは,その制度がほぼ打ち切りとなった今,意味のあることだと思うのだけれども,ここがその場にふさわしいかどうか,悩むところなので,また別の機会に.

後者は,要するに,カネの話である.遊んだり日常使うものを買ったりするぐらいのことは何とかなっても,大学受験に向けて,何かしようとすれば,あっという間に,10万単位のカネが必要になる.それでも,高校の授業だけでは話にならないと悟った時に,父に予備校に行かせてくれと懇願し,それを躊躇することなく受け入れてくれたのは有りがたかった.後から,それで借金をしたことを知って,あまりの経済的効率の悪さを感じたこともあり,高2の1年間でやめた.

1年間,週末に,孤独に通い続けた経験は,自分に,大きな影響を残し,無駄ではなかったと思う.英語のテキストは,最初の1学期の間,The Catcher in the Rye,の英文解釈をひたすらやるという,受験対策としては,なんとも言いがたい内容だが,講師もしっかりしていて,知的好奇心を煽るには最適だった.もちろん,抜粋だったので,その後,自分が初めて買ったペーパーバックとなった.

数学では,問題演習が基本だが,時間が余ると,脱線して,素数が無限個あることの証明を教えてくれたこともあった.実は,そちらの方は,当時の自分には全く響かなかったのだが,統計力学の講義をするときにゼータ関数が出てくると,必ず,そのことを思い出すので,意味はあったんだろう. 数学ガールに感動できるような若者は,私よりは,立派な教師になる素養があるんではなかろうか.

当時の,予備校講師と高校教師では,教える力量は別としても,知的レベルの差は歴然であった.受講生側もそれに敏感だったのか,一見パッとしない,数学の担当者を変えさせたほどだ.そのクラスは,ごく少数の私立進学校の生徒で,大半が占められており,彼らの圧力を無視できなかったようだが,教える側に立つと,恐ろしい.

その中の多くが,A日程で地元国立大学の医学部を,B日程で東大の理Iや理IIを,ダブル受験し,両方合格して,地元の医学部に進学していった.当時は,東大に行ったほうがいいんじゃないのと思ったが,彼らは,今の医学部志向を,先取っていたのかもしれない.むしろ,カネ持ちの家庭は,昔から,そういう発想だったのが,庶民にも広がったということか.

話がおおきくそれた.そういうことに絶望したわけではない.その受験生相手の商売をしている予備校が,実は,経済的に恵まれない,地元高校生に奨学金を出しているという事実を知っている人は多くないと思う.月額1万円であったが,返済義務はなく,大変ありがたかった.

高校の奨学金担当の教師に,申請書を出した時,それを一読して,彼の言ったことが,よくこんな家庭で育ってここまできたな,という感じ.正確には覚えていないが,笑顔で対応しながら,拳を強く握りしめて我慢したことは忘れない.まあ,他に,いい先生も居たから,悪いところではなかったと,今では思えるけれども,あんな惨めな思いは二度としたくないという気持ちは,その後も長い間,心の中で大きな位置を占めていた.

高2では,受講料を払いながら,奨学金をもらい,金銭的にはマイナスの状態で,コストから考えたら,奨学金無しで受講料無料の方がお互いにメリットが有るのではと,ダメ元で,財団の事務局と交渉してみた.すると,受講料は無理だが,模試はタダで受験させてくれるという,柔軟な対応をしてくれて,本当に,感謝している.高3では,予備校の授業は受けず,毎週のように模試を受けた.

大学に入ると,実戦模試で何位だったとか,オープンはどうだ,Yゼミはなんて模試だったか忘れてしまったが,とにかく,そんな話題を,耳にすることが,たびたび,あった.自分の順位を晒すなら,自己顕示欲の現れとして,まだ理解できなくもないが,全く個人的つながりもないと思われる成績優秀者の名前を挙げて何かを語っているが,何が言いたいのかよくわからないような人々には,近づかないようにしていた.

はっきり言って,アホらしい.当時は,情報公開制度が出来る前で,自分の入試の結果を知る方法がなかったから,何かを点数化して安心しようとするとそういうことになる人間が,一定割合,居ると考えるしか無い.

それは,北大でも,似たようなことがあって,入試シーズンになると,自分の入試の結果を話題にし,さらに, センター試験や2次試験の問題を解いてみる,という学生が少なからず居る.どんだけ暇なのよ?と思う.

そんな時間があるなら,受講中の授業の過去問でも解けよと言いたい.もちろん,それは,過去問がすんなりと解けないから,安易な方向で,いわゆる,承認欲求を満たそうとしているんだろうと想像する.その程度の達成度で満たされる状態なら,幸せな境遇であると考えることもできるが,どうなんだろう.

惨めな思いはしたくない,というのは,それと同程度の承認欲求なのか,あるいは,もっと低レベルの,安全欲求や生理的欲求に含まれるのか,心理学の専門家に聞かないとわからないけれども,そういう思いから,将来,どうやって食っていくのか?という問題意識を常に持たされることになった.

大学3年までは,色々と思い悩んだといえば,それはそうだが,現実は,何も決められず,怠惰な生活を送っていたと言うべきかもしれない.しかし,その準備期間があってこそ,研究室配属されてから,研究者になると決心できたとも言える.

そんなことに思い悩む必要のない学生でも,遊んで暮らせる身分でなければ,進学するかしないかにかかわらず,何らかの職に就くんだろう.そんな学生たちには,単位を取るとか,院試に合格するとか,卒業できるかとかいう,その場しのぎの対処に追われるのではなく,是非とも,これからは,自分の好きなことで,お金が稼げるか?という視点を,持つように努力してほしい.

いかがわしいゲームにハマる学生が居るのはいつの時代も同じだと微笑ましく思うが,それだって,稼ぎにつながることもある.ある人は,どうしても到達できないエンディングがあって,プロテクトを外し,逆アセンブラをかけてパラメータを変更する技術を習得するなど,裏技にはまっていくうちに,SEになった.

最近のゲームでは,改造による強化は認めない,という健全なスポーツであるかのような扱いがあることを知って,苦笑する.まあ,ポケモンなんかはコドモのお遊びでもあるから仕方ないんだろう.大会の主催者なら,それは面白い経験もできるかもしれないけれども,他人の手のひらの上で駆けまわって,何が楽しいんだろうと,自分は,そう思うタイプの人間だ.もちろん,もっと突き詰めて,それが,全国的な規模で,賞金の出る大会だというなら,理解できるし,ウメハラぐらいになれるのなら,尊敬に値すると思う.彼の著書は一読の価値がある.

音ゲーだって同じだ.用意された,レベル基準で最高位を取るのは快感かもしれないが,その基準数値を変更して,もっと,上を目指すことを考えてもいい気がする.新たな価値基準を創りだして,それをプログラムに組み込んだら,上手く出来ていたら,雇ってもらえるんじゃないかと思う.まあ,コナミのような大手メーカー相手で,ソース改変は無理か.それとも,ゲーセンでしか出来ないのか? パラッパラッパーぐらいしかやった記憶のないオヤジには,正直,どのような世界なのかわからん.

音ゲーに分類していいのか微妙だが,ラブandベリーにはまった娘たちが成長してゲーセンに通ってるんだとしたら,刷り込みの恐ろしさを感じる.ゲームメーカー恐るべし. なぜか,いまでも,ふんわりセミロングとか,プリティたてロールという,髪型カードのことが,頭に浮かんでくることがあるから,それだけ,強烈な印象を残す仕掛けがあったんだろう.

2048は確かにハマる.しかし,4096まで出そうとすると,あまりに時間がかかって,これ,自分でもっと早いインターフェイス作れるよな,というような発想になってもいいと思う.androidもiOSも開発環境はタダなんだから,そういうことにトライするうちに,あらゆる問題に対応できる解法をスクリプトで作るとか,問題ごとに取りうる最高点を算出していみるとか,新たな,アイデアが浮かんでくるものだ.というより,まともなアイデアなんて,空想しているだけでは出てくるわけがない.

社会人OBの話によれば,ソシャゲーにはまっているのは学生だけじゃあないらしい.短時間で切り上げられるものなら,ストレス解消にはいいかもしれないが,無課金だからと,一日に何時間もかけるようなら,自分の時給を考えたほうがいい.こう,書き連ねてみると,どれも,高得点を取ったことを,ネット上にしらしめることが出来て,承認欲求を満足させるものばかりではないか.あるいは,もっと低レベルの欲求が満たされないことから,中毒化しているなら,さらに,深刻だ.

無理やりまとめると,与えられたルールの中で遊ばされる側じゃなくて,ルールを作る側になれ,ということか.それでも,承認欲求を求めるというのは,実は,現状の生活が安定していて,その状態が失われるなんて,考えもしなくなっているということではないのかと心配になるが,そういう状態で居られるのは幸せなことなので,こちらが口出しすべきことではないのかもしれない.

結局,カネと時間を,情弱が奪われてるだけのことで,同じカネと時間を投入するなら,反対側に回ろうとする発想を持てばいいのに.そういう人々が,とんでもない天才ばかりだと勘違いしているんだろうか.ともかく,そんなこと自分には出来ないと考えているとしたら,それこそが開発者側から情弱と呼ばれる所以だろう.

それとも,食ってかなきゃいけないなんて発想が時代遅れなのだろうか.祖父母や両親を介護して相続財産で生き延びられる人々なんだろうか.自分には全く理解できない.他の先生方からも,同様の話を聞くんで,大学の現状を知らしめるために,指導教員に呆れられながらも,今の学生も力強く生きてます,という話をまとめようとしていたんだが,将来,なんともならない可能性もあり,他の研究室に迷惑をかけてはいかんので,思いとどまることにする.

学位が取れない,卒業できない,といった可能性が現実味を帯びてきたと自覚させられた学生が,何かが欠けているという絶望感と直面した時,どうしたらよいか,ということを考えたかったんだけれども,結局,自分には,まともな,助言はできないのかもしれない.まだ,先のある学生には,今からでも,よく考えて,自分の行き先を選んで,それに突き進んでほしい,というぐらいか.

しかし,もし,その絶望感が,物理を理解できないことによるものであるならば,自分は,自分が確実に理解できていることなら,応物の学生であれば,どんな内容でも時間をかけて説明することで理解してもらえると,信じている.

私が関心をもつ,物性理論とは,文字通り,物質の性質を理論的に研究することである.主に電子の性質に着目していて,そうすると,支配方程式はシュレディンガー方程式で,電磁場が絡めば,マックスウェル方程式を連立して解く.計算手法として,統計力学や場の量子論を基礎とした手法を用いるが,それは,道具として使えばよろしい.

こう言ってしまうと,何も神秘的なことはなく,計算問題を解くだけのような印象を与えるかもしれないが,ほとんどの問題は,その計算を厳密に実行することはできず,近似的な有効理論を構築する必要がある.そこから,新たな,法則が導かれ,適当な条件下では,世界中の誰が実験しても,同じ結果が得られるという,新たなルールを自分で決めたような感覚になれる.それは,少々おこがましいけれども,緻密に積み上げた論理的思考だけで現実世界を理解できるという感動は,使ったことはないが,麻薬のようなもので,常にそれを追いかけていると思ってもらえばいい.

それが,現実世界に役立てば,なお,いいことで,工学部に身をおくものとしては,それを全面に出すべきなんだろうけども,本音としては,それは,おまけでいい.自分は,物理で儲けようとは考えていないし,役立てば嬉しいけれども,自分には,そういうことを見出す才能はないので,もっと出来る人に頑張ってもらえばいいと思う.

役に立つにしろ立たないにしろ,それがはっきりする結果にたどり着ければ,学生たちの想像する物理に近いと信じるが,実際の研究現場での作業が,そのような物理かと言われると,そうとは言いがたい気がする.

それに到達する過程で,仮設を立て,検証する,という作業を繰り返すのだが,その検証作業はひたすら計算するのみ.計算が苦手な場合は,そこで躓く.仮設を立てるには,一定の経験が必要で,ここは,計算力とは別の,モデルの構成能力が要求される.既存の実験データとの比較はどちらの場合でも,必須の,作業行程だ.

これらの作業が確実に実行されるために,非常に重要なのは,自分が何を理解していて,何を理解できていないかが,明確になっていることである.研究現場で知ったかぶりは厳禁で,そういう素振りが見られたら,研究者はあっという間に信頼されなくなる.

だから,学生とは,最初のうちは,お互いが使っている物理用語の内容が一致しているかどうかという確認作業に終始する.研究室セミナーとは,そういう場だ.こんなことも知らないのか,なんて,言われることを恐れている場合ではなくて,もっと,厳しく,自分が何をわかっていて,わかっていないかが,白日のもとにさらされることになる.このような作業が数日で終わることもあれば,半年以上かかることもある.

いずれにしろ,既存の規則を正確に把握できなければ,新しいルールを考えるなんて不可能なので,この作業は,不可欠である.むしろ,この作業を経て,初めて,たどり着ける境地があることを理解してほしい.

期末テストを乗り切るための勉強,大学院入試に合格するための勉強,学術論文を発表するまでに必要な勉強とでは,それぞれ,質が違うのは当然だと思って欲しいし,本格的研究に取り組むつもりなら,急がば回れで,早い段階から,確実な理解を積み上げていってもらいたい.

それが誰にでもできると信じるのは,自分が予備校の一番出来の悪いクラスで数学を教えた経験と,実行可能な計算結果が,天才的な,物理的説明と呼ばれる,直感に頼らずとも,地道な計算で結果が導かれることによる.ただし,多くの学生は,自分の使える時間は有限であるという現実に直面する.

我々が学生の頃に授かった,良い成果を出そうとしていつまでも結果が出せないのは能力の有無とは関係なく起こることで,むしろ,自分で適当に締め切りを設定してそれで到達した結果で能力が判断されると考えなさい,という先達の教えは,今どきの学生には,ほとんど,浸透していない.締め切り,というか,もっと広い意味で,約束の重みが,大きく低下している気がする.

多くの学生が,一定量の仕事を与えられた時,必要な時間がこれぐらいだからそれをこの時間に片付ける,というのではなく,自分の空き時間がここだから,ここで取り組む,というやり方を取る.それまでに頭を使ってする仕事をしたことがないんだろう.時間をかければそれだけ給料をもらえるという発想だ.

それで,与えられた課題がこなせず,勝手に落ち込む,というような振る舞いから,こちらも学習して,出来た所まで話をしてくれ,というやり方にしていると,進みは遅くなるけれども,何とか発表はできる.それでも,その方法だと,これで終わりという達成感が得られにくく,わからないという辛さが蓄積して,絶望感で心が折れることもありうる.

出来た所まで,今考えていること,を発表してくれ,というのは,それなら出来るだろう,というつもりだったんだけれども,逃げ場がなくなって,追い詰めることになるということか.わからないことがあれば,相談してくれるという過信があった.何かを強制することで,かえって,余裕が生まれる部分があるのかも,と考えなおすべきか.

しかしながら,自分が劣っているという絶望感に苦しむとき,それを和らげる手段がどうしてもないのだとしたら,その価値観を捨ててしまうのはひとつの方法だと思う.衣食住に困っていなければ,別の価値観の意義を見い出せばいい.ただ,それなら,早い方がいいし,時間を逆行することは出来ないから,これは,今の学部生に対するアドバイスだ.

もし,学生にとって,教員が何でも知っていて,日々,優越感にあふれ,幸せな存在に見えるのだとしたら,それは,ほんの一面しか見ていないといえる.教員や先輩が,一見,賢く思えるのは,多くの場合,経験の差によるものである.

自分がよく理解していることを,相手がどの程度の理解までに至っているかは,いくつか質問をしてみれば,正確に把握できるのに対して,自分が理解していないことを,相手がどの程度の理解に至っているかは,青天井で,その対称性の破れが,慢心や絶望という勘違いを生みやすい.学生だと,その僅かな差に,一喜一憂するのもわかるが,それを上手くコントロールできなければ,研究者としてはやっていけない.

強烈に優れた才能を目の当たりにした時の絶望感は,研究をしていると,容易に体験できる.そのギャップを埋めることは全く無理に思えても,そういう人と接することによって得るものはとても大きい.それこそ,そんなことも知らないの,と言われることを恐れるている場合ではなく,そういう人に,教えてもらうべきことは,価値観や物の考え方である.人間を変えるもっとも大きな力を持つのは人間だ.

自分は考えが煮詰まると,あえて,そういう人々にコンタクトを取り,会って,話を聞いてもらうようにしている.話だけで済むなら,飲み会で十分だ.もちろん,何の話のネタもなしに行くことは憚られ,きちんと準備していっても,ダメ出しを食らうことが多いので,気が進まないんだけれども,それでも行く.

学生にもそのような態度で臨んでほしいのだが,そうならないのは,自分にそれだけの価値を見出してもらえないというか,それだけの魅力がないのだろう.自分に足りないものはいったいなんだろうか?しばらく,気になっていたことがあって,これと結びつけて終わりとしたい.

2年ぐらい前だったか,People of the lieという本を読んだ時に,これ自分のことじゃないかと,自問自答したことがある.読むとホント怖くなる.翻訳は随分昔に話題になったらしく,これがきっかけで人格障害と言う用語が日本で広まったという噂も聞いた.Evil とは何かを考えさせられるのだが,典型的な内容を最終章のまとめから拾う:

"..., it is characteristic of those who are evil to judge others as evil. Unable to acknowledge their own imperfection, they must explain away their flaws by blaming others. And, if necessary, they will even destroy others in the name of righteousness."

それで,それをどう救うか?に対する答えが次の文に集約されている:

"The healing of evil - scientifically or otherwise -can be accomplished only by the love of individuals."

Evilに関しては,豊富に例を上げ,念入りに定義していくのに,最後の最後で,その解決法が,Loveかよ!愛って何かきちんと定義してくれ!と心の中で叫んだ.以前紹介した,Sandel の本でも,愛は枯渇する資源とは違うということを,今流行の,行動経済学の成果を持ちだして強調していた.結局,邪悪を癒やすには,より大きな愛を持った,別の人間がそれを吸収するしか無い,と上の文から続くんだけども,自分もそうやって,偉大な人々に,自分の毒を吸収してもらっていると考えると,納得しないでもない.

宗教が通じる世界は安易でいいなあと思っていたが,そういえば,スカパラの曲でも,愛があるかい?ってあったよなあと思い出し,iPhoneで聞いてみると,同じようなことを言っている.繰り返し聴いているのに,自分が,音楽の歌詞に意味を全く意識していないことを再認識させられたのが,それはいいとして,愛にも普遍性があるということか.

考えてみれば,高校時代の絶望だって,全く同じ言葉でも,そこに愛があると思える先生に言われたら,感じることはなかったかもしれない.自分の無知をさらけ出すのも,まずは,愛があると感じられてこそ,始められるのかもしれない.

愛が足りない,という類の話は,マザーテレサを思いだすが,思考の行き着く先が,マザーテレサや金子みすずになってしまうのは,疲れている証拠だ.

それでも,みすずは,個性の尊重を訴える独創的な詩を残しながら,子どもと引き裂かれ失意の中で自害し,貧しい人々を愛情を持って支え続けたマザーも,死後,心の闇が明らかになったりと,人間誰でも清濁併せ持つ存在であることを思い出せば,少しは気が楽になる.

保存量ではないというのが正しいとしても,愛をどれだけ作り出せるかは,人によって違うことは確かだろう.まさに,みんなちがってみんないい.自分は,個人が自由であることを尊重する愛は持ち続けられるのではないか・・・と思いたい.

まあ,自分の学生には,人並みに愛情を持って,協力を惜しまないし,アドバイスが欲しければ,いくらでも助言するけれども,進路でも研究でも,大事なことは自分自身で決めてくれ,ということだな.自分の本当にやりたいことをやり,それが持続可能なように,余裕のあるうちに,努力しろと.

お前のメールは長すぎて読む気にならないとよく言われるが,そんな自分でも,これだけの長文を打つのは,さすがに,疲れる.しかし,この程度の疲労なら,闇夜を照らす,それは愛さ,君の奇跡を起こ〜し〜て!とマイクで叫べば解消するだろう.久しく行ってない気がするので,どなたか,そのうち,ご一緒しましょう.


20131011

10月1日から新学期が始まり,初日から担当する講義の初回があった.もう3年目で,おおよその内容は固まっているが,今年もノートは作りなおすことに.最近,頭の回転が悪くなってきたせいか,若いころと比べて,言葉が思うように出てこない.自分では,慎重に物事を考えてしゃべるようになったと解釈しているんだけれども,講義で,いちいち考えて,沈黙していては,聞くに堪えないだろう.

他人に何かを理路整然と話すことができているとすれば,必ず,過去に自分の中で同じ思考をたどっているはずで,少し考えただけでそれが可能になる場合もあれば,繰り返し練習をしないとできない場合もある.話すことを求められているのに,沈黙するということは,その場で必死に考えているということなのか,あるいは,沈黙は力なりと,こちらが根負けして口を開くか諦めるかして,嵐が去るのを待っているのか,いずれにしろ,準備が足りないということだ,と私は思っている.

ある飲み会で,議論中の学生の沈黙に耐えられない,学生の方はどうしてそれに耐えられるタフさがあるのか理解できない,という話をすると.それはお前にも原因があるとの反応.いまどきの学生は,空気を読む能力は高いので,それがまずい状況であることぐらいは理解しているとする.また,仲間内でのコミュニケーションには気を遣っており,空気を読んで,それに乗っかるにしろ,外すにしろ,むしろ,丁寧に応答する能力に長けている.

ところが,お前は空気を乱す発言を平気にする上,思わぬ方向に流れを変えがちなので,学生には何を考えているかわかりづらく,どう反応するのが適当なのかが判断できず固まっているのでは,という話.そんなこと言われてもなあ・・・.相手に期待する反応があるなら,そう思っているかどうか確認するし,こちらの考えを伝えたあとは相手の答えを待つしかないではないか.それで,5分とか10分とか,黙ってても平気なのはどうよ.平気じゃあないのかもしれんが.

突き詰めると,意見の不一致があった時どう調整するかという問題だが,物理の議論では,お互いに考えていることが同じで内容であることを確認する作業である事が多い.それには信頼関係が構築されていないと,なかなか,話が進まない.

こちらの質問に対して「XXX効果が非常に強いからです」なんて返答があたっときに,例えば,自分の講義を受講している学生が,こちらが説明した内容を踏まえて,正しい事実を言っているなら,何も文句をつけることなく,「その通りです」と答えるのみ.それが,研究室配属されたばかりの4年生であれば,「XXX効果って何?」,「非常にってどの程度?」,「強いってどういう意味で?」などと問いただし,それが確認できたら,「どうしてそれが理由になるの?」と聞くことになるだろう.理由を答えているつもりなのに,それがどうして理由になるの,と聞かれることは,日常ではあまりないのかもしれない.

実際,きちんとした学生でも,想定される質問の答えは用意していても,その答えに疑問を持たれることは想定していないことが多い.ある学生が,発言内容の全てに根拠がないと私に言われて落ち込んだ,という話をしてくれたことがある.もちろん,計算して得られた結果に関する解釈の話であって,人間性を否定するものでは決してない.議論で詰め寄られると,人格を否定されているように感じてしまう学生がいるようだが,少なくとも,物理の議論でそのようなことはありえない.

自分の中では「根拠がない」発言というのは,必要以上に強く主張されるのでなければ,非難を意図するものではない.研究は未知の結果を得ようとする作業だから,根拠なく,ああでもないこうでもないと,様々な仮説を立ててはそれを潰していくことの繰り返しである.根拠ある話だけしか頼りにできないとしてしまっては,何でも理解できる頭の良さに頼った論理的思考だけで新たな場所にたどり着くか,特別な技術をもってして結果を得るかのどちらかしかありえず,凡人の試行錯誤は無意味であることになるが,実際はそんなことにはなっていない.天才の試行錯誤が最強なのは否めないが,世の中の解かれるべき問題の数とくらべると,天才の人数は明らかに不足しているので,ある程度の努力家なら,誰でも,新たな道を開けるし,それを支えているのは,ほとんどが,フツウの人である.

ともかく,自分と相手の中で「XXX効果」が同じものであり,それが「非常に強い」ことの定義が同じだ,と確認できて,初めて,その主張が理由になるか議論できるのであって,その結果,説明ができるかどうか結論が出なければ「根拠がない」ということになろう.もちろん,その中には自分達が無知であるという場合も含まれる.「XXX効果が非常に強い」というのが事実で,それとこちらの質問内容とをつなぐ何かがあれば,それを答えるのが筋だし,それが思いつかないけれども自信があれば,それ以外に考えられませんとか,何かから引っ張ってきた情報で自信がないなら,素直にそう答えればいいだけだ.少なくとも,沈黙する必要はない.理由を考えた過程を示してくれればなお良い.議論の相手が目前にいるんだから,一緒に考える努力をしてほしい.

このことは,自分の若いころの振る舞いに対する反省でもある.他人との議論は,決して,得意ではなく,むしろ,相手がどう考えているかなんて,気にしていなかったし,自分自身の考え方を他人に理解してもらおうという意識も薄かった.しかし,こちらが疑問に思うことはすぐに口にするので,嫌がられていたに違いない.大学院生時代,自分の勉強したことを,修士の学生全員に発表するという,ウチの専攻で言えば特別演習にあたる科目があって,その発表準備のために行った研究室セミナーのことを思い出してみる.

自分が大学院の所属研究室を決めたきっかけのひとつが,ある先生がアメリカ留学から帰ってきて,2次元電子系で生じる特別な量子統計性の話題を持ち込んで,その話を聞いた別の先生が,講義で,3年生であった自分に話をしてくれたことである.私のいた学科では,卒業研究では必ず実験の研究室に所属することになっていて,自分はボーズ凝縮の研究ができるという研究室に所属し,卒論を終えて,大学院から,そのアメリカ帰りの先生の初めての大学院生となった.学部生時代に,粒子の量子統計に大いに興味を持った訳だが,それから20年以上経過して,やはり,3年生に量子統計力学を教えることになるとは,当時は想像もしなかった.

それはともかく,そういう経緯もあって,研究室セミナーにおいて,その特殊な量子統計性に関するテーマで発表することになった.数学的には,多電子系の状態空間のトポロジーに対する基本群,と呼ばれる量を定義することで明快に説明され,それにいたく感動し,入念に準備して発表したつもりだった.しかし,それを聴いてくれた非常に博識な先輩に,実際にはもっとソフトな言い回しであったが,要は,そんな発表は殆どの人に理解されない,とダメ出しされた.大幅な改変を余儀なくされ,本番の発表では,ほとんど,原型をとどめていなかった.

指導教員は,実は僕もそう理解した,と言ってくれて,この人を選んで本当に良かったと思ったし,分かる人がどれだけ居るかどうかよりも,内容が正しく本質を突いていてればそれでいいと思っていた.本当のところは,たまたま,自分で勉強したことのある数学の知識が適用出来る,簡単な例になっていただけで,実際にやったことは,単に用語の置き換えに過ぎなかった.つまり,その言葉を知っていたというだけのことで,言ってみれば,難しい言葉で相手を煙に巻くようなものだ.

これも,もう昔の話になりつつあるが,古くからよく知られた,ある電子系に対する有効モデルにおいて,それまで意識されなかった対称性の存在が,輸送特性を決定づける重要な役割を果たすことに気がついて,論文を書いた.それは,自分としては,かなり力を入れた研究で,満足の行く仕事でもあった.

ところが,その一歩先に,パラメータ空間を拡大することにより,さらに大きな対称性の考察が可能となる,新たな,パラダイムがあり,そこでは,まさに,先に述べた,基本群を使った分類が,近年,盛んに研究されている.その端緒となる論文が我々の仕事をきちんと引用してくれていて,そのことで,思わぬ方から,自分の仕事に気がついてくださり,いい仕事をしたんですねと言ってもらえるのは嬉しいんだけども,そのパラダイムに気がつけなかったのは,自分の理解の浅さを実証するいい例だろう.

職を得てからだって,学問に関して,自分が何をわかっているかということの大半を崩壊させる,強烈な体験があるのだが,それはこれまでにも書いたことがあるし,また長くなるのでここでは触れないで,学問の理解の仕方に関する変遷を振り返ってみる.

自分の通った高校は,今でこそノーベル物理学賞を取ったあの先生と同じなんですと話題にできるけれども,上京してから尋ねられて,知ってるわけないと思いつつ,やむなく,答えても,今は亡きあるアイドルを知るオタク系の友人以外は,誰も認識してくれなかった.県内では中堅の進学校だったと思う.あるとき,受験勉強に集中すると決断すると,学校の授業は全く無駄に思え,完全に授業放棄.高2では某予備校の現役向けコースに通ってみた.講師の質の高さは認めるものの,やはり,値段に見合ったものは得られないと判断.授業料を最初に払い込んでしまったんで,一年通ったけども,それでおしまい.結局,独自の勉強で,受験を乗り切ることになる.

この時,受験勉強で形成された物事の理解の仕方が,基本的に,記憶に頼りきったもので,論理なんてものを意識したことはなかった.しかも,その記憶された内容が,教科書を体系的に学び取ったものではなく,問題を解くのに都合よく取り込まれたバラバラの知識として,頭の中に詰め込まれているだけである.唯一,まともの使えたのは,学問の性質上,論理がなければ成り立たない,数学で得た知識だけだ.受験勉強が嫌になって読みはじめた,数学や物理の文献を,もっと,しっかり勉強していれば,また,違ったかもしれない.

大学一年で受講した数学演習において,こちらとしては,自信満々で,黒板で問題を解いて見せると,担当教員に,結果としてはいイイように見えるけれども,一般に通用するようなコトバをきちんと使いなさい,という趣旨のコメントを受けたことは,いまでもはっきり覚えている.その時点で,その助言を十分に理解して勉強のやり方を変えていけば,それはそれで,別の研究人生だった気がするが,その時の自分の考えを改めるには,さらに10年以上の年月を必要とした.

こちらもすっかり歳をとって,娘に中学受験をさせることになり,勉強を教えるようになった.告白すると,大学時代,小学生の頃から必死になって勉強してこんな自分と一緒かと,中学受験組を可哀想な人々ぐらいに思っていた.大学院に入って,中高一貫私立学校出身の,多くの天才たちと接すると,苦もなくここまで来た人も居ることを知った.さらに,遅まきながら,身をもってその学習内容を理解すると,考え方は180度変化した.

子供に様々な一般常識に関する無知ぶりを晒すことになるのは,自分が教養人でないことぐらい自覚しているのでいいとする.しかし,求められる読解力と計算力には脱帽である.超難関校を目指すと算数の特殊な解法をたくさん覚えるなんていうケースもあるかもしれないが,問題文をきちんと読み取る国語力,そして,論理的構成力があれば,そんな特殊算を意識しなくても,たいていの問題はなんとかなる.

鶴亀算とか,流水算,ニュートン算とか,名前のついた特殊算をたくさん覚えなければいけないのだとしたら,馬鹿げたことだと感じていた.しかし,それがどうして生じるか,私が理解したのは,小学生にマイナスという概念を教えるのを諦めた結果だということだ,しかし,地上・地下とか,お金の黒字・赤字とかのアナロジーでもいいし,ゲームなんかでマイナスポイントなんていうのはバンバン使い倒している.

さらに,それらのレベルを超えて,抽象化する力があれば,話が早い.数直線上の移動を考えたり,マイナスの数は引くという演算操作とみなして,和と差は可換であることを理解すれば,あっさり乗り越えられる.そうすると,連立方程式さえ書き下せば,筆算をするように,解くことができて,複雑な文章題に対して,未知変数をおいて,問題を連立方程式に還元するという手法を,多くの子供が身につけているし,実際問題としては,特殊算だって習得して,必要に応じて,使い分けている.

もちろん,それは優秀な一部の子どもたちではあるが,その実数は,想像するに,全国に,千人のオーダーは居るのではないだろうか.そうすると,中学受験と無関係な子供も,きちんと教育すれば,何万という子供がそういうレベルに達する可能性が出てきて,一学年にその程度の数の秀才の能力を最大限に伸ばしていければ,科学技術の発展に貢献する人材が不足するということはないのではなかろうか.

まあ,そんな教育を受けていない身としては,そういう教育を受けたものだけを登用する,社会主義のような,やりかたには反対なんだが,子どもたちを見ていれば,数理的能力が高いとか,文章力があるなんてのは,容易に見分けられることなので,ポテンシャルがあるものなら,それを最大限に伸ばすよう導いていくのが教育の使命だと思う.それは,大学教育でも変わりはないはずだ.

話を少し戻して,理科はほとんどお手上げだった.恥ずかしい話だが,例えば,月の公転周期と満ち欠けの周期が違うことなど,それまで,全く意識しなかったし,その違いを小学生の知識で概算できることにも,正直,驚いた.円周率が3でも3.14でも,そんなことはどうでもいい.彼女らは,円周率はπ(パイ)として計算し,その値は,最後に代入することを徹底して教えられているんだから.

太陽電池による発電で,入射光を傾けると発電効率が下がる理由を娘に尋ねられた時,それは,光が電磁波で,進行方向の平面波は電池の面に垂直入射する成分と平行方向に進む成分の線形結合で表せて,発電に寄与するのは垂直成分だけだから,という内容を出来るだけ簡単に説明しようと試みたが,当然ながら,挫折した.

塾のテキストを見ると,むしろ,光子と考えて(もちろん,そんな記述はなく,図として光線を表す矢印が書いてあるだけなんだが),進行方向と直交する平面において,単位時間単位面積あたり,通過する光子数(矢印の数)が一定として,電池面に到達する光子数を考えればいい,という考え方が提示してある.それは自分の説明した内容と同じことだと言ってみるも,虚しいだけだった.

そのことを,やはり,お子様に中学受験をさせることに決め,ご自身も中学受験を経験した先輩に尋ねてみると,こちらが散々愚痴ったあとに,あっさりと,日が高いと暖かくて,日が低くなると涼しくなるでしょう,所詮,エネルギー変換なんだから,その感覚が掴めていればいいんだよ,と明快な回答を頂いた.ガツンと殴られたような感覚だった.学部時代から世話になった先輩で,実験家の教授として,その分野の一線で活躍されているが,いつも,その説明は明快,新しい問題に対して,どのような説明をつけていくか,常に考えておられてたのが印象に残っている.議論に参加させてもらったことも度々で,本当に,色々なことを教わったが,こんなことまで教わることになるとは.正直,自分のセンスのなさに落ち込んだ.

これを,中学受験の経験の有無と結びつけるのは無理があるかもしれないけれども,小学生時代にこれだけの努力をして,知識を増やし,計算力を上げ,身近な経験と結びついた正しい世界観を,その本質が理解できるかどうかは別としても,きちんとした体系として記憶しているだけで,大きな力となり得ること納得したわけである.

この太陽電池の話も,よく考えると,ベクトルの直和分解と表現の一意性,という極めて重要な概念の具体的な応用例と考えることができる.と言うより,数学概念の多くは,世にありふれた仕組みを抽象化して,そこから普遍的に導けることは何かを考え続けてきて蓄積されてきた,と考えたほうがいい.小学生にベクトル空間までは理解できないかもしれないが,この太陽電池や,日の高さと気温の関係など,正しい知識を,しっかりと習得していれば,抽象化概念として学んだ時に,より,スムーズに受け入れられるのではないかと想像する.

中学・高校で学べばいいことではないか,という意見はもっともだが,能力がある者に,もっと先に大きな世界があることを示していく教育が,日本では,欠落している.これは大学でも同じだ.必修科目ばかりで,結局,その大勢が合格できる程度にレベルを設定しようとすると,内容が削減されていくが,研究の最前線は,逆に,必要な知識が増大し続けている.優秀な学生はたくさんいるのに,彼らが,ゆとり教育で平均値が下がったのに引きづられて,能力に見合った程度には知識レベルが引き上げられていないことに,気が付かない場合が多い.言ってみれば,井の中の蛙だ.

早い段階から,先を見据え,確実に知識を定着させ,高い目標を掲げて,決めた道を突き進み,諦めないことで,理想を実現できることを,実体験として,知っている人間が日本の将来を支えていくんだよと言われたら,昔なら,いやいやと,抵抗したと思うが,今は,素直に同意する.

特別な人間に限定されたような話の流れになってきたが,言いたいことは,フツウの人間であっても,基本が大切で,確実に定着した知識を基にして,何を分かっているかをはっきりさせることが重要であるという点だ.頑張ればなんでもできる,というのは幻想だが,誰でも,その人に合った,理想に近づけるということは言ってもいいのではないかと思う.

大学教員でもいい加減な物言いをする人はいくらでもいるが,知的生産活動に本質的貢献をしていると私が思える人々は.概して,何がわかって,何がわからないかということの区分が明確で,質問すれば,明快な説明が出る場合も,わからないという場合も,ほぼ即答だ.もちろん,わからないという返答の後には,こういう場合はこうなって,また別の場合は,などとすぐに議論が始まる.

大学院時代に,世話になっていたある先生が,夕食を一緒にした際や,議論の合間に,あるノーベル賞受賞者を引き合いに出し,彼ぐらいの能力があれば,どんなテーマに手を出してもいいだろうけども,我々のような凡人には,自分の足場を固めて,そこに地道に何かを積み上げていく他ないと,何度も繰り返していた.

その先生とわたしの間にあるギャップと比べたら,彼らの間の差なんて無視出来るほどなのに,我々のような,と言われたのには,この先生,何言ってるんだと密かに思ったし,何回同じ話を繰り返すんだと辟易としたこともあったが,研究テーマに,首尾一貫性がなく,闇雲にあれこれ手を出していた自分への戒めだったのだろうと,今は思う.どんなことでも,基礎を固め,そこから,論理的に,一つ一つ積み上げていけば,大きな仕事になるというお言葉であった.いい加減なことをやっている場合じゃないだろうとは,当時の自分には響いていなかった.

自分の情けない思い出を書き連ねるとキリがないので,ここで,話を大きく引き戻すと,議論で沈黙するのはなぜかということだった.聞かれたことに対する返答に窮することで発生する事象であるが,若いころの自分は,その場でよく考えるというよりは,常に,記憶のデータベースの中から一番近いものを選び出して,答えていた.つまり,よく分かっていないことも,知ったかぶりで答えていたということだ.そのまま,一生を過ごせたら,それはまた一つの人生だっただろう.でも,それが居心地の悪い状態だと感じてしまったら,後戻りはできない.

高校時代に数学者になりたいと思って,大学に入って,あれだけ一所懸命に数学の勉強をしたつもりだったのに,数学の研究ができる気がしなかったのは,その論理体系をきちんと自分のものとすることができていなかったからであることは明白だ.考え方を変えた今,何かを始めるときに,それなりに知っているつもりでいたことでも,イチから勉強し直することにしているが,これが本当に面白い.学生時代,物理は計算して答えが出ればいいという考え方で取り組んだせいか,その面白さを十分に感じることもないまま,職業として理論物理学者を選んだという感覚がある.

職を得て,学位を取ってから,そんなことに気がついてしまって生きていけるのか,と思うかもしれない.確かに,一時期は辛かったが,そこから,初めて,自分の物理に関する世界観が形成され始めたんだと思っている.それ以前なら,常識とみなしていたような内容が,新たに勉強し直すと,少しずつだが,世界が広がった.過去に得たつもりの知識の大部分は,聞いたことはあるぐらいの話に成り下がって,自分が走り回れるフィールドも,随分小さな領域になってしまったけれども,心底,楽しみながら仕事が出来るのは本当に幸せなことだと思う.

物理で重要なのは,現実世界に起きる現象を,枝葉末節を捨て去り,本質的な自由度を取り上げ,それらが従う運動法則から導かれる普遍的な性質として,記述することである.この作業の殆どは,試行錯誤の繰り返しで,しかも,物理的感覚が非常に大切であることは間違いない.しかしながら,ある法則を仮説として立てさえすれば,その検証作業は,誰にでも実行可能である.

私の講義では,仮説を立て,それが数式で表現され,論理ステップを幾つか踏むと,物理現象の説明に到達する,という経験を90分の間にしてもらうことを目標としている.研究の最先端では,それは気の遠くなるような膨大な作業になりがちで,しかも,多くの場合,失敗に終わるのだが.

それでも,理論だろうと実験だろうと,一定の手順に従えば,誰でもできるという感覚を持てることが重要で,この作業の繰り返しが必要なことに,天才と凡人に違いはないと思っている.むしろ,何の苦もなく,何度でも,それを繰り返せるのが天才なのかもしれない.その作業に経済的価値が生じれば,報酬が設定されて,凡人はそれに見合うかどうかを考えてから始めるんだろう.また,研究者としてやっていくには,どのような問題に着目するか,どのような仮説を立てられるか,つまり,センスとアイデアも求められるのだが,それはまた,別の機会に.ここでは,それらをすべて兼ね備えている必要はないことだけに触れておく.

随分と遠回りしたが,結局は,沈黙せず,分からないことは素直に分からないと言えばいいんじゃない?という提案だ.理解していないことを,その場しのぎのいいかげんな内容で繕うこともない.知らないことを恥ずかしいことだと思うのは,自分の場合は何が原因だったのか,今では思い出せないが,何かをわかるということが軽いことになってしまっている世界しか見えていなかったというのが大きな原因のひとつだったのだと思う.

いい歳になって,自分の価値観が崩壊したのは,辛いことではあった.でも,それが良い方向への変化だったと思うし,様々な先生方,同僚,後輩たちとの議論を通じて,到達できた世界は,完成されたものからは程遠いけれども,それまでより,ずっと居心地がよい場所だった.議論で返答に窮することがあれば,沈黙する必要などなく,わからないと開き直ると,それは自分の世界が広がるきっかけになるので,他人からの厳しいお言葉は,むしろ,welcomeになる

これは,闇雲に,先生の言うとおりにするとか,権威に従うとか,周りに同調する,といったやり方とは対極にある.関心のある世界に自分を合わせるのではなく,自分の理想の世界をまず確立して,その世界にあったものだけ取り込んでいけばいいということを,今どきの若者に,主張したい.新しいモノが生まれるのは,異なる価値観が衝突した時だ.各個人は「みんなちがって,みんないい」わけで,議論が衝突して,もがき苦しみ,たどり着いた所に,何らかの普遍性が生まれるんだと思っている.ホント,若者は空気なんて読まない方がいい.この現代日本社会では,若者をひっぱり上げて育ててくれるほどの,余力は今のオトナにはない.

会社の採用基準は,使えるか,使えないか,あるいは,一緒に仕事がしたいか,したくないか,ぐらいの話で終わりだろう.面接で,延々と,自分の過去を語ったり,小学生の作文か,というような,理想というより,建前を平然と述べるような,本音では何を考えているのかが全く見えてこない,そんな学生たちを採用するような企業は,すぐに潰れると思う.使えるスキルが有れば,それを軸に自分の世界を作ったらいいし,特別なことがなければ,まずは,自分の方向性を定め,少なくとも,話につまらない程度に,慣れ親しんだ世界を創りあげて,そんな自分と一緒に仕事がしたいと思ってもらえる,相手を探す努力をしたほうがマシだ.とにかく,本音と建前,という対立軸は,捨て去ったほうが良い.まずは,理想を掲げ,それに近づいていく努力を重ね,遠すぎれば,より近くの理想を設定すればいいだけの話だ.

見方を変えると,頻繁に沈黙せざるを得ない状況に陥っているのだとしたら,立ち止まって,一旦,理想としていたことを捨て去り,現実と向き合え,ということなのかもしれない.そうだったとしても,自分が幸せかどうかは,自分で決めることであり,その価値観を決めるだけの,小さくとも,盤石な世界を,自分の中に構成して,それに合うような生き方を探していったらどうかということだ.自分は,少なくとも,物理に関しては,それが見つけられて,人に何を言われようとも,楽しんで,研究は続けられるのではないかと思っている.

もちろん,仕事が思い通りに進むかどうかは,色々なことに左右されるのも現実だ.実際,この一年,随分昔から想定はしていたものの,実際に起ってみると,まったく思ったようにはならないことが,立て続けに身に降りかかり,あちこち飛び回ることになった.悪いことは重なるもので,あらゆることが綱渡り状態になりつつある.講義準備もその一つで,毎回,学期開始前には,全体構想が出来上がっているのに,今年は,前期の熱力学もそうだったが,後期の統計力学も自転車操業になりそうだ.

北海道と本州との間では,移動時間,待ち時間が多く,昔なら,パソコンを開いて,メールを打ったり,事務的な書類を作成したり,講義ノートや演習問題を作成するのにうってつけの時間だった.気分が乗れば,ノートを開いて,研究に関する計算もできたのだが,今は,気がかりなことが多くて,集中出来ないことが多いので,むしろ,気分転換にと,読書をして,やり過ごすことが増えた.電子書籍を購入するようになり,スマホやタブレット端末等,どこにいても,どの端末でも読むことができて,非常に便利である.この半年で,あっという間に,蔵書が200冊を超えている.半分以上未読なので,期間限定割引などの宣伝文句に踊らされ,無駄遣いしているだけ,とも言えるが.

KindleとKoboの競争もあって,大幅値引きがされていて,ついクリックしてしまう.これまでは手にしなかったような本を読むようにしているが,これが,なかなか,面白い.ネットバブルで活躍した人々のエッセイや,自伝を読むと,一部の若者が感化されて,そのような方向に進もうと思ってしまう気持ちが,理解できた気がする.ネットバブルがはじけたせいか,ああいう,ギラギラした雰囲気に憧れる人は減ったのかもしれないが,しっかり稼ぐには,迅速に判断を下せる頭脳,他人を納得させる技術,長時間労働に耐える体力,の3点が必要ということはわかった.そんなことが俺には出来るという自慢話のようにも取れなくはないが,もっと昔から聞かされた話で,時代に依存しないということだろう.お金を稼ぐという観点を外しても,研究者を含む,多くの職業で成功することにおいても,普遍的に成り立つ事のように感じた.

もちろん,網羅的に読書をしているわけでもなく,自分の思想とマッチする情報のみをピックアップしている可能性もあるが,書店で中身を見ることなく購入することに躊躇しなくなり,よく売れたものから,興味を引いたものを買っているので,思わぬ事実を知ることも少なくない.そのうち,それらの本から若者が何を読み取り,どのような影響を受けたのか,実際に聞いてみたいところだ.

製造業の競争が消耗戦になってきて,日本国内の求人の多くが,賃金の安いサービス業に移行しつつあり,理系の学生には厳しい時代になった.しかし,就職事情に関する本を読むと,文系の学生の方が数は圧倒的に多いので,相対的には,文系のほうが苦しいということらしい.アメリカのように,規制緩和と小さな政府を推し進め,教育・保険・医療・介護などのサービスを商品化して,経済を拡大し,格差社会に向かうしかないのだろうか.理系学生にアドバンテージが有るとすればなんだろう.やはり,科学・技術に立脚した,自分自身の世界観を作りやすいことではないだろうか.

今回は具体的な書名は挙げないが,いくつかの本を読みながら,そんなことを,移動の合間に考えつつ,9月末に徳島であった物理学会から帰ってきて,新学期の準備を始めた.毎年,講義内容や演習問題,過去のテスト問題までを公開し,やる気のある人には,自習可能なように努力しているが,前日の夕方に,新たにページを開設しようとしたら,アクセス出来ない.なんと研究室の外向けのサーバーがダウンしているではないか!

計算機本体を確認しに行くと,どうも,電源がお亡くなりになったように見える.もう,翌日の講義で,御免なさい,して,講義が終わってから,サーバーを再構築しようという衝動に何度も駆られながらも,復旧を試みた.直近に読んだネットバブルの人々の回想における障害復旧に奔走したという話が頭をよぎる.別のサーバーを用意して,そこにファイルを逃がすのは簡単だが,その場しのぎの作業で,毎週更新する際の作業環境と学生にとってのアクセスの容易さを失うことは避けたかった.ネックになったのは,ウェブサーバーで使用しているグローバルIPがネットワークカードにひも付けされていることで,それを利用しない限り,元の状態を回復することはできない.

後で尻拭いするのも自分なので,ここでへこたれてたまるかと,様々な可能性を考えて,試行錯誤を繰り返した.最終的には,HDDとネットワークカードが生きていることが確認できて,代替マシンを選定し,それらを移して,システム再設定.不正終了した形跡があり,HDDの修復に時間がかかって,冷や汗モノだったが,最終的には起動に成功.ネットワーク設定をやり直して,なんとか,再稼働.復旧までに5時間.深夜になったが,それから,講義準備もできた.

どうしてこんなに時間がかかったかといえば,月曜の夜に,自分一人しか対応できる人間がいなかったからだ.しかも,サーバーが離れた二つの部屋に分散していて,一人で何度も,その間を往復する必要が生じて,同時並行で処理出来る作業は限定された.今現在,指導している学生は2人だけ.修士の学生は一緒に学会に参加して,前日の日曜に戻ってきたばかりだ.一年間のアメリカ留学から4月に帰ってきてすぐ始めた研究内容で発表し,よくやったと思う.停電時も含めて,サーバー管理は彼に全て丸投げだし,これ以上の負担をかけるわけにはいかない.もう一人の4年生は,本人の希望で休学,留年した.元気そうではあり,色々とやることもあるようで,大学に来ることを無理強いはしておらず,特別な事情がない限り,呼び出すことはない.中途半端に研究を始めても無意味なので,出来るようになったら出てくれば良いと思う.

その昔,もっと厳しく指導していた時代に,学生達が夜遅くまで居た頃は,サーバーがダウンすれば,すぐに誰かが気がついて,対処も早かった.電源を買いに走ってくれたり,涼しげな顔で,OSのインストールやネットワークの設定を迅速にやってくれたり,頼もしかった.長い時間を共にしたことで,こちらも全幅の信頼を寄せていた.個人個人がどのようなスキルを持っているかが把握できていて,様々な障害を想定して経験を積み準備をしていたし,実際,緊急事態に対処できていた

今現在,学生が少ないのは自業自得だし,いざとなったら,自分がどの業務でも肩代わりできるようにしておくのは,中小零細企業の社長と同様,職場管理の基本だ.今回の危機を乗り越えたことで,まだ人に頼らなくてもサーバーの管理・更新ができるんだと確認できてよかったと思うと反面,本当にこれでいいのか?という疑問が頭をよぎらないでもない.大学の准教授がそんなことに汲々としていてはいかんとも言える.それでも,メンバー全員の自由が保証されていて,各自の意思に基づいた生活ができているはずなので,それはそれで,こんな研究グループがあってもいいのではないかと思っている.

このページ,研究室の様子を伝えるのが第一義的な目的ではあるが,多くの場合,特定の個人に向けてのメッセージでもある.今回は,後期が始まる前に,あるハッピーな人のことを題材にしようと思っていたのだが,近日中に本人に会う予定なので,それは直接伝えることにした.もうひとつ,あまりハッピーでない噂を聞いた人のことが気になっているのだが,しばらく音信不通なんで,状況がわからない.意見のしようがないものの,どうしているか,気になって仕方がない.

極めて優秀だけれども,その男の沈黙も長かった.記憶力をベースにした理解の仕方に自分と似た雰囲気を感じたし,学問的嗜好も似通っていた.成績は,私の学生時代と比較すると,ずっと,優秀で,実際,セミナーをやらせれば,話はクリアだし,理解レベルも十分に高い.気になる点があるとすれば,まさにその,議論における沈黙が象徴的だ.同じ年頃の自分は,そんな時,口からでまかせの説明で乗り切ってきた.彼は,記憶力だけでなく,論理的思考能力も高い男なので,頭のなかでいろいろなことを考えすぎているのではないかと危惧する.あるいは,最適な回答を求めて,記憶のデータベースをひたすら検索し続けているのかもしれない.

私ができるアドバイスは,しつこいようだが,分からないことを素直に認め,相手にそう伝えること.それができるようになったら,本当に楽である.もちろん,そういう態度を取るようになって,なんでそんなことも知らないんだ!と罵倒されたことは一度や二度ではないし,こんな奴と議論しても仕方がないと認定され,相手にされなくなることもしばしばだ.

それでも,一度,自分の安心して議論ができる世界を形成すれば,その世界の言葉で話せばいいし,それ以外のことは,分からないと返答すればいいだけだ.分からないことを知りたいと思えば,素直に,教えてもらえばいい.勉強すれば,自ずと世界は広がっていくし,議論することがその最短の道であることを身をもって知れば,素直に議論ができるようになる.理想と現実のギャップに悩んでいるのかもしれないが,少なくとも,自分が,沈黙することなく,流暢に話が出来る世界を早く構築して,それを地道に広げていけば,彼は一角の人物に成れると,私は,信じている.

これまで積み上げた価値観を崩すことになるとしたら,辛い作業になるだろうけど,新しい世界が物理中心である必要はないかもしれない.何か大事なものを捨て去ることになるかもしれないけれども,そういう過程を経ないと,到達できない世界もある.人知れず苦労を重ね,それを自分の力で乗り切ってきた人間だから,これからも,あえて,そういう厳しい道を選んでいくのかもしれない.しかし,案外近くに,力になってくれる人が居ることに気がついてくれることを切に願う.議論によって道が開ける可能性がある事を思い出してほしい.

長々と語ってきたが,何時でも議論すれば正しい結論にたどり着く,とまでは思っていない.偉そうなことを書き連ねながら,現実には,雑多なことで頭がオーバーフロウすると,些細な不満でも自分の中に閉じ込めておくことは難しい.学生には,努めて,笑顔で接しているつもりだが,言葉の端々に刺があることも無きにしも非ず.自分のirritatedな気分が,相手に対するirritatingな態度を生み,何か気分を害したのか,いったい自分が何をしたというのだ,という思いを相手に抱かせて,沈黙させていることもあるんだろう.

こちらが沈黙すれば,相手も沈黙,心のなかでは,お互いに,こいつ何言ってんだ,何が言いたいんだ,となっているのかも.「こだまでしょうか,いいえ,誰でも」,学生の沈黙に我慢できない自分が,その状況を生んでいるのかもしれないと反省すべきなのだろうか.詩集が電子化されてたら,また,読み返してみよう.


20130624

メンバー更新しようと思いつつも,今年は4年生が配属されず,時間が出来た時にと放置していたらこんな季節になってしまった.ある先生から,どうして4年生を取らないんですか?と尋ねられるも,拒否してるつもりはありませんが,人気がないんでこの状態です,と答えるしか無かった.実験の研究室では,4年生が居ないというのは,深刻な問題らしいが,少なくとも,自分のグループでは困る事はない.もちろん,居た方が,新しい研究にトライ出来るので,研究のアクティビティという意味では低下する.

そうは言っても,やる気も能力も低い学生が来てしまったら,お互いに不幸だと思うので,そういうことが無いように,ウチのグループでの研究の取り組み方や研究室での日常が伝わるようにと,このページを書き始めたのであった.なんか同じことを何度も繰り返し述べるアルツハイマー病のようになってきた気がするが,先日,研究室のOBと東京で飲む機会があって,今年は4年生が誰も来なかったんだよとこの話をすると,このページを見る前に,私の講義を受けた時点で,楽したいというような学生は志望しませんよ,と指摘を受けた.それがどういう意味なのか,よく考えてみるとわからなくなるんだけども,要は,厳しい,と思われているからだと.

卒論では,学生の希望は出来る限り尊重し,実行可能な課題をこちらが与えて,彼らはそれを実行し,まとめてきた.最初に決めたテーマが頓挫することもあったが,卒業研究の具体的計算に着手したものは,全員,きちんとした論文を提出し,卒業していった.これらの卒業論文は,誰に見せても恥ずかしくないと思っているし,彼らはやれるだけの事はやり,それなりの達成感を得て,卒業していったと信じている.

ただ,気になる事はあって,概して,プレゼンテーションは完璧だったとは言い難く,実際,他の教員による評価もそれほど高くない.質疑応答は,そこそこ,こなしていて ,それで,十分だと私は思っているのだが,他の研究室の多くの学生の発表は,確かに,素人にも分かるように,よく作り込まれている印象を受けるので,そのような指導が足りないのかもしれない.というか,そんな指導はしていない.

うちの学生の発表準備の様子は人それぞれだが,こちらの対応は誰に対してもほぼ同じで,まず,計算結果が出ると,それまでに色々なケースを想定して議論を行い,ほぼ,ストーリーは出来上がっているので,学生がそれをスライドにする.それに対して,文字の大きさや,図を効果的に使うなどという,フォーマットの問題は,当然,指摘するとして,積み重ねてきた議論など忘れ去ったかのように,一つひとつの導入や主張に,それどうして?何を根拠に?どんな意味が有るの?と問いただす.

最初は,計算結果を盛り込みすぎて,理解不能なスライドになりがちなのが,研究の意義や有効性を主張するためには,短時間の講演でも,結果を絞り込んで,事前に種をまき,慎重に育て,実をつけ,最後にそれを刈り取り,受け取る側に満足して帰ってもらえるようになっていないといけないことを悟り,それなりに筋の通ったスライドに変わっていく.これを何度か繰り返すことで,収束して行く.

何度もダメ出しされて,修正を繰り返し,ある学生には,発表3時間前にまで練習をして,それにもダメ出しした.当然のことながら,発表はしどろもどろ.こちらも反省して,以後は,前日の時点で出来上がったものが,その学生にとって,到達しうる最高の結果であると解釈すべきだと考えて,あとは,しっかり練習して,出来る限り睡眠を取れと言う事にしている.ちなみに,卒論でしどろもどろとなった学生は,修士論文やその後の学会発表では,準備がギリギリだったのは改善しなかったものの,過ちを繰り返すことなく,すばらしい発表をしたことを彼の名誉のために付け加えておく.

昔は,これまで,ここで何度も書いてきたように.とにかく,学生と長い時間を共に過ごし,議論した.夕食もとらずに,深夜まで議論して,腹が減ったと,午前3時まで営業している居酒屋に移動しても議論していた.1年平均しても週1回以上はそんな感じ.論文を提出した後も,学会に投稿していて,就職直前の3月末までそんな生活が続いたこともある.

もちろん,そんな生活を無理強いすることはない.急に発生する飲み会には全く参加しない学生とも,週に何度か充分に時間をかけて議論を詰めることには変わりがなく,研究について,お互いの頭に有る事は,なるべく,共有するように努めることで成り立ってきた.だが,ある学生を指導した事をきっかけに,学生に対する接し方を見直す事になる.

彼は,学力では学科の底辺に居る学生が,理論に来てしまってすみませんと言っていたが,実際,成績は最低だった.必修単位も許容範囲一杯に残しており,とても卒業研究に入れると思えなかったものの,人間的には出来た男で,周囲に気配りの出来る,しかも,目的達成のために人並み以上に努力が出来るという強みが有った.極めて有能な先輩や同期が居た事もあったり,酔っぱらっての話だが,自分は物理学者に憧れているとまで言っていた.まあ,歌手にもなりたいし,卓球選手にも,という気の多い男なんだが,それならと,レベルは落とさず,課題を設定し,研究テーマを与えた.物理の議論もしたが,酒もよく飲んだし,くだらない話もさんざんした.

ある企業に就職を希望していたが叶わず,大学院入試には合格していたので,進学することになったのだが,研究にはかなり苦しみ,卒業論文を書き始めた頃から,みるみる,体調を崩していった.春休みに少し盛り返したものの,進学後の4月からも復調せず,とうとう,6月には大学に出て来られなくなった.通院,服薬を始め,友人の世話にもなったりして,乗り切ろうとしたが,一度,体の自由がきかなくなると,そんなに簡単には復帰出来ない.むしろ,時間をかけて健康になったとしても,元の自分には戻れないというのが,現実だ.

何が原因かは色々重なって分からないと言うものの,こちらから見れば,私の要求した仕事を忠実にこなした事が一因であった事は明白だ.調子が悪い様子は読み取れたが,優秀な学生でも同じような状況に陥ることはあるので,特別な事ではないだろうと,卒論が完成するまで,騙し騙し,作業を継続したのが,引き金を引いたんだと思っている.その後は,もう,何をやっても,元のようには力が入らず,体が拒否反応を起こしたんだろう.本当に,ここまでよく頑張った,という仕事量で,本人の生真面目さ,几帳面さで乗り切ったかのように見えたのだが,同時に,彼の中で何かが崩壊したのかもしれない.

指導教員としての責任を自覚してというのは初めてだったが,同じような状況に陥った人間と身近に接した事は何度も有り,その経験から,そういう時に本当に頼りになるのは家族だけだと私は思っている.ところが,家族に知らせるのは待ってほしいと懇願された.その真意は,その時の私にはわからなかったが,話を聞いているうちに,家族には心配をかけたくないという気持ちが伝わってきた.

ひとつ幸いだったのは,大学には出て来られなくなったものの,札幌駅やすすきの周辺で,酒を飲みながら話をすることが何度か出来た事だ.こういう話をすると,そんなのは単なる怠けじゃないかと言われたこともあるが,体調には波があるので,調子が良ければ,人と会える時もある.それでも,出かけられるか,それとも,無理か,さんざん逡巡した結果であって,実際には,外出できない事の方が多かった.とにかく,大学にはどうしても出てこられない,というのが,何が辛かったかを物語っている.

その後,夏になっても状況は変化せず,後期からも大学に来る事は難しいと判断し,両親に連絡する事を告げた.なんなら,自分が会いに行って説明してもいいと.それは,その当時,偶然,本州にある彼の実家の近くの街と札幌を頻繁に往復していて,そのついでに行けるだろうと思っていたからであったが,さすがに動揺したらしい.大学の先生に急に実家に来られても困るのは当然だと,当時の自分は気がつかなかったんだけれども,まずは,電話でと,お母さんと話をする事になった.

それまでに,家族について色々な話を聞いていたこともあるが,少し話をするだけで,本当にいい母親である事が伝わってきた.この母に心配をかけたくないという彼の気持ちが理解出来たと同時に,この人に任せておけば安心だと,正直,こちらは助かったと思った.後に,お父さんが,札幌に出てきてくださった際には,3人で食事を共にして,父親もまた,心優しいオヤジである雰囲気を醸し出しており,こういう家庭だからこそ,この男の,生真面目さ,几帳面さ,気配りが,育まれたのだと痛感し,その時,自分の家庭は?子供は?と深く考えさせられたと共に,併せて,許容量を超えた責任を正面から受け止めてしまわないための,いい加減に,生きる知恵も伝えていかなければと強く思った.

結局,お母さんとの電話の後,実情を告白出来た事で安心したのか,程なくして,実家に帰って行った.休学することを決めたあと,貸し出していた備品を返しに大学に来た時の安堵の表情を見て,もっと早く,そうしてやるべきだったと,少し,後悔したけれども,その後,たまに貰うメールから,体調が回復している様子がひしひしと伝わってきて,ホント,こちらも安心した.子供を守るため,何を強制するでもなく,自由にさせることに全く躊躇しない,素晴らしい家族を持った彼は幸せだ.

家のことを手伝いつつ,たまに旅をしながら,元々,希望していた企業への就職活動も始め,4月から復学,トントン拍子で,内定を獲得した.修士取得にこだわらず,中退,10月に入社し,今に至っている.先日,学会に参加した時に,彼の勤務先の近くに行ったので,会う事ができた.研修と称して,一週交代の夜勤を強いられており,丁度夜勤の週に当たってしまい,夜は飲めませんが,朝なら仕事帰りに出られますということで,こちらが札幌に戻る日の朝に,久しぶりの再会.夜勤は辛そうだったが,期間限定であり,本来の所属部署とも関係は良好とのこと.もちろん,楽しい事ばかりではないが,やっていけそうですとの言葉を聞いて,それまでは,無理するなと言い続けてきたけども,ようやく,頑張れよと励ます事ができた.

この件は,私自身にとって,学生との関係を見直す大きなきっかけとなった.人間にとって,何が大切かって,健康で文化的な最低限度の生活,が守られることで,そうでなければ,創造的な活動なんて出来やしないし,何と言っても,人生楽しくない.健康で文化的とは,それがどのような生活かは,人それぞれ違うだろうが,健康を害してまで学校に通う意味はない.そういうこともあって,学生の研究生活において,最低限の結果が確実に出るようにとの思いで,こと細かく指示を出していたのを,強制的な部分はできるだけ排除し,自主性に任せようと,方針を切り替えた.

それまでは,グループの学生には,研究日誌と週報の作成を義務づけていた.研究室のサーバー内に,それぞれの進捗状況を残してもらうのだが,週の始めに作業予定を決め,その終わりに,進捗状況をまとめる.肝要なのは,記録をするのに,結果ではなく,過程を重視する事である.何も結果が無くても,何を考えたかを記録に残すということを求め,そうすれば,何かをしていれば,書ける内容はあるはずであり,研究が進まなくても,何につまづいているかが把握しやすい.会社に入ったら,このような管理は珍しい事ではないので,大学でこのような事を課すのも悪くはないだろうと,思い込もうとしていた.

しかし,それが面倒な事は事実で,告白すると,自分はそれが出来ていない.手帳すら持たないのに,日誌なんて続けられるはずがない.作業の過程を書けと言われても,結果が出ず,何も進まない日が続けば,ストレスになる.また,それがなくても研究が順調に進められる学生には,指導教員に見せるためだけの文章を作るという,無駄に,時間を取られる作業になる事も明らかなので,それ以後は,強制することを止めたら,見事に,誰も書かなくなった.それどころか,週の始めと終わりには私の所に進捗を報告に来るようにという約束すら守られない.指導教員の言葉がこんなに軽い扱いを受けるものかと,ショックを受けたが,縛りが無ければ,そんなもんだろう.もしそういう作業記録を残すという訓練が,大学の役割であると明確化されれば復活することにやぶさかではないが,北大ではそんな必要はないと思いたい.

それでも,全くの放任では,多くの学生の研究が滞るのも事実である.やむなく,週に一度はグループミーティングを行い,各自の進捗を,パワーポイントのスライドを用意して発表するように義務づける事で,落ち着いた.自己管理の出来る学生にとっては,これだけで充分である.必要な時は,コンタクトを取ってくるし,こちらが気になったことを問い合わせれば,すぐに回答が返ってくる.そうすると,必要がなければミーティングにしか大学に来ない学生もいたが,立派な論文を仕上げていったりする.

考えてみれば,これが,自分が受けてきた教育スタイルで,教員は必要な情報を提示し,単位取得に必要最低限の義務を果たしたあとは,学生が求めた時に随時対応すればいい.これがまた,教員としては,元の対応よりずっと簡単だ.結果が出て来なくて,気を揉む事はあるものの,学生を信じて,じっと,待つ.学生は,色々な情報をインプットし,自分でやるべきことを選択,実行する.教員は,その過程を見守り,適宜,力を貸しながら,出てきた結果を正当に評価するというのが理想だ.

もちろん.現実には,そんな対応でうまくいく学生ばかりではない.こちらが連絡しても,ちっとも,大学に出て来ない,特別な事情があることはわかるのだが,代替案も無く,平気で,発表や議論の約束を先延ばしする.とにかく,オトナとの約束の重みの無さに唖然とするのだが,昔なら,何らかのプレッシャーをかけて.大学に来るように促し,なるべく遅れが出ないように努力させるところを,今は,そのようなことはしない.結果が出るまでの最終期限のみを提示し,今のペースで本当に締切までに課題は終わるのか?ぐらいのプレッシャーはかけつつ,結果が出てくれば対応するし,そうでなければ無理に卒業する必要は無いので,先延ばしを続ければいいと.そう伝えるのは,それはそれでプレッシャーを与える事は理解しているけども,自由を与えるというのはそういう事だ.

ただし,こちらのせいで遅れを出すことがないように,出張先だろうと,深夜のメールであろうと,学生からの報告や質問には出来る限り早めに応答する.こちらの生活が夜型なこともあるが,先生,一体,いつ寝てるんですか,と言われるのは,今も昔も変わりがない.学生としては,一仕事終えたという達成感があっという間に失われ,それを嫌がる事は理解出来るが,自主性を尊重しつつ,教員側が出来る努力はそれぐらいだ..

ともかく,そんなこんなで,これまでは,どんな学生でも,1月までもてば,さすがに,その頃には本気モードになっていて,研究が進展し,事なきを得る.ダメな時は,夏前に早々と白旗を揚げて,留年することもあったが,給料をもらってする仕事ではないんだから,それでいいんだろうと思うようにしている.無理出来るならすればいいし,出来なければ,結果が出るまで待つのみ.

大切なのは,それを自分で決断出来る事だろう.持てる時間をどのように分配するか,それは個人の自由であり,それを自ら選択出来るということが,生きて行く上で,重要視すべきことのひとつだと私は考えている.しかし,自分の能力を過大評価していると,スケジュールが破綻し,心身に支障を来すのに時間はかからない.過小評価していれば楽かというとそうでもなくて,何か大きな仕事を成し遂げるには,一定の閾値を越えた仕事率で対処しないと乗り越えられない障害があるものであって,研究でも,それなりに能力を高めなければ,論文など書けない.若いうちはやり直しがきくので,色々な事にチャレンジして,自分を知り,必要なスキルを獲得していくことが求められる.

何にどれだけの時間を使うかの判断は,個人の生活環境と価値観に依存するので,ここで自分が積極的に勧める事はないのだが,気になる事はある.

まず,アルバイトによる労働時間が長過ぎて,勉強・研究が出来ないケース.世の中には,人の倍働いていている人も有れば,働きながら学校に通う人も居る.自分の時間のほとんどを労働と学びにつぎ込む事が出来る人は確かに居て,ここでも,稼ぐ人は,ホント,長時間働いているという話をした事が有る.しかし,それこそ,自分で自分のすべき事をコントロール出来る人々であって,嫌な事を無理矢理にやらされていたら,そんなの長くは続かない.

アルバイト,多くの人は,収入を得るためにやっている訳で,好き好んでの事ではないだろう.それを毎日,多くの時間,たとえ,夕方からだとしても,それが夜遅くまで及ぶんだとしたら,同時並行して,日中に学問に集中出来る人は,余程,強靭な心身を持つ人だろう.アルバイトに気合いが入って,これが天職だと思えるなら,大学は休学,あるいは,退学して,真剣に働いてみた方がいい.それが向いてない,それでは暮らしていけない,とわかってから,復学しても遅くはないだろう.

さらに,近頃,応物所属と思われる学生に,すれ違って素通りされる機会が,格段に増えた.色々な先生と話すのだが,授業で担当した学生の事を覚えている人は少なくない.特に,演習や実験で接した学生の事は忘れないし,講義でも前の方に座って一所懸命に聴いているとか,後ろの方で,落ち着きの無い振る舞いをしているとか,目立つ学生も記憶に残るものだ.

それは自分が近寄り難くなったせいという気もするが,学生の他人との距離感の取り方が変わったのではないかとも思える.はっきり言って,こちらが知っている学生に,目が合ってないつもりでも,挨拶無しに素通りされれば,感じが悪いと思うだけでなく,社会性が無い人間とラベリングされる.

印象として,そのような学生は,就職がなかなか決まらない.目が空ろな様子で歩いているのを見かけて,あの学生は大丈夫かと,所属研究室の先生に知らせると,まだ就職が決まらないんです・・・なんてことは一度や二度の話ではない.それでも大学に来ているだけましと考えるとして,呼び出した時しか出て来ないような学生はどうかというと,やはり,午後からでも大学にきちんと出てきて,教員と一定の時間を共有する学生と比べたら,その差は歴然である.

それなら,コアタイムを設定して大学に来る事を強制するのが効き目が有るかというと,それは疑問だ.想像するに,問題は,そのような学生の多くが,こちらには必要と思える,コミュニケーションを取ろうとしない事にある.企業の求めるコミュニケーション能力とは何を指すのか,正直,理解に苦しむが,面接で落とされてくる学生のコミュニケーションの取り方に問題があることは,教員側の評価もほぼ一致しており,企業の人事担当者をなめてはいかんということだろう.

もう少し,踏み込んで言うと,そもそも,オトナが改まった機会を用意して集まって話をする時には,何らかの準備をしてくることが想定されるのに,それを理解していない学生が少なくない.質問に来る多くの学生が,始めは,言っている事が理解不能である.物理の議論に限らず,どんな話をするにしても,お互いの言葉が,共通の意味を持って使われている事が前提になっていなければ,会話は成立しない.

日常的に対話がなされていてお互いの考え方になんらかの共通認識が出来上がっている学生とは,すんなり,議論に入る事が出来る.例えば,酒を頻繁に飲む仲間なんかだったりしたら,単語をぼそっと,発するだけでも,話は十分繋がる.それに対して,週に一回しか相手にしない学生が,一週間考え続けてきた末に達した結果や疑問を,いきなり,必要最小限の情報だけを矢継ぎ早に,こちらに提示されても,もう一回説明してくれる?と聞き返す他無い.逆に,前夜に慌てて考えた内容をいくら膨らませたって知れているのに,それで乗り切れると高をくくってやってくれば,あっという間に,化けの皮が剥がされるのがオチだ.

情報伝達能力が低いというか,自分が伝えたことを相手がどう受け止めるか,相手が自分にこういうのはどういう理由からか,ということに対する考えが浅すぎる.自分が話す時には,言外に多くの知識を前提とした物言いをするくせに,相手の言う事は文面通りにしか受け取れず,その言葉が出てくる背景を想像しようともしない,と言い換えてもよい.

会社の面接なら,初めて会う人間と対峙しなくてはならないのに,事前に,研究の話を聞かれるとわかっていながら,何の資料も準備せず,本番に臨む学生が居ると,会社の人事担当から報告が有ったりすると,嘆いている先生がいた.資料を持って行くべきかどうかわからなければ尋ねればいいと思うが,「資料を持参してもよろしいでしょうか?」と「資料を持参した方がよろしいでしょうか?」では,与える印象は随分違う.どちらが,良い悪いということでなく,自分が伝えたい内容に対して,より適切な言葉を選べということだ.

研究室で行うセミナーでも同じだ.何人もの多忙な人間を2時間も拘束することになるなら,それに見合った中身を用意することが求められていると理解してもらいたい.最近,何が困るって,質問した時に沈黙する時間が,こちらには堪え難い程,長い.学会発表なら発表者は5秒以上沈黙するなと指導しているし,内輪のセミナーだって,お互いに何かを考えている事が明白でない限りは,10秒が限界だ.

しかし,そんなの御構い無しの学生が増殖している.こちらの方が沈黙に耐えきれず,同じ事を色々な言い方で問い直し,答えを引き出す努力はするが,出来る限りこちらから答えを提示することはしない,というのが最後の砦だ.そんな学生が面接に弱いというのは当然なことにも思えてくるが,それが,物理に関しては非常に頭の回転が早く,よく理解していると思われる学生であっても,という話である.

物事の理解が深まってくると,初心者の頃に気にかかっていたことを忘れてしまって,説明はどうしても,専門用語の羅列となりがちになる.論理性が高い人間なら,質問をすると,きちんと,その間を埋める話をしてくれるからいいものの,記憶というか,信念というか,思い込みがベースにあると,キャッチーな言葉を抜き出しただけの説明になって,それが通じず,言い換えたときに辻褄が合わなくなると,そのような発表は崩壊する.聞いている方からすると,苦痛以外の何物でもない.まあ,そのような事態を避けるための沈黙作戦なのかもしれないが.そういう学生は,議論の場に限らず,宴席においても,30分でも1時間でも,口を開かなくて平気だったりするので,不必要な事は話さない人間だと理解すれば,不思議な事ではないのかもしれない.あるいは,単に,私が避けられているだけなのか?

コミュニケーション以前の問題をここでは議論するつもりはない.能力の低い者がそれなりの評価を受けるのは当然だ.しかし,卒業研究でしっかり結果を出して,きちんとした論文を書くことが,自力で,出来ているならば,一般企業で求められる仕事をこなせる基礎能力はあるはずだ.しつこいようだが,大抵の学生は,週に何回か,セミナーをしてもらったり,議論をしたりというコミュニケーションを取る機会を設け,お互いに議論が成立するよう,歩み寄る努力をすることで,諦めない限り,卒業研究はできるようになる.大学入試というフィルターはそれなりに機能していて,知識を獲得する意味を理解し,それを実行する能力は備えているものなので,その努力ができる北大生なら,何とかなると私は信じている.

企業の新人採用では,そんな長い時間をかけて人選する余裕などないのだろう.コミュニケーション能力が高く,空気の読める人間ばかり採用していたら,同調圧力に弱い人間だけを集めていることになり,はっきり言って,そんな組織は衰退するだけだと私は思うので,そんな会社に落とされても気にしなくてもいいと言いたい.ただ,そんな会社が大勢だとしたら,海外に行った方がいいと言いたい所だが,現実的には,なんらかの方法でコミュニケーション能力を養うしかなかろう.

始めの方で,素人にも分かりやすいプレゼン,という話がでた.多少,事実をねじ曲げてでも,分かりやすいたとえ話に置き換えるのがよい,とか,分からない事だって堂々と主張すればそれらしく見えるとまで,言う人も居るが,少なくとも,自分にはそれはできないし,そもそも,情報伝達能力の低い,自分が講義を受けた先生に廊下で出会って挨拶もせず逃避行動を取るような,余裕の無い学生に,そんな芸当は期待出来ない.

私個人としては,自分の理解していないことを人に教えるなんてあり得ないと思っているし,たとえ誤解であっても.自分で分かっているつもりにならなければ他人を前にして発表する勇気はない.むしろ,分かっている事だけを話せば良い,と決め込むことで,こころの平穏が保てるし,シャイな学生なら,そのような態度で臨む方が良いと思う.教員が,難しい内容を学生に信じ込ませる事は可能かもしれないが,むなしい作業だし,それで,何かがクリア出来ても,実力を越えた評価がなされたなら,後で,痛い目に合うのは学生本人だ.

そうは言いながら,ここ数年,担当を打診されながら,自分は理解できてないんでと断り続けた,熱力学を担当せざるを得なくなった.もちろん,必死に勉強して,疑問を1つずつ解消していき,薄氷を踏むような気分だったけども,一通りの論理構成が出来上がったと思っている.講義では,少なくとも,熱力学はよくわからんと毛嫌いしていた,学生時代の自分でも理解できるような説明を心がけている.スマートでない,まわりくどい説明かもしれないけれども,まずは,それが最低限目指すべき到達レベルだと思う.

学生だって,理解の及ばない事を話さなければならない機会がありうるかもしれないが,研究成果の発表では,その必要は無いと私は思う.自分が1年とか2年の歳月を費やして,到達した結末なんだから,その中から,いくらでも筋書きを作り上げる事が出来る.そして,プレゼンを準備する際は,研究を始める前の自分が聴いても分かるような説明を心がけるようにと指導している.もちろん,それは決して容易なことではなく,膨大な時間が必要だ.

それには研究成果があることが大前提だが,理論研究では,長い準備の末に,デスクから離れて,食事をする時も,歩きながらでも頭から離れず.もう考えすぎて「逢えない時間が,愛育てるのさ」というぐらいに自分が目をつけたモデルについて手を尽くした末に,純粋に自分の頭の中から生み出されたものが,現実世界と繋がって,自分以外の誰でもそれを理解できるようになる.その本質部分を自分の言葉でまとめ,新たなストーリーに結実するのが,一番楽しい部分な訳で,その感動があるからこそ,やり甲斐があり,学生にもそれを体験してもらいたい.

結末に到達するまでに起きた事のすべてを経験している者にとっては,それを10分にまとめろというのは酷な話だ.それでも,全てを理解しているからこそ,嘘やハッタリを入れる必要はなく,その本質を抽出すればよい.そして,少し勇気を持って,話を聴いてもらう先生方に,アピールする事を考える.その時に,普段から挨拶を交わせていれば印象も違うし,コミュニケーションが発展して,個別に相談出来る関係になれば,研究をより前進させるきっかけにまでなる可能性もあると思って,大学で先生とすれ違う時は,挨拶をしてみたらどうか.

ただ,研究の過程で得られる感動が永続する事はまれであることは,否めない事実である.結果の多くは,非常に限られた条件でしか成立しないとか,時間が経つと当たり前のことに思えてきたりと,最初の熱い思いは成就しない事が多く,まさに「よろしく哀愁」の結末である.

そうだと分かっていて,学生にどうやってやる気を出してもらえばいいのだろう,と我々は悩むことになる.それには,理想を語れ,という先生もいる.我々の仕事は,理想と現実のギャップを埋めていくことだと考えることも出来るので,理想を語ることは確かに必要だが,理想に目が向くほど,実現性は低下するのが悩ましい.

自分は,この実現可能性を重視しすぎる傾向にあることが,厳しいという印象を与える原因ではないかと思っている.現実は本当に厳しい.理想を追い求める事で,大きな感動を得るモチベーションとするのは1つのやり方だろう.しかし,理想ばかり追い求めて,結果,何も進歩しないよりは,厳しい現実と向き合って,少しでも確実に前進する選択を自分はしてきたし,そういう学生を求めているということだ.同じ時間をかけるなら,小さなことでも,成果を得て,成長できる可能性にかけたい.

実際,卒業論文を仕上げることによる学生の成長は著しく,まずは,そこを信じてもらいたい.ウチのグループでは,理論物理の高度な計算を実行する以外に結果に到達する方法は無いが,能力に合わせて高度な計算を簡単なものに分解すればよいことで,その計算を地道に実行できる十分な時間が,必要不可欠である.理論研究に限らないが,研究の日常は,膨大な単純作業の積み重ねである.好きであればなお良いが,それを強制されないでも,自ら,実行できる粘り強さが求められ,それを達成するための訓練を厭わず,そして,実際に結果に到達するプロセスを経て,そのような成長が生まれるのだ.

残念ながら,私のグループでの研究は,基本的に個人プレーなので,コミュニケーション能力を育てるには,それを意識的に行う必要がある.それを養うにはどうしたらいいのか,本当に悩むところだ.私自身,若い頃は,はっきり言って,コミュニケーション能力が低かった.必要の無いことを口にするのはバカらしいと本気で思っていたし,話が分かりにくいと言われたことはあっても,発表が上手だと言われた記憶はない.だからこそ,そのような学生を見ると,若い頃の自分を見ているようで,放っておけない..

それを直そうという意識からではなかったが,自分が学生時代に心がけたのは,可能な限り,色々な先生を捕まえて議論することであった.学部・大学院の指導教員は,どちらも,一回りほど年長だった彼らから本当に多くのことを学んだし,話をする際に他人に分かりやすくという配慮が少しは出来るようになったのも,彼らのおかげだと思っている.

その頃,学んだと思っているのだが,会話においては,論理性の高さと適度な冗長性が,大変,重要である.自分は,学部生の頃まで,会話の際には,論理性よりむしろ,記憶を重視して,発言していた.だからこそ,同じ話を2度聞きたくはないと思ったし,講義で教えてもらったことのある先生とどこかで会えば,こちらの事は覚えてないだろうなと思っても,記憶力のいい人なら覚えているかもしれないと,挨拶したり,質問しに行ったものだ.今になってわかるのは,学生に全く関心がないという人でなければ,教員は学生を覚えようと努力するもので,実際,それで,多くの先生に覚えてもらえたんだと思う.

ところが,研究室に配属されて,驚いたのは,大学の先生は,概して,記憶力はいいのだが,他人に何を話したかは全く覚えてないというか,覚える気がないのか,日を置いて訪ねて行くと,何度も同じ話を聞かされることが,珍しくなかった事だ.もちろん,シラフの話で,宴会になったら,もっとも直近の印象に残る事件の話が繰り返される.新たな出来事で,その記憶が更新されない限り続くというのは,記憶力がいいだけに,怖いものがある.

これは,大学の先生が想像していた以上に多忙で,同時にたくさんの人々とやりとりをしていることで,誰に何を話したかを覚えておく事のプライオリティが低下しているのだろうと解釈した.着目すべきなのは,こちらが,一言,二言発すると,ああ,その件はと淀みなく話し始め,何度か,同じ話を聞かされたとしても,出てくる内容が基本的に同じであることは,思考が極めて論理的である事の一端を表していると思う.これは,物理の議論では,決定的に重要で,既に分かっている事を,その度に考え直していたんでは,あっというまに置いて行かれて,最前線には立てない.

また,話し合いで内容を摺り合わせるには,会話に適度な冗長性が無いと,なかなか,合意に達しない.意味記憶のみではなく,エピソード記憶として深化し脳に刻まれているのか,話し始めると,関連する様々なところに話題が及ぶことで,少ない会話で,はじめに期待した以上の知識を吸収する事ができた.今時の言い方をすれば,言い換える力,が備わっているという事か.

もっと言うと,冗長性の重要性とは,これは日本語でも,英語でも,あてはまることだが,同じことを伝えるのに,なるべく長い文章で説明することが,実は,丁寧な印象を与えるということにある.必要最小限の情報で何かを伝えるのは非常に困難だし,実は,必要最小限のつもりが,言葉が足りていないことことが多く,それを自分では気がつきにくい.つまり,無駄なことを足すというか,情報を重複させた方が,安全だということだ.それなら,真実をねじ曲げる必要は全くないし,頭にあることなんだから,時間さえかければ,言葉にできる.ただし,これは「会話」に限定した話で,文章を書く際には,多くの場合,冗長性は避けるべきことであるとされる.

そんな教育を受けて,彼らの能力には全く及ばないけれども,自分にも教えられることはたくさんあると信じたい.学生に難しい内容をなんとか理解してもらおうと,手を替え品を替え,説明を試みる.それでも,上手くいかないことは往々にしてある.まず乗り越えなければいけない壁は,議論が成立するレベルまで,基礎知識を積み上げること.これは,個人個人の能力とそれまでの努力に依存するので,一括りにはできないが,議論するうちに,不足する部分が露呈し,そこを埋め合わせるように,指示を出すので,一定の時間をかければ,乗り越えられる.

議論が出来るようになっても,それだけで,スムーズに行く訳でもない.話し合いでは,こうすればいいんだと頭では理解したつもりのことが,実際にやろうとすると出来なくて悩む.重要な手順が抜け落ちている場合もあれば,自転車はバランスとってペダル漕げばいいんだよ,というような説明だけでは上手くいかないように,やる事が言葉で説明できる範囲でわかっていても,十分な練習が必要な作業もある.いずれにしろ,それは,コミュニケーションを取ることで,どこに問題があるかは把握できる.

昔なら,何度も同じことを言わせるな!と叫んでいたところをぐっとこらえて,何度でも言わせてもらうが,とか,これは前にも言ったけど,ぐらいのイヤミぐらいに止めているので,出来るつもりのことが出来なくて困っているなら,それぐらいは耐える覚悟を持って,聞きにきてもらいたい.何度でも説明してあげますよ.

説明を真に理解できて,作業が実行可能になった後でも苦しむ時があるのは,卒業研究を始める前の学生には想像できないかもしれない.これは私の説明の仕方にも問題があるのだろうが,分からないことを突き詰めていくと,まるで,1+1=2,が理解できなくて悩んでいたような錯覚に陥ることがある.それは,なるべく,ポイントに自分で気がつくことができるようにと,こちらは,最終的な結論を口にしないように努力することで,説明がどんどん核心に迫り,最終的に,非常に単純化された問題になってしまって,それ以上の言い換えが出来ず,こちらが白旗を揚げ,説明してしまうことがある.そうすると,学生が涙を流して,言葉を詰まらせることが,何度もあった..

はじめは,学生を泣かしてしまったと焦った.後で聞けば,自分はどうしてこんなことが理解できなかったのかと悔しくて涙が出るとのことで,実は,その後,何度も同じような経験をした.つまり,何人もの学生を泣かしたという事だ.しかし,この場合は,あまり,心配することはない.向上心があるから,そうなるんで,それをバネに努力したらいい.もちろん,自分が馬鹿に思えてしまうということだから,それが辛いことは間違いなく,そんなことが続けば,落ち込むのは当然で,注意は必要である.

自分には,そんな気持ちは,小学生時代にある大人に将棋でどうしても勝てなくて涙して以来,いつのまにか,失われた気がする.負けず嫌いの部分は残っているが,負けるところでは勝負しないというか,逃げ回っているような向上心のなさだ.人間なんて脆いものなので,辛い事を適当に回避する知恵を持つ必要が有るけれども,その代償として向上心を捨てることにつながるかもしれず,学生へのアドバイスは難しい.

さらに,それを乗り越えても,へこむことがある.計算データが出始めると,それに解釈を付けるために,新たなデータが必要になり,またそれを・・・と研究でやることが尽きることはない.そうすると,やることがよく理解できたことで,その先に控える作業量の膨大さに気がつき,絶望するパターン.この場合は,想定する着地点を,必要以上に,高く設定していたり,その後の作業に,特別なスキルが存在することに気がつかないために,生じることが多い.そういう場合にも,日々の会話があれば,こちらもそれに気がつく事が出来て,そのような悩みのほとんどは解消できるはずである.

とにかく,研究の過程で,気分が落ち込むトラップポイントは無数にある.その回避には,日常的なコミュニケーションが非常に有効であり,それなくして,学生だけで乗り越えるのは容易ではないことを認識してほしい.まずは,これまでどこかで出会っても目を背けてきた,同期の学生や,授業を習っている先生に,挨拶することから始めてみたらいかがだろうか.何らかのつながりのある人と,会話を続けられる技術が,コミュニケーション能力開発の第一歩だと思って.

色々と言い訳じみた話をしてきたけれども,ひとりの学生を引きこもりにさせてしまったことは,無理をさせているという認識が足りなかったと反省している.自分には,本当に貴重な経験となった.あえて,この話をする気になった理由のひとつに,学生が研究室配属されて,どのように過ごして行くのか,興味も不安も有るだろうから,このような例も伝えていかねばという思いがある.

しかし,同時に,教員の側も,どう接したらいいのか,日々,色々と考えて,試行錯誤しながら,過ごしていることも頭の片隅においてほしい.今は,少しより戻しが有って,もう少し,こちらから手を差し伸べる努力をしないと,学生が安易な方向に流れてしまっている気がしている.悩みは尽きない.

ただ,手助けのやり方は変わっても,計算結果を出し,グラフを描き,論文にまとめ,プレゼンテーション資料を作成し,発表する,という一連の作業は,学生自身の仕事であって,こちらが手を貸す事はなく,それは今後もずっと変わる事はないだろう.教員の仕事は,そこまでの道筋を付けることと,出てきたものがより良いものとなるよう手直しすることだが,我々の仕事を減らしてあげようという気遣いは一切不要である.

もうひとつは,前回も書いた,いつのまにか一年が過ぎ去った,悲しい出来事に関して,思う所が有ることによる.いつだったか,その後の経過の説明があったのだが,自分は敢えて出席しなかった.こちらが知りたい情報が表に出てくるはずも無い.どんなことでも,大本営発表が,発表する側の都合のいい解釈でしかないことを,オトナなら知っている.それが現実だ.正直,無用に感情が揺さぶられるのが嫌だった.

最近,とある飲み会で,ひとりの先生が,その公式説明に幻滅したと,憤っていた.その中で,自分が特に気になったのは,どの教員にも起こりうる事なのでどうこう,という説明が有ったという部分で,そんな言い訳をされたら,自分がその場に居たら,黙っていなかたっと思う.誰にでも起こりうる事だからこそ,一体,何が起きたのか,誰の解釈も入り込む余地のない事実だけでも,詳しい説明が有っていいんじゃないかと思う.事実を知って,それをまっすぐ受け止めてこそ,次に似たような事態に陥った時に,より良い方向に導けるよう配慮ができるのではないか.

ここまで情報が無い状態で,自分の中では,これこそコミュニケーションに齟齬があったんではないかとの疑念が晴れない.自分だったら,記憶は都合よく修正される可能性があるので,改竄のないことが,厳密な証明は出来ないとしても,ある程度は納得できるメールのやりとりを全て提出し,自分には知りようが無い形で,関係者にも聞き取り調査をしてもらって,第三者の専門家に分析してもらいたい.それで,これはいい,これはダメ,と評価を受けてこそ,その結果を自らに刻み込んで,ようやく,前向きに生きていける気がする.

その受け止め方は,人それぞれでいいけれども,これを個人的な事情で片付けてほしくないと思っていたのが,自分だけではなかったのがせめてもの救いだ.説明会に出なかった者が後から何を言っても説得力は無く,忙しさにかまけて,どうせ何も変わらず,同じ事が繰り返されるだけだと諦めてしまったことに,激しく後悔している.自分はもう,反骨精神が失われ,牙を抜かれたライオンというか,上に楯突くことのない忠犬に成り下がったということであり,悲しいの一言に尽きる.せめて,この出来事を忘れないようにするためにも,自分の中での苦い記憶と併せて,記録しておく事にした.

オトナの事情を顧みず思った事を主張できる青臭さが自分の長所だと思ってきたのに,その若さを失ったのなら,世間に抗う事無く,来る者は拒まず,去る者は追わず,何かを求めてやってくる学生とは,まっすぐ向き合って,真摯に対応していければと思うが,そんな好々爺になれるのはいつの日か.

熱力学の講義の相手は,久しぶりの2年生.彼らとは二回りの年齢差がある思うと愕然とするが,そんなことにめげてはいられない.午前中の講義で,必ず,おはようございます,と挨拶して始める事にしていて,今の所,きちんと挨拶が返ってくる.学内で目が合えば,きちんと会釈できる学生が居る.中間試験の成績は,いたって普通だったが,出席を取っていないにもかかわらず,出席率は高い.こちらの話を真剣に聴いてくれている学生も多くて,2年の前期には,こんなにやる気に満ちてるんだと感心している.彼らが,進級するうちに,挨拶の出来ない学生に変貌してしまわぬよう,何かできることがあればいいのだが.


20130312

年度末となり,ようやく,落ち着いて研究の出来る時間が出来たはずなのだが,先月末締切の仕事がいまだ終わらず,しかし,そう簡単に片付く類いのものでもなく,苦しんでいる.そんな中,condmatのプレプリントをチェックしていると,数独の超難問を作成したという話があった.それが物理なのかと言われそうだが,私の知り合いの,統計力学を専門としている先生の研究室でも関連した研究をしていたし,この著者は,面識はないが,名前は存じ上げている,

現実逃避して,トライすると,あっさり,解けるではないか.パズルを解くのはその達成感が味わいたいからで,すぐ解けてしまえば,満足である.それで何かおかしいと気がつくこともなく,その後,論文の中身を読まずに忘れていたら,ある先生のtwitterを見ていると,その問題が取り上げられており,やはり,誰でもすぐ解けるらしいことを知った.ふと,論文に戻って,過去の難しいという問題例を見ると,どこかで解いた事が有ると思って,敢えてトライしなかったんだが,違いは歴然.こちらの方が難しい.

話は簡単で,難しさの定義に問題が有った.おそらく,この人は自分で数独を好んで解く事が無かったんだろう.解法をpencil marksとrecursive backtrackingという方法に限定しているのだが,数独を自分で解いた事が有る人なら,これらに頼る前に,cross hatching という作業を全ての数字に対して行い,この作業を繰り返して,決められる数字をまず探す,というのが常套手段であることを,その手法の名前は知らなくても,体で分かっているはず.実際,過去の一番難しいとされている問題では,この作業では数字が1つも決まらないように作られている.その原論文を読んでいないのだが,それには触れられていなかったのだろうか.暗黙知という程でもないと思うのだが.

誰かを貶めたということではなく,自分の不注意さを世界に公言しただけなので,害はないが,独断に陥るとこのようなことになるという典型例として,研究を志す学生の皆さんには知っておいてもらいたい.実は,結果を公表した後に,他人から間違いを指摘されるという経験は,自分も何度かあるので,身に染みている.一度,公にした話を,なかったことに出来ないのは,研究者に限らず,ネットの世界では当たり前になっている.twitter などでつぶやく場合は要注意だ.身分を明らかにしていないつもりでも,交友関係をたどれば個人の特定は難しくなく,あとで,誰に見られても問題がない表現を心がけたい.

若い人程,参入に抵抗がないようで,大学でも多くの人が利用しているが,学生の場合,最初は,大学名や所属学科などをプロフィールに載せていたのが,だんだん,情報を隠していく傾向にあるのは,興味深い.北大+応用物理+twitter で検索すると,学生のアカウントが見つかる.学生の日常生活が垣間見えて面白い.世の経済状況を反映して,食費を削って苦学生しているものも居れば,ポケモンにはまるもの,2次元好き,スキー三昧,ひたすらアルバイト,研究に励むもの,就職活動でへこむもの,色々だ.平均像は掴めない.

気になるのは学業に関することだが,研究室に入る前は,実験レポートや試験に追われる様子がわかるものの,どれだけ真剣にやっているかは計りかねる.概して,準備が間に合わない雰囲気を醸し出している.昔から,試験になると,当日,全然勉強してない,などという人間はいたので,それで受かればラッキーというギャンブル好きなのか,努力する姿はみせたくない格好付けなのか,いずれにしろ,自己責任でいいだろう.

不思議なことに,研究室に入った途端,状況は逆転する.徹夜したとか,何日も大学に泊まり込んだとか,自虐的な,苦労自慢が増える.自分も学生時代は大学に泊まり込む生活をしていたから,そういう状況が生じうることは理解できる.それで,身近な友人に,辛くて愚痴る話なら,わかるんだが,それを,相手構わず口にしたり,twitterでつぶやくというのは,なんなのだろうか.

ブラックな研究室であることを知らせたいというなら,それは有効かもしれない.でも,それなら,研究室名が明らかでないと意味がない.自分が頑張っていることをアピールしているのか,あるいは,ひどい目に遭っていることを訴えたいのか.いずれにしても,教員とのパワーバランスに偏りがあることは考慮すべきとしても,今はなんらかの相談窓口があるものなので,問題解決能力の低さを露呈しているだけのようにも感じる.結局,自分の言動で,他人からどういう評価を受けるのか,ということをあまり考えていないということか.

学生のネットでの発言を見てはいけない,という話を,学生と教員の両方から言われたことがある.学生は,大人の居ないところで本音で語りたいんだから,そんなやりとりを見ないでくださいということで,それはわかるが,それなら見えないところでやってほしい.ある先生は,それを見ても得することは何もない,と断言されていた.

頻繁に出張する身としては,移動時間はネットサーフィンで時間を潰すのが一番だったのが,ワイヤレスネットワークの高速化とあらゆる文書の電子化によって,どこでも仕事が出来る状態となったことで,目的もなくネットサーフィンすることは自然と減った.さらに,そういうことは暇な人間のやることだとだと自覚してきて,自制もしているが,ある人が自分もやってますというから,見てみたら,ちょっと,気になるところがあり,黙っても居られず,本人に苦言を呈した.それを見て何か得るところがあるか,と言った先生の言葉の意味を,思い知らされた.

話を戻すが,全然勉強してない,昨日も徹夜だった,などと言うのは,私が思うに,子供の頃から,何かに時間をかけて取り組むことで評価されてきたことにより,獲得した物言いなのではないかと,感じている.前者は,時間をかけていないのだから,出来なくても仕方がないという,自分への言い訳,後者は,時間をかけたんだから,なんとか,それを認めてほしいという願望,なのだろうか.1つぐらいだめでもいい,という単位と,これが終わらなければ,卒業できないという,卒論や修論で,そういう違いが現れるのだろうか.どちらも,自分にとっては,隠したいことであって,それが出来ない場合は同情に値する,という認識なのは,自分に常識の欠落があるせいなのだろう.

では,実際の評価に,どれだけの時間をかけて取り組んだか,はどれほどの意味を持つだろう.評価する方も人間なので,日常の頑張りが見えたかどうかは,影響するだろう.一方,いつか,書いた気もするが,自分が大学院に入ったとき,歓迎会で教授が口にした言葉で「理論は,All or nothing. 結果が全てです.人間性は問われません.」というものがある.今の場合に即して言えば,発表と論文の内容だけで,審査されるということか.こう言い換えてしまうと,当然の内容だ.

とすると,問題の本質は,執筆と発表準備に入れるかどうか,なのかもしれない.それを決めるのは,多くの場合,指導教員と学生の一対一のやりとりになる.何らかの結果があれば,問題はない.我々の時代は,こういう内容で書きますと,指導教員に一言伝えるだけで良かった気がする.新しい結果が出なかったときは,それなりに工夫が必要だが,それでも,大抵の場合は,やったことから得た教訓を適当にまとめればそれらしくなるし,最悪,作業報告のようなものでも,なんとかなるものだ.

しかし,意思疎通に齟齬が生じて,先に進めないと思い詰め,行く末に絶望したとき,悲劇が起こり得る.自分が大学院に入ってから,早,20年以上が経過した.その間,身近なところで,自ら命を絶った大学院生が3人いた.M2が2人,D3が1人で,審査の学年になっていたことが,プレッシャーになったのは確かだろう.学生の時に,先輩が,助手の時に,同じ研究所に所属する学生が,北大に来てからも,近いところで.それぞれ,面識があり,話したことがある人に限定しているので,実際には,もっと数は多いと思われるが,箝口令が敷かれるのか,真実は闇の中だ.

この程度の少人数で平均化してはいけないが,皆,成績優秀で,勤勉そうに,自分の目には見えた.何をやっていたか,おおよその話は聞いたことがあっても,新しい結果が出ていたかどうかまで判断できるほどの関係ではない.しかし,訃報を聞いた時は,どうして,と愕然とした.それぞれの研究室で,どういう対応だったかは,これも,まちまちだが,いずれも,どちらかと言えば,指導熱心な教員が近くに居たと記憶している.それがどう影響を及ぼしたかは,今となっては知る由もない.しかし,全く他人事ではなく,いったいなぜ,という疑問が消えることは今後もないだろう.

グループのウェブサイトでは強調しているのだが,まず,指導教員を変えることが出来る,というのは,忘れないでいてもらいたい.学部から大学院は,何も手続きは不要で,希望を取って,試験の成績で割り振るのみだ.学年の途中だって,事情が認められれば,可能だ.特定の教員がひどい時は告発するしかない,などという正義感は必要ないし,相性が合わないという理由だって認められる.どちらかの問題がはっきりしていればなおさらだし,そういう場合ばかりでもないだろう.相性なんて,理屈で説明出来るものではない.ただし,引受先がなければ研究室の移動は叶わないので,必ず,事前に策を講じること.

それから,卒業論文や修士論文が認められる要件を,もう一度,よく考えてほしい,指導教員が満足する結果を出すことは,合格が認められる必要条件ではないし,十分条件でもない.ギリギリのところで,問題になるのは,なにか新たな知見を得たかということで,それは,過去の結果の確認でも構わない.

科学・技術と認められる為に絶対必要な要件は,再現性である.同じ条件で,同じ技能を持つ他の誰がやっても,同じ結果が出るということだ.それを確立するのも重要な仕事だというのは,学生にあまり認識されていないように感じる.もっと言うと,こうやっても結果は出ませんでした,というのも貴重な知見で,後続の人が,自分と同じ轍を踏まないように,情報を記録として残しておくのは意味がある.

お気楽な学生の発表で,計算しなくても結果が分かる事を一生懸命計算して,定性的な説明をしたり,対称性からゼロである事が示せるのに,頑張って計算したらゼロで何も起きませんという話で終わったり,最悪は,計算を部分的に行って相殺項を無視したために,「非物理的な」効果が存在すると主張してしまうこともある.

ちょっと頭が足らないと言われたら,その通りかもしれない.しかし,自分では気がつかない対称性が存在したり,気がついても,それを明確に示す事が出来ないことも少なくない.むしろ,対称性が有ると気がついても,実際に計算して,それを満たしていることを確認しないと安心出来ないものだ.

だから,たとえ審査会の場でそのような指摘を受けて気がついたことでも,指摘にあわせて,適切に内容を書き換えればそれで十分である.必要なのは,それそのものは新しくなくても,作業して結果に到達することと,その過程で得た新たな知見,であって,目新しい結果ではない.

求められた結果が出ないなら,それには,何か原因がある.マッチポンプ的に,出来もしないことを狙って,出来ないというのはどうかとも思うが,出来ないことが厳密に証明されることは,なかなか,あり得ないことなので,その条件では出来ないという情報は,新たな知見となり得る.これまでとは違うものを作ろうとしたとき,同じものしか出来なかったとしても,それは.トライした方法ではダメだったということでいいはずだ.

何事でも,ネバナラヌ,という類いの思考からは抜け出そう.まずは,自分で実行可能な作業を一通り行って,そこから得られる知見を考える.そして,周りの人に相談しよう.独断に陥ってはいけない.理想的なのは,自分とは違う思考パターンを持つ,相談相手を持つ事である.人に話を聞いてもらうだけで,単純ミスは大きく減らせる.というより,聞いてもらわないと,そのようなミスは,なかなか,無くせない.指導教員の言いなりにならず,必ず,自分で考え,他の人に相談しよう.今話題の体罰問題のように,何らかのハラスメントがあるなら,問題外だ.もしそんなことがあるなら,即座に,逃げ出せばよい.

大学教員だって,独断に陥り,いい加減な仕事をすることもある,というのが,今回の話の始まりだった.自分も,いくつも,そんな失敗をしている,あるいは,「非物理的な」結果を学生に主張させて審査会まで気がつかなかったような教員だって,きちんとした職を得て出世していたりするのだ.

いい加減で良い,ということではない.最初にも述べたが,公表したことをなかったことには出来ないので,それは将来にわたって,自分で背負っていく他ない.言いたいのは,むしろ,それでも生きていけるということだ.失敗を恐れる必要はない.それが新しい知見に繋がるし,その失敗が次の成長へと繋がるものだ.

独断に陥って,悲劇的結末を迎えるよりは,あらぬ方向へでも踏み出した方がまし.それでいて,けっこう,幸せだったりすることもある.しかし,一番に心掛けるべきは,相談できる部外者を持つこと.色々なチャネルを確保することだ.まずは,同期でいい.先輩でもいい.大学の先生には,変な人も居るけれども,いい人も少なくない.そのようなつながりが持てるかどうか,色々な研究室をまわってみることだ.

最後に,数独で思い出すことを徒然に.この冬,とある大学入試問題の数学で数独が出題されたことを,友人のつぶやきから知った.あるネット上の記事では,批判的に取り上げられている.その友人も,自分も,単純な規則を複数組み合わせて,適用できるかという,論理的思考能力を問うには良い問題だと感じたのだが,今回の騒ぎから,もし,cross hatching という手順を思いつくのが難しいことなのだとしたら,慣れが解答に必要な時間を大きく左右するので,入試問題としては適当でないという指摘も,もっともなのかもしれないと思った.

しかし,数独に慣れ親しんだ受験生と,そうでない受験生とで,何か違いがあるのか,興味はある.その昔,ある人が苦境に立たされ,しかし,それを自分ではどうしようもなく,ひたすら時間を持て余している時に,100円ショップで買った数独パズル本に助けられた,という告白を受けたことがある.およそ,パズルとは縁のない人だと思っていたから,返す言葉が見つからなかった.何もしてないと不安に陥るから,雑念が入らず,かつ,さほど苦しむこと無く作業を続けられて,辛いことを考えずに済むというのが良いらしい.そんなことに役立つのなら,難易度を調整出来る,自動生成プログラムがあったらヒットするのかもしれないと,一瞬,思ったが,すでにそんなプログラムは存在していることを思い出した.

そういう自分も,辛いことがあったせいではないが,数独にはまった時期があった.Gnomeのデスクトップ環境に数独の自動生成アプリがインストールされているのをみつけ,現実逃避に一役買った.よく考えてみれば,今だって,数独に現実逃避したことをきっかけに,こんな文章をタイプしている訳で,公表された問題が,真の難問でなかったのは,自分だけでなく,世の中の多くの人に取ってよかったのかもしれない.それでも,きっと,著者は,早々と問題をクリアして,新たな問題を作成するに違いない.それが研究者というものだ.その時は,手を出さない方がいいだろう.少なくとも,締め切りを過ぎた仕事を片付けるまでは.


20130308

先週末の大雪で,この冬2回目のフライトキャンセルに遭遇.前回は条件付き運行で覚悟して出発したものの,羽田に引き返し,その後,全便欠航で羽田周辺のホテルも満室という憂き目にあった.今回は変更可能なチケットを予約していたんで,欠航の案内メールが有ってから,ネットで後の便に変更し,念のため,空港の状況を電話で確認しようとするも全く繋がらず.

家を出る直前になって,予約センターにようやく繋がって,便名を告げるなり,欠航と即答.翌日の便に振り替えた.ちなみに,JALのWebサイトを見ていると,欠航の決定が離陸予定15分前ぐらいにならないとなされないのか,情報の更新が遅いだけなのかわからないが,イライラさせられた.ANAは夕刻には,全便欠航を決めていたので,それに従って早い段階で日程変更を決断すべきであった.

仕事の打ち合わせを,翌日午前開始だったのを午後からに変更してもらい,一夜明けて,飛行機は遅れなく飛んでいる事を確認して家を出る.札幌駅に着くと,電光掲示板はブラックアウト.鉄道は麻痺していた.全く,浅薄である.つい先日の出張の帰りに,やはり,大雪でほとんどの路線が運休する中,空港と札幌駅を結ぶ快速だけは,間引きながら,1時間に2本運行されていて,戻って来られた記憶が,飛行機が飛べば電車は動いているだろうという油断を招いた.

乗車するつもりだった電車の後も2本が運休し,1時間後に来る予定という電車をホームで待つのだが,春一番の後の東京は暖かいという認識で薄着だったから,辛かった.離陸20分前には空港に到着するという駅員の言葉を信じて,どうしてもその電車に乗ろうと我慢して並んだのもむなしく,電車到着が10分遅れるとのアナウンス.スマホを取り出し,もう何度目か分からくなったが,フライト変更を試みる.ところが,寒さで指先が乾燥しているせいか,タッチパネルが思うように反応しない.やむなく,ノートパソコンを鞄から引っ張り出し,事なきを得た.このときのネット接続はWiMAX.便利な世の中になったと思いながら,それで忙しくなっているのもまた真実である.

並んだ甲斐あって座れたのはいいが,札幌ではあり得ない混み具合.途中駅での乗降にも時間がかかって,さらに遅れた.しかし,車窓から見える道路や駐車場の積雪の多さは尋常でなく,その辺を歩いているだけで遭難する可能性を受け入れざるを得ない.走っている途中で,氷を削るような音がして,秋田新幹線脱線のニュースを思い出し,少々,怖かった.フライトにも遅れが出ていたが,東京に着くと春の陽気.これが同じ国なのかと本気で思った.

わざわざ,休日に出張したのは,修士課程を修了して企業に就職した学生のやり残した研究を完成させるためだ.年に数回,何かの用件にくっつけて,彼の仕事が休みの日に東京都心に呼びつけ,細々と議論を重ね,3年かかって,ようやく,彼の手を借りず,結果を出せるような態勢が整った.これで,カーボンナノチューブの光学応答に関する,1電子ボルト程度の遷移エネルギーを持つ複数の状態間の,数ミリ電子ボルトという,小さなエネルギー分裂がチューブ構造にどう依存するか,という問題に対する解答が得られるはずだ.その値を調べる事により,発光の量子効率が大きく改善される構造を見つけられると期待している.

結局,研究開始から5年もかかってしまい,旬を過ぎてしまったのは残念だが,決定的なことは,いまだ,明らかになっていない.大筋は国内会議や国際会議でも発表して会議録として出版し,本論文も問題なく出版出来ると安易に考えていたが,頼りにしていた実験結果の追試で,符号が反転した結果が得られ,再検討を余儀なくされた.多くの研究で考慮されているが,結果に影響しないと予想して,簡略化した模型を使っていた部分をやりなおし,精密化しようとして,かなりのリソースを投入したが,それによる補正は結果に影響しなかった.正直に言うと,元のプログラムに潜んでいた1つのバグが,補正項を入れると少なからず不正な振る舞いを生じさせ,それに気がつくのに時間がかかった.

一通りのチェックをやり直して,これで結果は正しいと確信したけども,実験結果と一致しない理論を論文として発表するのには,大きなパワーが必要で,なかなか先に進めない.ある意味,研究者としての重要な資質を欠いている,と言われても反論の余地はない.やっていることは,大きな値を最初から引き去って,考えうる補正項を丹念に計算して行くというやりかたなので,作業内容が正しければ,実験結果に効いている重要な項を取りこぼしているということになる.それはそれで,意味の有る情報だから,論文として出版しておくのが研究者としての義務とすれば,それを放棄したら,仕事をしていないのと同じ,ということだ.

そうこうしているうちに,実験グループから最新のデータが送られてきて,このデータは間違いない自信がある,という報告だった.それはありがたかったが,符号が反転している事には変わりがなく,また,ただ1つの構造に対するデータであって,それに対して,どのように対処すべきか悩んでいるうちに,ふと,理論に含まれる,プラスとして扱っていたパラメータの符号を反転してみると,実験結果と整合するように符号が反転する事に気がついた.それだけでは何も確定的な事は言えないんだけども,実験と整合性が取れる可能性がある事はわかったので,何とかやる気を維持し,ここまで来られた.

その男は,卒論の時は,全く別の研究をしていた.ある実験家の先生から,その先生の目指す究極の結果を得るために,理論的な予測が不可欠だということで,共同研究を持ちかけられた.そのとき,研究テーマを探していた院生に提案してみたら,それにトライしてみると言うので,始めたのはいいのだが,はっきり言って,無理な要求が多かった.原子気体に高強度の光を照射し,発生する非線形信号を,上手く整形して,時間軸上で,できるだけ,短いパルスを発生させたい,というテーマだった.理論で出来る事ははっきりしていて,非線形信号発生に対するある近似理論を許容すれば,最初から最後まで,比較的簡単な計算手法を使って,我々自身で実行可能であったので,誘いに乗ったものの,苦労する事になった.

手法はシンプルだが,計算量は膨大.入射信号に強い制限が有り,それを適当に変調させられる範囲で,最小の時間幅を持つ光パルスを生成させるという,拘束条件付きの極値問題を解くのは,なかなか,骨の折れる作業で,1人でカバー出来るパラメータ領域には限界がある.そんなとき,4年生で配属されてきたその男は,最初に与えたテーマが,少々,難しすぎたということで,11月の終わりになって,テーマを変更し,M2の先輩と同じテーマで,相補的となるような,研究を行う事になった.強制したつもりは無かったけれども,その段階で指導教員に別テーマを提示されたら,変更した方がいいと考えるのも無理は無い.

ところが,その後の彼の働きには目を見張るものがあった.プログラムを先輩から譲り受け自分のテーマ用に改変した後,驚異的なスピードで結果を出し続け,短パルスを得るための,比較的,わかりやすい条件を見出すことに成功し,それで卒論を書き上げた.ただし,それを実現するための実験操作の困難さの割に,その最適化により得られる効果が数割程度の圧縮で,近似の精度を考慮すると,そこに特別の意義を見出すことは,私には出来なかった.

それで,彼は板挟みにあった.こちらは理論をおおよそ把握したつもりだったので,その先生からのその後の提案がことごとく無意味である事が予想出来た.最初のうちは,話に付きあっていたのだが,私の否定的な態度に嫌気がさしたのか,そのうち,学生の彼を直接呼び出して,私抜きで議論するようになった.彼は私と違って人間が出来ているので,言われた事を実際に計算してみて,その結果を見せにいき,ダメな事を丁寧に説明していた.しかし,その裏側で,大きな近似を使わないようにしてより厳密な理論で計算をやり直そうとしつつ,彼はとあるサークルで重要な役割を担っていたことと,大学院に入ってたくさんの講義を受ける必要が有った事,M1に課されている輪講などに加えて,その先生の言う事を,いちいち,丁寧に聞いて作業していたんでは,生活が破綻するのは目に見えていた.

明らかにオーバーワークで体調を崩しているのを見かねて,夏前に,私はその研究から手を引くことを提言し,彼は相当悩んでいたが,結局,同意した.9月にサークル関係で大きなイベントがあり,それはそれで,重責を担っていて,心配したんだけども,そこでは満足のいく結果が得られたらしい.そんなこんなで睡眠時間を削る日々が続く中も,その先生に義理を立てて,これまで作成したプログラムを誰でも使えるようにきちんと整理し,引き渡すまでの作業を自ら完了させた.

それから,数年後,その先生から,その研究室の学生の学位審査を頼まれて,一通りの事は覚えているつもりだったので同意すると,結局,その部分に関して,我々が得た結論から,何も変わっていない.もちろん,実験結果が主体の博士論文だから,それで中身を問題視することは無いんだけれども,その理論的考察の結論に変わりがないのなら,彼にクレジットを与えるとまで言わないまでも,謝辞ぐらいに名前があってもよかったのではないかと思う.

ただ,それも,私の判断が招いた帰結なので,反省すべきなのは自分なのだろう.小さければ小さい程いいとされる量が,ある方法で何割か小さくなるという理論予測を得た時に,正当化出来る近似の適用範囲を越えた部分が有る上に,現状で(そして近い将来も)制御が困難と思われる量を細かく調整する必要が有るような結果は公表するに値しないと判断するか,原理的に不可能でない方法で,最も小さな値を取れる方法が見つかったのならば公表すべきと判断するか,は研究者の価値観に依存する.

価値を見出すには,それ相応の理解が必要であって,ひとつの事を掘り下げている人ほど,多くの新たな価値を見出せると言える.しかし,研究の過程で,完璧に理解出来ている事などあり得ないので,何かに価値を見出すより,ダメな理由を見つける方が簡単だ.そういう観点からすると,自分は学生のやったことに価値を見出す事より,ダメ出しする事の方が多いので,学生のやる気を引き出すという観点からは,理想的な教員からはほど遠い.そう分かっていながら,思いつく限りのダメな部分をクリアにして,残った部分から価値を見出すという研究スタイルは,なかなか,変えられない.

それは厳しいように感じるかもしれないが,思いつく限り,というのがポイントで,まずは,自分の能力の範囲で一通り考えるだけだ.何かを計算して,それが正しいと証明するのは,案外難しい.試験のように1,2時間考えたことを検証するのとは,質的に,異なる作業が必要となる.それでも,本質を突いた結果は,どうアプローチしても正しい結果を出すものなので,想定される事をひとつずつ考えれば,自ずと真偽が見えてくる.

ただ,それを実行出来るのには,学部で習得すべき理論物理の基本的手法が自在に使えるようになっていることが前提で,多くの学生にとって,それを求められるのは酷かもしれない,最近は,少なくとも卒論は,簡単には予言出来ない現象に取り組み,結果を幅広く検証しながら価値を探索するというより,ある程度,結果を予想できるテーマを与えるようになった.単に,学生に丸投げして,こちらが手を出さなくなっただけのような気もしないでもない.

しかし,彼の時は違った.セミナー発表では思いつくに任せて突っ込まれて,相当へこんだに違いない.最初の研究テーマは,色々な予備的計算を試みるも,なかなか,本題に入れず,先に述べたような展開になったのだが,今振り返れば,彼の理解が充分に深まるまで,もう少し,辛抱して待ってあげられれば,違った展開になったのかもしれない.やるべきことを自分の言葉で理解してからの彼の仕事への集中力は相当なものだった.自分の指導教員でもない,クセのある,偉い教授とやりあって,要求された結果をきちんとまとめあげたのは,努力の賜物でもあるが,彼の能力によるところが大きい.その結果を借りて,学位を取った人が居るんだから,それ相応の評価をしてよいだろう.

つい先日まで作業が続いた修士論文のテーマは,実は,卒論として考えていたテーマの延長線上にあったもので,修士修了の時には,そんなことまで出来るようになるとは想定していなかったというレベルまで到達した.その道の大家である先生がそれを認めてくれたのか,就職する直前の学会で,別の先生に厳しく質問された時に,私は反論したいところを我慢していたんだけども,何を思ったのか彼の結果で正しいとフォローしてくれたのは,彼にとってももちろん想定外だったけれども,嬉しかったと言っていたので,そこで,終われば,区切りが良かったのだが・・・.

研究以外にも彼には色々と世話になった.建物の改修で研究室の引越を余儀なくされ,しかも,同等な広さの部屋が用意されず,違う建物に部屋が分散した.プライベートネットワークを2つ設定・管理する必要が生じ,新たな計算機の導入時期が重なり,OSのインストールから,必要なアプリケーションの設定までを,全ての機種で行わなければならない.サーバーを立てる必要が生じれば,セキュリティについて勉強して,その設定を行う.それらに,大きく貢献してくれた.

自分はこれまで職を変えるたびに,どういう訳か,研究室の引越を経験し,学生に引越作業を任せる事の難しさが身に染みている.学生の立場になれば,そんなことをするために研究室に入ったのではないと言いたい気持ちはよくわかる.しかし,そういう気持ちの問題がクリア出来ても,研究室の引越というのは,細々とした作業がたくさんあって,それなりの緻密さが要求され,部分的にでもそれを任せられるような人材は,そんなに居る訳ではない.彼は,部屋のサイズ計測や,見取り図の作成,研究室の物品の把握などの泥臭い部分から,現場での作業指揮や,ネットワークの移行まで,あらゆる事に協力してくれて,完璧にこなしてくれた.

このように,研究以外でも,実行力のある,きちんとした人間なんだが,端から見る限り,就職活動が順調だったとは思えないのは,人生いろいろ,ということなのか.彼は,趣味を越えたサークル活動と関わりの深い,会社を第一志望としていたはずだが,それは叶わなかった.傍観者としての発言にすぎないけれども,そのサークル活動はその企業の活動と密接に関係するもので,そこでリーダー的役割を果たし,公的なイベントでそれなりの結果を残している人間を採用しない理由が,私には全く理解出来なかった.

彼自身は,私よりずっと,世の中のオトナの事情を見聞きしていたようで,ある程度,覚悟していたのかもしれない.淡々とした語り口だったのが印象に残っているが,悔しかったに違いない.会社が何を求めているかが分からないという話を,その後も,学生からよく聞くが,本当にそう思う.彼自身も,会社の事をよく話してくれて,企業で求められる人材とは何かということを議論するが,その話題はまたの機会にしよう.

それ以外にも色々な会社にエントリーして,何度も東京を往復していたが,最終的に,通信最大手企業の研究所から内定が出て,そこに就職した.結局,内定が出たのはそこだけで,選ぶ余地はなかった.と言うよりは,それで満足して,その後の活動を続けるモチベーションが無くなったのかもしれない.それまでの研究とは全く無関係の職務内容で,これといったアドバンテージもなく決まったのがなぜか,理由が分からないと話していたが,選考の過程で,誰かが,彼の実力を予見してくれたに違いない.

評価に影響があったとは思わないが,内定が決まる前にその企業から,我々の研究グループのウェブサイトに何度か不審なアクセスが有り,もしやと想像していた.関係者からのアクセスだったのだろうと思っている.それ以前にも,そういうことはあったので,研究室のウェブサイトには,きちんと研究活動をしている事が分かるような情報を載せておけと助言するのだが,それを実行した学生はまだいない.

それはともかく,会社に入っても,彼の生活は学生時代とあまり変わっていないように見える.他の部署の同期より明らかに多くの仕事を請け負い,他の部署の人に,なんでお前がその仕事をしてるんだと言われながらも,奔走しているらしい.私が思うに,彼の強みは,充分に時間をかけて仕事を大量にこなし,その分ミスもあるが真摯に対応し,期日内にきちんと結果をまとめられることにある.何処へ行っても貴重な人材として重宝されるだろう.

そんなこと当然だと言うなかれ.関係ないことに時間をかけて結果が出ず,ミスがあっても素直に認めず,締め切りが守れない,というような人間は少なくない.学生の皆さんに言いたいのは,人間,環境が変わっただけでは,変われない.学生のうちに出来ない事は社会人になっても出来ないと考えた方がよい.本当に変われるなら,学生のままでも変われる.自分を変えたいと思ったら,今すぐ,変える努力をしよう.そのチャンスは誰にでも同等に有る.

彼に不安要素があるとすれば,第一印象では,そうは見えないということか.研究室配属当初は,スマートな話し振りで,何事も効率的に行うべきで,無駄な事はしたくありません,という雰囲気を醸し出していた.そういう学生には,こちらも,最低限の指示を出して,出てきた結果を議論し,また次を考えさせる,という態度を取り,それで上手く行くこともある.また,そういう場合は,結果を得るために一番安易な手法を選択し,大抵,こちらの予想した結果が出てくるか,期待通りにはならず自明な結論に到達するか,のどちらかになりがちだ.

しかし,彼はそうではなかった.愚直な程,想定しうるあらゆる可能性を考慮して,計算結果を積みあげていくタイプで,間違いも少なくないが,始めたら結果を出すのは速いので,どんどん,検証していけばいい.そんなことなら,最初から,密に議論を詰めておけば,もっと,色々な事が分かったに違いないと後悔した事もある.まあ,その反省をふまえて,自分だけでは音を上げそうな計算を,ここまで引っ張って,彼にお願いした訳だが.

今は,ともかく,お疲れさまでしたと言いたい.これまでに,何度か,ここでの文章に登場した事も有った.この仕事が一区切りついたら,彼の活躍をきちんと讃えたいと思いながら,長い歳月が過ぎ去ってしまった.こんな話をすると,研究室配属を前にした学生に,さらに,敬遠されると思いながらも,彼に感謝せずにはいられない.一緒に研究が出来て,本当に楽しませてもらった.どうもありがとう.

東京で議論した際には,彼の先輩にあたる2人の研究室OBにも声をかけて飲みに出かけたことが何度かあった.しかし,毎度,研究を次に持ち越す事になり,議論で疲弊しているので,すっきりした気分にはならない.酒好きの1人は,この会では,とことん,飲むので,翌日は休暇を取ってきました,なんてこともある.もうひとりも酒豪で,自分から帰ろうとはしない.こちらとしては,頼もしい限りだが,彼にしてみれば,一番若いとはいえ,せっかくの休日に呼び出され,朝早くから議論して,深夜まで飲むのはキツかったに違いない.次からは,研究の話抜きで,純粋に,酔いを楽しんでほしい.会社の話でも何でも聞こう.飲み潰れて眠らないかぎり.


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