うつろいゆく思考


2012年7月

暑い.内地(自虐的な北海道方言の意味)に比べればたいした事はないと頭ではわかっていても,最高気温が30度を超えて節電要請が出てエアコンが使えない大学の居室でまともなことを考えるのは非常に困難だ.かと言って,自宅にもエアコンはないし,休暇でも取って,大通りビアガーデンにでも繰り出したいのだが,夕方から重要な会議があって,休む訳にもいかない.ということで,何となく,このページの更新をしてしのぐことに.

大学からThomson Reutersが提供するResearchIDの登録をせよ,とお達しがあったのを,一民間企業に業績管理を委ねることに疑問を感じて,無視していた.しかし,何度目かの通知に,研究科で登録者が43%という内容が有り,せめて,企業側にやらせるか,大学で一括してやれという思いで拒否し続けてきた気持ちも萎えてきて,登録する事にした.

もちろん,それは業績がない奴の負け惜しみだという見方も有るだろうから,芳しいものではないが公開しよう.

http://www.researcherid.com/rid/F-7605-2012

学生の方は,右上に,Searchというリンクがあるから,そこをクリックし,Family Nameに名字,InstitutionにHokkaidoと入れれば,先生方の業績を確認出来る.色々な先生について調べておくとよい.

今まで登録していなかった自分が言うのは何だけれども,業績に自信がある人はさっさと登録していると思う.それを怠っているのは,もちろん,忙しすぎてそんな暇がないという場合もありうるけれども,はっきり言って,単純作業で誰にでも出来るものなので,そのような作業を任せられる事務員も雇えないような状況なんだろう.IDは登録しているのに,論文が登録されていない人々が居るのは興味深い.お上の言いつけには素直に従う振りをして,論文の登録は何らかの理由でしたくない,という先生だ.

論文の数とか,引用件数とか,一つの評価軸を設定し,その値が大きい事は,研究成果を残しているという観点から,良い事だと思う.ある程度の年齢に達して,そこそこの数字に達していなかったら,もう,その人は自分の趣味に走っていて,研究の最前線に立とうという気はないのだと判断されても仕方がないと私は思う.もちろん,大きな値の人が最前線にあるとは限らない事は,言うまでもない.研究室に入って,世界の最前線に立てるような,卒業研究がしたい,修士論文が書きたいと思うなら,迷わず,数値の低い先生は候補から外した方がよい.

ただし,研究室で何が得られるかというのは,人によって大きく異なる.特に,4年生の場合は,本格的な研究に入る以前の準備に研究室生活のかなりの部分が割かれる事になり,それが適切になされるかどうかは,それらの数値とはあまり無関係で,学生と研究室との相性による部分が大きい気がする.研究成果を残す事に関心がなければ,そんな数字を気にする必要はないということだ.ただ,それに関心がないとして,学生は何しに大学・大学院に来ているんだろう,というのは悩ましい問題だ.

ホームページのアクセス解析をしていると,なかなか,面白い.検索サイトからどのような検索ワードで飛んでくるかが一目瞭然で,結構,研究関連のキーワードで飛んでくるのを見ると,少しは,世の中に貢献しているかと勘違いしてしまう.しかし,中には「関心のあること」というので飛んでくる輩も居る.確かに,大学にあるサイトのせいか,どの検索エンジンでもそれなりの上位に現れるようで,気持ちはわからないでもないが,関心のある事をネットに尋ねるなんて,可哀想としか言いようがない.せめて,複数キーワードで,こういう場合にどう書けば良いかというふうに絞り込みの努力があれば,見込みも有るのだが,そういうふうに考える力が有れば,そもそも悩まないだろう.

IPアドレスを拾いnslookupを掛けていたのをやめてウェブ検索してみると,これまた面白い.例えば,大学のアドレスであることはすぐに分かるし,学内なら建物までは特定出来て,学科内なら研究室まで想像出来る.困るのはそこからどこのサイトにアクセスしたかがネット上に足跡として残っている場合で,掲示板に書き込みを繰り返していたりする.それが,PCの設定だったり,研究に関する事なら理解出来るのだが,ポケモンのキャラクター育成だったりすると,はっきり言って,情けない.自分もゲームは好きで,北大に来てからも,あと10時間ぐらいでクリア出来そうだから,睡眠時間削ってでもやるかと,徹夜したりしたこともある.さすがに,もう子供が遊んでいるのを貸してもらってやってみるぐらいしか,最近は接する機会はないけれども,ゲームを悪とみなす人々が居る事ぐらいの自覚は昔からあるし,大人社会ではそれはいまでも大きな勢力だ.

大学からそのようなサイトへアクセスすることは,休憩している時間で,違法性がないところなら,厳しく取り締まる必要はないと私自身は考えるけれども,何かあったらそれは本人に不利な情報となることはあり得る.彼らは情報弱者に分類すべきだろう.なんらかの教育が必要だ.最近は,色々な情報が思わぬ所で繋がって,本気になったら,個人の特定は容易だ.学生には警告しているんだけれども,twitterやfacebookでオトナに知られたくない事をつぶやくなと.知られるとは思っていないというよりも,それを知られても何ともないのだとしたら,もう,理解し合えないのかもしれない.

twitterのfollowerの関係を見ていくと,たとえ非公開アカウントでも,その人がどこのコミュニティに属しているかは明らかだ.公開アカウントが大勢であれば,消去法でおおよそ特定出来る.研究室で仲良くつぶやきあうのはいいとして,やる気のなさ全開だと先生が可哀想になるものの,ウチには優秀な学生が全く来ないと嘆いていたりするから自覚しているんだなあと思う.それを何とかしようとしている様子もないので,教育に力を入れず,学生も楽が出来て,お互いそれなりにハッピーであるという意味で最適化されているのかもしれない.

twitterやfacebook,mixiはROM用にアカウントは持っているが,情報を発信したことはない.Google+だけはGmailを使っている関係で,匿名性を保つ事は諦めている.Googlewaveを使っていた時の写真がそのまま流用されているのは消そうと思いつつ放置したままだ.

ある時,GoogleからGoogle+のユーザーでお友達じゃないですか?というメールが来て,クリックすると何も書かれていないが,お友達の1人に女性が居た.これ誰?とメールを送ったら,慌てたらしく,2人の関係を知っていた共通の友人は,私に漏らしたんではないかと責められたらしい.ともかく,どこから情報が伝わったかわからないということで,慌てて,関係各所に通知して,その後,めでたく結婚された.会ってみるとお似合いのお二人だったが,その責められたという友人に,お前の一通のメールが,結婚へとあの男の肩を押したんだと言われ笑ったが,SNS情報の怖さを思い知った出来事であった.

Googleつながりで,Google Scholar Citations というサービスがある.こちらは,国際会議のProceedingsも登録出来るので,自分の業績リストと置き換えられる.ネットからの情報を集めただけなので,信頼度は劣るかもしれないけれども,もちろん,タダだし,誰でも見られるので,こちらを利用した方がいいような気がする.

http://scholar.google.com/citations?user=z92ZYhUAAAAJ

複数のソースが有れば,それだけ,信頼度が上がると思うので,大学の研究者情報にはResearchIDとあわせてリンクを付けるように進言してみようか.

しかし,これらGmail,Googledriveなどのサービスが有料化したら,いくらなら,使い続けるだろうか.hotmail+Skydrive,Yahoo!メール+Yahoo!ボックス,も使っているので,どこか一つが無料で使えるうちはそちらに移行して使い続けるだろうかもしれない.ネットストレージはDropboxやBox.netのサービスの方が使いやすいし,電子メールもそろそろ,スパムメールを排除を容易にする別のシステムに置き換えられることを望むが,世界的な不況に陥って全てのサービスが有料になるのが先な気もする.

この7月,メールの数が自分の処理能力を超えて,6月から7月20日までに届いたメールに,一部(当社比),返信出来ていないものがあります.既にいくつかの連絡はいただいてますが,見過ごしが減るようにメールフィルタを強化しましたので,もし,ここを見ている方で最近連絡したのに応答がないという方は,改めて,ご連絡ください.


2012年5月

今年はグループに4年生が2人加入.2年連続でゼロだったら自分の対応に問題があるんだろうなあと思いつつ,今年も話を聞きにきた学生には,他の研究室を勧めてもう一度よく考えなさいとか,量子力学の成績はどうだったかなどと尋問して応答が芳しくない場合にはお互いにとって不幸にならないように,などとまで言って,排他的な態度で接した.それでも来たいなら本気だろうという対応.私のそのプレッシャーに耐えられるのは余程の固い決心か,KYのどちらかだろうが,今の所,うまく行っていると思っている.

研究室配属は,話し合いで決めるのが原則である.決まらなければ,ジャンケンかくじ引き.ある時,成績で決めるべきだと学生達が集団で訴えた事があった.その年に何があったのかはすっかり忘却の彼方だが,それをふまえて,次年度からはこう改善してほしいという主張で,集団で意見をまとめてそれを教員に訴えるという行為には感心した.

しかし,成績で決めるというのは分かりやすいけれども,そうでない方がいいと個人的には思っている.以前ここで主張を展開した気もするが,多くの教員は成績よりも,自分の所で研究したいという意欲の方を重視している.実際,一定の予備知識があれば,どうせ専門的知識は研究室に入ってから身につけることになるので,そこからどれだけ頑張れるかが鍵となる.

ということで,研究室選択では,自分がその研究室を志望する理由,もっと素朴に言えば,どれだけそこに入りたいか,その研究室のテーマにこだわりがあるか,その研究室の教員に教えを請いたいか,などを各個人がアピールして,議論し,そのプロセスを経て,自分はそれほどまでにその研究室にこだわりがある訳ではない,とどちらかが感じて志望を変えるか,どちらも譲らなければ,確率的に平等なやり方で決めるのがいいんじゃないかと思っている.

成績で決めろと主張するメンバーの中にウチに配属された学生の名前があったので,どうしてそれに加わったのかと尋ねると,確か,押しの強い奴が勝っちゃうんです,という返答だった.それにこちらは,押しが強い奴が勝つのは当然で,それが,社会の常識だ,と苦言を呈した記憶がある.学問の世界なので,成績が加味されるべきという考え方もありうるだろうけども,大学院入試ではそれが厳密に適用されているし,先に述べたように,やる気の方を重視したいんだから,成績で短期間に2回振り分けるなどという無駄なことをせず,まずは,各自がそれほど興味の範囲を限定せず,1年間は研究室を試してみるぐらいの感覚で,配属を決めてもらいたいのだが.

ただし,配属に関して教員側に思惑が無い訳ではない.上記の話は,特定の2人から1人を選ぶ時に成績よりはやる気を重視する,ということであるが,やる気の無い学生も要件さえ満たしていれば,どこかで,受け入れなければならない.そんな学生ばかり集まったら教育も研究も大変なので,その負担がなるべく研究室間で平均化されるようにしたい.

ある大学の先生に聞くところによると,学生を成績で序列化し,成績下位から研究室数に等しい人数分の学生は,1人ずつを必ず全ての研究室で受け入れるように配分しているとのこと.成績下位の方が希望通りの研究室に行けたりして学生から不満が出ることもあるが全体で見ればうまく機能しているらしい.そんなことが可能なのは,教員が教育に責任を持ち,これでいいと堂々と主張できるからであろう.

個人的には,研究室配属は,学生の希望を取って,定員を超過したら,教員に選ばせればいいと思う.就職活動と同じで,インターンシップを経験し,それでマッチングがうまく行けば,早めに配属を決めてもいい.合わなければ,また,他の研究室を回ればいい.学生の立場になれば,研究室で経験を積みたいとか,研究でもプライベートでも日々の生活を充実させたい,あるいは,できるだけ楽をして卒業したいとか,困難な作業でもいいから大学での滞在時間を出来るだけ少なくしたいとか,色々な希望があるはずで,教員と学生の双方の行動を最適化させることで,成り立つのではないか.

ここまで書いておきながら,実は,希望者が定員を超えて,交渉がまとまらないということは,最近,起きていない.その要因のひとつに,今は入試制度が変わってその問題は解消されたのだが,大学科コース制になったことで化学系志望の学生が主流となり,コース分属時に定員割れを起こして研究室配属される学生がかなり減少したことがあげられる.

そこで,何が問題になるかというと,人気のない研究室に欠員が出ることである.個人的には欠員が出たらそれでいいと思うのだが,教育の義務を果たすべきなどという理想論から,研究設備を維持するのに人足が不可欠という泥臭い話,大学院生が居なくなったら手当が減るという身につまされる話まで,いろいろ語られるも,私は納得のいく理由を未だに見出せない.もちろん,学生が集まらない状態が連続したら,教育職として雇用されている者としては何らかの問題があるはずで,別途解決すべきとしても,可能な範囲で学生の希望を優先する方が教員と学生の双方に利益をもたらすと思うのだが・・・.

とにかく,現状では,研究室配属人数に下限が設定されている.これはウチのコースに限ったことではなく,もっと言えば,定員に弾力性を持たせているのは工学部内では少数派で,むしろ,各研究室で均等になるように学生を配分するのが一般的らしい.定員に弾力性がある場合,配属希望の数が,各研究室の上限に収まっていても,下限に達していないということが起こり得て,この場合,問題が非局所的になるため,解決が難しく,今年も,実際そうなったらしい.誰かが希望の研究室を変えて,欠員を埋めなければならない.

今年の配属を仕切る担当の先生は,理論研究志望の学生を集めて,根気強く説得し,規定の定員配分に収まるよう,話し合いを続けさせ,関係者は,かなり,辛い時間を過ごしたようだ.途中,その先生が私の居室にやってきて,私の所が不人気で定員が埋まらないんだけれども,と相談にいらっしゃった.欠員が出ても構いませんよ,とお伝えしたのだが,非常に真面目な先生で,しかし,強権を発動するようなことはせず,話し合いで解決したいとのこと.よっぽど,自分が出ていって,お前がウチに来いと誰かをスカウトしようかとも思ったが,その先生は具体的な名前を誰も出さず,学生の意思を尊重するという強い意志を感じたので,お任せし,最終的には,志望を変えてもよいと名乗り出た学生が居て,丸く収まった.

不人気な研究室に移るのは苦渋の決断だっただろう.しかし,交渉の流れを見ながら,きちんと状況判断が出来て,そのような決断が出来る人物を私は評価したい.実際,配属された2人は,話し合いがきちんと出来て,それを反映した行動の出来る,大人である.人の話を聞いてないとか,約束が守られないとか,学問以前に人間としてどうよ,というような学生に関する教員の愚痴は絶えないので,今の状況は恵まれていると言えよう.だからと言って,手加減はしないが.

前置きのつもりが,また長くなってしまった.しかし,本題はここから.

ゴールデンウィークに大学院時代の同期3人で久しぶりの再会.話の途中,今時の若者に何をどう頑張れと言ってやればいいのかわからない,と1人の男が嘆いた.予備校や大学の教壇に永く立つ彼には親しくしている教え子達に,という話.もう1人の男は企業人で,会社は人員削減の嵐で,採用も絞られており,個人がすべき仕事の量は,例えば,見るべきメールの数だけでも尋常でない.自分の周りだと,大学で聞く話によれば,就職がなかなか決まらない学生の精神状態にはかなり厳しいものがあるようだ.それ以前に,勉強についていけず,あるいは,やる気が喪失して,各学年の定員の1割近くがドロップアウトし退学していく..

そう嘆いた男は禁酒中にも関わらずに付き合ってくれたのだが,残り2人はすっかり出来上がり,その場はどう答えたのか思い出せない.しかし,敢えて言うと,我々の時代にも語れる夢なんて実はそんなになかったような気がする.学部4年の時にバブル崩壊.修士の時には,終身雇用なんて維持出来ないに決まっていると,少なくとも,自分はそう叫んでいた.3人それぞれ考えがあっただろうが,博士課程まで進学した.が,誰も3年で学位を取ることが出来なかった.

1人は博士課程を中退し,アメリカへ留学.supervisorが変わったりして苦労したがPh.D取得.しかし,物理からは離れ,地方の教育産業に就職.数年で見切りを付け,予備校講師をしながら,弁理士資格を取得し,今は,弁理士と大学講師などを掛け持ちして,まさに,自由業の名前の通り,自由奔放に活躍している,ように私には見える.

1人は博士課程を満期退学し,外資系会社に就職,産学連携だったか,何かのプロジェクトに参加していて,終了後,日本の会社に転職し今にいたる.第一原理電子状態計算に関する難しい問題に取り組んでいたこともあるが,学位取得には苦労し,転職後も,週末,大学に通い続けた.何年かかったのか知らないが,仕事と研究の両立は本当に大変なはずで,自分なら途中で諦めたと思う.

自分は博士課程をD2で中退し,助手になったはいいが,任期は2年で,研究室運営補助と数学の講義演習をこなしつつ,研究成果を出版して学位論文としてまとめた.本当に綱渡りで,通勤時間が惜しくて,2年目の春に結婚するまでは,週に3回大学に泊まりこんだ.ソファーベッドが確保出来た時もあるが,基本は居室の床に新聞や段ボールをしき先輩の寝袋を借りて眠る.東京でも冬はかなり辛かった.それでも,そうせざるを得なかった.

学位取得後は就職活動.海外でのPDなら紹介出来ると言われていたが,その分野で生きていくつもりはなかったし,私的な事情もあって国内に留まりたいのでと丁重にお断りした.いくつかの公募に落とされながらも,分不相応と思って出す気のなかった公募を教授に勧められ応募したら,運良く拾ってもらえた.しかし,案の定,固体物理の理解がなってないことを思い知らされ,一から再勉強する羽目に陥った.実際,学生時代に固体物理Iは必修だったが,IIは選択で取らなかったのだ.それが今,固体物理を飯の種にしているんだから,人生,どう転ぶかわからない.

3人とも,並の男よりは強い精神力を持っていると思うが,それでも,それぞれに泣きたくなる程に辛い時が何度もあったのをお互いに見てきている.お互いの事情で連絡が疎遠になった期間も短くはなく,電子メールの無い時代なら関係は途絶えたであろう.その間どういう思いで過ごしたのかはわからないけれども,現在は,皆,それなりに悩みを抱えながらも,充実した日々を送っているように思える.

理系男子3人の学部卒業20年後の姿で,典型例とは言えないかもしれない.しかし,幸せのロールモデルがなくなりつつある時代に,十人十色の人生の例をたくさん見て,そういう生き方もあるのかと参考にしてもらえれば幸いである.

同じ大学院で修士を取って以後は,共通項なんてなさそうだけども,自分はさておき,彼らは本当に勤勉で,辛い時でも腐らず,着実にやるべきことをこなしてきたように思える.そして,誠実で,何かうまくいかないことがあっても他人のせいにせず,かつ,世話になった恩義を忘れないというタイプの人間だ.

頑張れば報われるというわけでは,必ずしも,ないけれども,チャンス到来時に腐って隠れていてはそれを逃すだけだし,人間関係を大事にしなければ,そもそも,そんなチャンスは巡って来ない.大学入試や,就職一括採用などは,お決まりの対策が有効としても,その後の人生は,本人の努力と人脈で決まるというのは,今時の学生は頭では分かっているようでいて,行動が伴っていないように感じる.あるいは,能力さえ磨けばそれに応じた仕事が巡ってくるのをひたすら待てば良いと思っているのだろうか?

唐突だが,こんな偉そうなことを何年も書き連ねてきて,最近,思う所があったんだけれども,危惧していた事態が実際に生じている事を,1人の男が話してくれた.

以後,かなり長文になる予定.

その男の勤める会社には,彼以外にも大学時代の同期が何人か居て,そのうちの1人がこのサイトの文章を読んだらしく,「・・・していたあの男がねえ」という感想を口にしたと.伏せ字が何かを公開するのは差し控えるけれども,昔の自分を知る人が,このような文章を見たらそう思うだろうなあと,まさに,思っていた所だった.

大学院に入るまでの自分は常識の無い,野卑な人間だったと素直に認める.もう卒業研究で配属されてくる学生と年齢差が20を超えるようになり,言葉の重みがこちらが考えている以上に増しているようで,ちょっと,やりにくい.だからと言って,若者に迎合しても仕方がないんで,昔の自分をさらすチャンスがあればと思っていた.余計に距離が開いてしまう危険性もあるけれども,こちらとしては繕う必要がなく素で話が出来るようになるというメリットはあると思うんで,昔の話をしてみる事にする.

とにかく,若い頃の素行の悪さの例を挙げれば枚挙に遑がない.例えば,泥酔して渋谷の街中で動けなくなり救急車の世話になったことがある.記憶は宴会の途中から全くなくなって,渋谷の丸井まで運ばれてきたが,運ぶほうも酔っぱらいなので,運びきれず,歩道に放置していたら人だかりになり,救急車が呼ばれたらしい.病院では眠ってるだけで治療の必要はないと帰され,目覚めると自分の部屋に友人と居た.当然,何がなんだかわからなかったが,病院に行って診療代を支払ったのでその話に間違いはない.救急車による搬送自体は無料であることを初めて知った.最近,北大では学生が大学病院に急性アルコール中毒で運ばれると所属学部に通報される.その情報が何に使われるかはしらないが,やり過ぎだと思うのは,自分が救急車で運ばれた経験も運んだ経験もあることにもよる.

大学の教室でタバコをふかしていたこともよく覚えている.マナー違反,それが何か?と考えていたのだろう.大学3年の時に,さすがに授業中ではなかったと思うが,教室で一服しながら話をしていたら,これも後に大学院の同期となる1人なんだが「やめたほうがいいよ」と注意してくれた.小学生が書くような文章になってしまったが,今思えば,些細なことでキレそうな男に一言するのは勇気がいったに違いない.それでも,友人に指摘されて悪いなと思ったことは確かで,それ以降,灰皿を持ち歩くことまではしなかったが,喫煙マナーは守ったと思うし,それをきっかけに本数が減って,大学院に入って程なく,禁煙に成功した.その友人が覚えているかどうかは分からないけれども,この件は,自分のなかでは一つのターニングポイントだと思っていて陰ながら感謝している.

早い話が,バカな人間だったということに尽きる.社会常識が大きく欠落していた(いまもか?).きちんとした自己分析は,いまだ,出来ていないけれども,人を敵味方で分類して,味方以外は敵というような発想だった気がする.多数の人に迷惑をかけたけども,助けてくれる人も居て,今があるのだと,歳を取ってようやく理解できるようになった.上京して大学に入ってからは1人で生きていると勘違いしていた.何をもって人を信頼していいかがさっぱり分からなかった.以下は今回,言いたいと思った事をまとめようと考えた過程で思い出したことを,もちろん,公表出来る部分だけを抜き出して,ダラダラと書き連ねていく.

常識のなさを家庭環境のせいにしてはいかんと思うが,子供の頃,自分の身内,その交友関係,あるいは,近所の人を含めても,現役大学生はおろか,大学を出た人間は皆無だった.そんな環境に育って,勉強が好きでもなければ,大学に行くなんて真剣に考えるはずも無いし,将来の希望も知れている.近所に住む小学校の同級生も似たようなもので,実際,成人式の時点で男の半数以上がトラック運転手だった(と同級生の1人にあとで聞いた).

自分も父との貧乏暮らしが窮屈になっていて早く独立したという思いは強かったが,成績は悪くなかったことから普通科高校に進学した方がいいという助言に従ったのは人生で一番重要な決断だったと思う.しかし,正直なところ,高校は居心地のいい場所ではなかった.ある種の被害者妄想にとらわれていた気もする.言葉ではうまく表現できないが,一部の学生の選民意識というか差別意識を強く感じた.

高校時代のある時,昼休みだったか,授業の合間だったか,渡り廊下を歩いていると,校舎の補修工事が行われていた.ふと見ると,作業員の中に中学時代のクラスメートがいた.特別仲がいい訳ではなかったが,よく話はしたので,しばらく言葉を交わしたものの,あちらは仕事なんで誰かに呼ばれて去っていった.ちびまるこに出てくる永沢君のように頭が尖っていて,よくそれを指摘されて喧嘩になっていた.正確には,タマネギ頭ではなく丸刈り卵形だったが.しかし,それ以後,会ったことはない.

その光景に遭遇した,あるいは,話を聞いた同級生の反応がどんなだったか,はっきりとは覚えていないけれども,自分の中で負の感情が強く残っているので,高校での自分の立ち位置を象徴するイベントだったんだと思う.確かに,工業高校や商業高校に行った者,中卒で就職した者をさげすむような言動を取る人間が少なからずいて,気分が悪かった.

今思えば,公立高校の入試の倍率は1.1倍以下だった.偏差値輪切りで,学力はもちろん,家庭環境まで含めた,様々な面でそろった人間が入学しているわけで,そこにある種の階級意識が生まれるのは必然なのだろう.それまでは見えていなかった現実を色々な形で突きつけられ,はっきり言って,傷ついた.

それは生徒だけに限られたことではなく,教師の方も同様で,本音と建前を巧みに使い分ける,なれ合いの雰囲気になじめなかった.自分のいた中学は荒れたバカ学校と言われていて,確かにその通りだった.しかし,学校の勉強がどれだけ出来るかを比較すれば明らかに負けているが,それを除けば,個々の生徒の素行に大きな違いを見出せなかった.なのに世間的には,一方は荒れた中学の不良かバカ生徒で,もう一方は優等生扱いなんだろう,という疑問を持ってしまった若者の怒りのやり場はない.そういう感情を心に抱いて,うまく人と交われるはずもない.ただ,こちらは失うものがないと思い込んでいる,怖いもの知らずだったんで,生徒だろうと先生だろうと,どんな相手にもけんか腰の対応で煙たがられていたに違いない.

ジョンレノンは凶弾に倒れた後だったが,尾崎豊は生きていたし,甲本ヒロトのキレた叫びが好きだった.iPhone4Sでようやく全てが収められた5000近くの楽曲からシャッフル機能が提供してくれる中に昔よく聴いた曲が現れると懐かしく思う.最近,ブラックボードというテレビドラマを観て,自分の中学時代を思い出した.佐藤浩市が体罰容認の教師で,荒れた中学を立て直すといストーリー.誇張は多々あるけれども,本質を突いていたと思う.自分のいた中学でも,教師の生傷は絶えなかったし,児童相談所,鑑別所の世話にになる者がそれなりにいて,一つ上の学年ではいじめで殺人事件が起きた.我々の卒業式にも警察が入り込んでいたのには憤りを覚えた記憶がある.

不良女子中学生役を演じた役者は誰だか知らないが,鋭い目つきが印象的だった.他人と向かい合う時に,あのように,眼に力を入れて見つめないと自分を保てないような歪んだ感覚を持ってしまう理由は人それぞれだけれども,何らかの助けを必要としていることは確かだ.ドラマでの設定は,両親揃っていたけれども,関心は優等生の兄のみに有って,ネグレクト状態.

自分の知った範囲では,非行化していくのは,片親の場合が多い.働かないと食っていけないので,家には子供だけ,仕事で夜遅くまで家を空けていることになり,そこが溜まり場になる.やることは多様で,力強さを顕示する,賢さをよからぬことに使ってしまう,危険な快楽を求めるなど,類型化は難しいが,恐れを知らないというのは共通点のような気がする.単に,頭が弱いと分類しようとする大人もいるが,そういう場合ばかりでもない.彼らは,概して,不器用だ.そういうすれ違いが起きて,守るものがない,守ってくれるものがない,と思い込んでいる若者の悶々とした気持ちが大きく外向きに振れた時,本当に何が起きてもおかしくないと思う.

きっかけも色々だが,クラス名簿に両親の名前が出ていたり,職業欄まであったりすると,もうそれだけで,色がついてしまって,大人の見方は固定し,その子供も影響を受け,生きにくくなる.類は友を呼ぶとか,朱に交われば赤くなるとかで,自然に集団となるので,むしろ,昔は分かりやすかった.今は,そうならないような配慮はあると期待するし,どこかで不良とか非行が格好悪いというキャンペーンでも張ったせいなのか,少なくとも,都会では普通の学生と心の荒んだ学生は見た目では区別がつきにくい.そういう生きにくくなった若者の荒んだ気持ちがなくなるはずはないと思うのだが,それらはいったいどこで昇華されているのか,たまに,気になることがある.

まあ,ともかく,高校では明らかに浮いてしまったけれども,それでも,付き合ってくれる友人は居た.北大にまで尋ねてきてくれた友人も何人かいる.昨年,10年以上会っていなかった,名古屋に住む友人の1人と会う機会があって,お前は高校時代は医者か弁護士になると叫んでいた,と指摘され,そんな時代もあったなと,懐かしくなった.実際,法学部受験に備えて,地理と世界史の勉強にかなり力を入れたが,歴史の闇雲な暗記が辛くなり,挫折したのは苦い思い出である.それなら,医学部に入っていれば良さそうなものだが,人生の選択はそれほど簡単には行かなかった.意志が弱かったと言えばそれまでだ.

次に目指したのは数学者だった.その態度からすれば当然の扱いだが,高校では鼻つまみ者として教師陣に煙たがられていた中で,ある数学教師から大きな影響を受けた.自分は高校入学後早い段階で授業は全く無視して独自に勉強を進め,一通りのことを終えてしまったので,はっきり言って,それからの数学の勉強は難しい問題に苦しむだけのつまらない作業になった.

その状況を理解した上で,彼は,大学で使う微分積分の分厚い演習書を貸してくれた.それにはまって,何度も質問に押し掛け,嫌がられたが,そんなに楽しめるなら大学で数学をやればいいと勧めてくれて,彼の大学の同期生が勤めているという京大の数理解析研(RIMS)が世界的に通用する素晴らしい研究機関であるらしい,と知るとすぐにそこに行く気になっていた.その気持ちは持続して,実際に京大理学部を受験し合格した.

結果として別の道を歩む事になったのは,家族会議があって,表向きは,世話になった人の強い意向がありそれを尊重したということになっているが,自分の中で一番決定的だったのは「京大って京都にある大学なの?」という別の人の言葉だった.学問をするのに一般大衆の知名度など関係ないと自分に言い聞かせようとしたけども,幼少時から実の子供のように扱ってくれたその人には素直に喜んでもらえる選択をしたかった.

東京に出て一人暮らしを始めると,学問への関心は徐々に薄れて行った.やはり,その程度のことだったのかもしれない.現実の生活の方が大事で,かつ,面白い.金を稼ぐのは大変なことだけれども,バブルのまっただ中だったし,色々な人間模様があった.高校の数学の先生にいざとなったら新聞奨学生として紹介してもらう覚悟だったけれども,ボロアパートに住む事でその必要はなかった.

大学でも高校に入学した時と同じ疎外感を感じるかと心配したが,そんなことはなかった.当時,東大生の親の平均年収が一千万を超えたとニュースになっていたが,中高一貫私立出身の学生の多さがそれを引き上げているのだろう.つい最近まで,小学生の娘に中学受験をさせようとして,塾に通わずなんとか済ませられないかと頑張ってきたが,紆余曲折を経て,通わせる事になり,あれだけの費用を賄うにはそれなりの財力が不可欠だということを痛感した.

現実には,少なくとも自分の学生時代は,公立出身者も少なくなく,大学入試は,いわゆる,社会階層ロンダリングの機能を充分に果たしているように感じた.中学入試なら子供は親の言うがままに頑張れても,大学入試では本人がその気にならなければ成功しないし,その気になるのが随分と遅れたとしても能力に応じた努力をすれば合格できる,という良く出来たシステムなんだと思う.階層という言葉は好きではないが,その属する人間の平均年収を尺度とすれば一次元的に序列化できて,実際,それが多くの人の感覚と一致するのかもしれない.

その基準にのっとるとして,初任給で月給20万ぐらいの階級に属しようとしたとき,学生時代に時給1000円のアルバイトをする意味はあるかと考えるのは意味がある.その時給でフルタイム働いても,会社側負担分の年金や保険を計算に入れたり,ボーナスなんかあったりしたら,遠く及ばない.

もちろん,生きていくには金が要る.働かざるもの食うべからずで,仕事が見つからなければ,安い時給で我慢しなければいけない時もあろう.言いたいのは,自分がそういう階層に属しているという現実を自覚すべし,ということである.そして,何のために大学に入ったのか,定期的に,自問自答した方がいい.

目標を達成するには,大きくランクアップしなければならないということだ.学歴ブランドは,選考に入る間口を広くしてくれることはあるかもしれない.思うに,良い人をより引き立ててくれることはあっても,ダメな人を引き上げてくれることは,もはや,ない.レベルをあげるには個人の能力を高めなければならないのは当たり前.若者はその時間を惜しんではいけない.

せめて,時給が安くても,何らかの経験値が上がる期間だけ働くとか,自分の頭で考えて改善が出来る仕事とか,何らかのスキルが身に付くような仕事を選ぶ,などということを考えるだけで,大きく違うと思う.何を幸せと定義するかは別問題だが,最下層に居る人間が娯楽に興じていてはそこから脱することは難しい.抜け出したいと思うなら,パトロンでも見つからない限り,学び,働く,の繰り返し以外に道はない.

ただ,現在のデフレ状態は,若者に同情の念を禁じ得ない.最近,それを思い知ったのは,タクシー運転手の給料だ.知人でタクシー運転手経験者の話によれば,一日のノルマは5万円を越えていたはずで,半分が取り分.昔は規制もあり,タクシーの台数は不足していた.何日乗車してだか忘れたが,月給が50万円を超すのは難しくないというような話だったと記憶している.しかし,話はそれでは終わらない.

初乗り500円程だとして,100回コツコツと客を乗せるなんてやってられず,深夜の遠距離客を狙うようになるまで日数はそれほどかからない.客を拾うコツが分かるようになると,昼まで寝て,午後は暇なので,パチンコや場外馬券売り場で時間を潰すようになって,結局,金は貯まらないという話だった.彼は個人で運送屋をやっていて景気がよかった.しかし,いつか,税務査察が入って,アルバイトとして名前を貸してくれと頼まれたものの,こちらもちゃんと青色申告している会社での所得があったので,お断りした.最近,高速バスの痛ましい事故があったが,社会構造の末端にある運転手がどのような労働環境に置かれているかを知れば,想定される事態だと思う.自動車の社会的費用というものを,もう少し,深刻に捉える必要があるように思える.

事故というと,つい,原発事故と比較したくなる.フクシマの事故が直接の原因で死亡した人間は居ないという経済学者の言葉を借りれば,年間5000人以上の死者を出す自動車より安全という話になるかもしれない.しかし,原発は運転稼働するだけで危険な廃棄物を生み出し,それを1万年以上保管する必要があるという代物である.その作業は,原子力の専門家ではなく,それこそ,末端の作業員が行う訳で,自動車でいえば,雇われ運転手が1万年無事故無違反で通せるか,というレベルの話ではないだろうか.

それが出来る人も居るだろうが,自分は絶対無理だと思う.酒飲んで酔っぱらうし,日中だって注意力散漫だと自覚しているので,免許は取得したが,今の所,運転するつもりはない.そんな人間の言うことだから,バイアスもかかっているだろうが,原発を動かすことのメリット・デメリットの議論以外に,原発を動かすとはどのような作業で誰がそれをするのか広く国民に知らせてほしい.もちろん,原発を止めたって,既に廃棄物は存在しているんだけれども.

話を戻そう.札幌に価格破壊を標榜するタクシー会社が参入した.当時のニュースを見ると,一日のノルマは1万円台前半とのことで,まず,驚いた.これがどういうことかというと,先ほどの計算式に当てはめれば,給料が計算出来る.札幌駅前のタクシー乗り場の客待ちをするタクシーの台数は尋常じゃない.何分待つのかしらないが,とても初乗り利用でおろしてもらう気にはならない.規制緩和によって,参入が可能になったんだろう.さらに,運転手の話によれば,そこのタクシーは駅の乗り場の客待ちの列からは閉め出されているらしい.どっちを応援したらいいのかわからなくなるが,運転手の労働条件が過酷であることは間違いない.

身も蓋もない話になってしまうが,自分の時代は東京にはそれなりに実入りのいい仕事があったので,何とかやっていけたんだと思う.それでも,大学院に入るまでは,安定した収入を得ることはなく,偉そうなことを言ったが,自己研鑽の余裕などなかった.ほそぼそと数学の勉強だけは趣味のように続けていたが,結局,進学先に,数学を選ぶ事なく工学部に進学し,そこでも,数理工学か物理工学かを選択できる猶予が半年あったけれども,後者に進んだのに,ここに書けるほどの理由はなかった.その時点で,物理工学科で理論研究が出来るなんて知らなかったので,全くいい加減なものである.

学問に対する情熱を失って,企業に入る道を選択しようとしたが,やはり,自分は世間知らずだった.給料が高い事を目指せば文系就職しかありえなくて,いろいろと話を聞くものの,そんなんじゃ自分は偉くなれるはずがないと悟った.まあ単純化すれば,大きな利益を出すために必要なのは,新しい価値を創造するか,人のやらないことを率先して行うか,のどちらかに尽きている.そう言えば聞こえはいいが,競合相手を蹴落とし出し抜き,利益のためなら手段を選ばない,と言い換えてもいい.

会社というひとつの組織がそれ自体,階層構造からできていて,大きな組織になれば,フラクタル性を持つとまで言えるかもしれない.そこを確実に昇っていく道はなく,出る杭は打たれるという日本の縮図のような構造で,革新的なことを成し遂げた人よりも,問題を起こさなかった人,要は,何もしなかった人から順番に出世すると,多くの人が口にした.その当時から,能力のある人材はどんどん転職していると言われ始めていた.仕事現場で手段を選ばないようなやり方があるのは覚悟していたけれども,どうしてもひっかかったのは,実家は何やってるの?という問いかけが少なくなかったことだ.

大企業の新卒一括採用というのは何をやっているかと言えば,そのコミュニティに属する資格があるかを問うてるんであって,能力なんて二の次だ.というか,多くの仕事に対してその能力があるかなんて筆記試験や面接で測定しようがない.どれだけ従順で,組織の思い通りに動かせるかが大きな判断基準になるのは想像できる.つまり,そういう社会では個人の評価はどのコミュニティに属しているかで決まる.

それは公務員でも変わりはない.今は表向きはなくなったんだろうが,特定郵便局の存在はその象徴で,言ってしまえば,家族経営.俺は将来郵便局を継ぎ郵便局長になると公言していた男が居たので,その存在はしっていたが,いかがなものかと思う.地方公務員の実態も公職というよりは,ひとつのコミュニティになっている.国家試験のあるような職種だって,筆記試験は通過できても,2次は面接で,コミュニティに相応しくないと判断されれば,無下に落とされる.コミュニティと称すると聞こえはいいかもしれないが,要するに,コネクションでなりたつ世界である.

そんなものを全く持たない者が上昇志向を持ったはいいが,気持ちをへし折られた感覚.労働意欲も失ったし,3年生に進学するとメーカーの工場見学が始まって,見に行っても,何ら響く所はなかった.大抵,見学の後に懇親会があって,酒を飲むんだけども,必ず,酔っぱらって管を巻いていた.絡まれた引率の先生や同級生達は本当に迷惑だったに違いない.これを読んでいたら,いまさらだが,ごめんなさい,と言う他ない.

そんなこんなで,もう自分は学者になるしかないと思い込んで,数学と物理の勉強に集中することにした.そして,将来は大学院に入って博士課程まで進学し,学位を取って,30になるまでに職が得られなければ,諦めようと決めた.

話が長過ぎなんで,ここで,D2で中退し,途中の話に戻る,としてもいいんだけれども,もう一つ,事件とも言うべきバカ話を.

4年生の研究室配属では,卒業研究のテーマが提示されて,それを選ぶ形式だったと記憶している.各テーマ2人ずつ募集していて,純粋にテーマが面白いと思ったのと,講義が分かりやすく,先生の年齢が一番若かった,ということで決めたはず.特に争いはなく,すんなり決まった.もう1人の男は,調子のいい男だが,気のいい人間だ.一緒に酒を飲んで失敗した話はたくさんある.すでに,このサイトにも登場してもらったことがあり,今でも飲み仲間だ.すぐ後にも出てくる.

大学院では理論の研究室に入ったが,同じ建物の1階と2階で居室が近かったので,元の研究室にも頻繁に出入りしていた.仲間が増えて,飲み会の頻度も相当上がった.もちろん,研究もしっかり続けていたが,この際,それはどうでもいい.事件が起きたのはM2の時だった.

主に卒論の時の研究室の仲間で,夕方から本郷で飲み始めるのがお決まりだった.大体,次,その次と行く店も決まっていたが,1人の男がある日,最後に行く店で潰れ,救急車を呼ぶ騒ぎになった.つい先ほど出てきた仲間と一緒に乗ったんだけれども,順天堂に行ってくれればと願ったが,東大病院に担ぎ込まれ,ERの医師に散々説教を受けることになった.それは,事件の前年度のことだったと思う.

その酔いつぶれた同い年の男は,非常に礼儀正しく,かつ,酔っぱらっても,話が論理的で,こちらがいい加減なことを言うと,よく突っ込まれた.酒も強い.ところが,はっきり言って,見つめられると怖い.発言は非常に強気で,まるで自分を見ているようだった.まさに,怖いものを知らないという感覚.しかし,それを感じられたのは,その時には,自分の中で何かが変わってきていたからだと思う.

その男が潰れた店が使いにくくなって,最後は,上野のカラオケに行くようになった.何月だったかは思い出せない.相手は半袖だったと思う.カラオケを出た時はもう外は明るかった.週末に競馬の重賞レースに行くような話をしていたから,皐月賞か天皇賞だったら4月か.ダービーだったら5月.不忍の方から大学に歩いて戻ろうとしていた.

一瞬,何が起きたか分からなかったが,前方でその男と見知らぬ若者の取っ組み合いが始まっていた.血の気の多そうな若者3人に,こちらは大学院生の男3人.いざこざが始まったら簡単には止められない.馬鹿げている気もするが,オープンな場所での喧嘩には暗黙のルールがあり,暴力を振るうのに正々堂々というのもおかしな話だが,卑怯な手段をとれば単なる喧嘩とはみなされず,暴行傷害事件になってしまう,との認識だった.

とっさに思ったのは一緒に居た2人の事だ.例の男,あの礼儀正しさに上下関係を重んじる振る舞いは,いいウチで厳しく育てられたんだろう.もう1人の男はミュージシャンで学部の頃まで長髪だったが,決して反社会的な訳ではなく,責任感は強いし,勉強家で学部時代一緒にランダウ・リフシッツの力学の本の勉強会を開いた仲だった.兄と弟が居て,金もかかるから大学院に進学するのを躊躇したような親思いでもある.この後,彼らが,被害者ならまだしも,加害者として取り上げられたら・・・と想像がたくましくなって,どうしたらいいんだと,パニックに陥りそうになった.

が,その間もなく,自分も殴り掛かられ,最初はよけきれず,くらっと来たが,それでむしろ冷静になり,あとはひたすらよけて,もうやめろと説得.そんなに切れた様子ではなく,話は聞いているように見えたので,あれこれまくしたてて,あちらもパンチがあたらないので冷めたんだろう.こちらの争いはわずかな時間で終わった.どっと疲れたが,すぐに警察を呼ぶよう,同じ方向に帰宅しようとしていた連れの女性に頼んだが躊躇していた.その時は,普通の人間なら警察沙汰に関わるのは御免だと感じるということに思いをやる余裕も無く,彼女らには悪い事をした.

結局,通行人が通報したんだろう.警察官が走ってやってきて争いは終結.例の男は口から血を流していた.もう1人の男は白目に出血.相手側の様子は詳細にはわからなかったが,私が止めた相手も出血していて,それは,あの男が複数人を相手にした事を意味していた.相手は自分達も怪我をした事を訴えていたが,双方が怪我を負って,すれ違いざまに接触したのか,目線があって睨み合いになり口論が始まったのかわからないけれども,どちらかが一方的に手を出したという事もないのだから,両方に責任があると言うことで,お互いに何も求めないでいいでしょうとゴリ押しして,派出所にも連れて行かれずに済み,その場で解散となった.

なんとか切り抜けたと思っていたが,それは大きな間違いだった.歯が折れた程度だと思っていたのが,大学の居室に戻って解散後,男は出血が止まらず,大学病院急患に行くとそのまま入院.あごの骨がまっぷたつに割れていた.週明けの月曜日,1階でも2階で呼び出され,教員から事情聴取を受けた.起きた事はここで述べた事以上でも以下でもないので,そう話すしかないのだが,正直に話したからといって納得してくれるはずもない.自分だってどうしてこうなったのか分からないのに.警察で調書ぐらい取ってもらうべきだったのではと,随分,後を引いた.

なんで市中で殴り合うなんて事態が発生するのか,自分の理解している範囲では,双方がその気にならなければそういうことにはならないので,賢い人間は関わらなければいいんだけども,そういう類いの人間が一定割合存在し,自分もそういう経験があると言う意味で,そのうちの1人だったのだろう.子供の頃にけんかをした経験があれば,殴られても殴っても痛い事を知っているから,好き好んでケンカをする訳ではない思う.しかし,アルコールは判断力を低下させ,体の動きの制御もままならず,人と人との接触を生み,そういう事態に陥ることは,実は,誰にでもあり得るというのが自分の経験則である.むしろ,今の世の中,ナイフを所持している人間なんかが居たりして,状況は全く違っているのかもしれないが.

学生時代,自分も何度か痛い目にあった.小さな傷なら目立たないと思っても,他人はよく見ているもので,アルバイト先で指摘されると,こちらは,いやちょっと,とお茶を濁すしか無いんだけれども,いったいどうしたのと何が起きたか想像すら出来なさそうな人も入れば,察してそういう時もあるよなと自分の経験を語ってくれる人もいたり,反応は様々だったが,しばらくはもや〜とした気持ちで過ごしたような気がする.反省したんだかしてないんだか,大学院生にもなって,また,こういう事態に陥った.

しかし,その事件の時は少し違った.それまでは,自分の連れがそういうことになっても,そんなの自己責任で気が済むまでやらせてやれと思っていたし,自分だって些細なことが重なっただけだとしても場合によってはそういうことにもなり得るからと,理解者だぐらいに勘違いしていた.それは,むしろ,人間関係の稀薄さによるんだろうと,今は思う.東京に出て念願の一人暮らしを始めたんだけども,孤独が嫌になり,薄く広く,様々なコミュニティに属して,日替わりのように,今日はここ,明日はそこ,とさまよって,人と楽しく付き合っていたつもりが,信頼関係が築けてなかったということだ.

40を過ぎても連絡を取って付き合いがあるのは,なぜか,出会いがいつだっかによらず,大学に入った年と大学院に入った年という狭い期間に付き合いがあった人間でほとんど尽きている.自分の中では,人生観というか価値観を変化させていく過程で,深く付き合ってくれた人々だけが残っている気がする.ずかずかと土足で入り込むような物言いの自分から,離れていく友人も少なくなかったが,今残っている人々は心を広く持ってくれていると思う.共通するのは,それぞれのコミュニティだけで通じる話題だけじゃなくて,政治経済の話から,国際情勢,あるいは,あそこのレストランは安くて美味いとか,あの異性とはどうなってる,というような下世話な話まで,お互いに考えが一致していなくても何でも議論出来る関係にあることで,それが信頼関係が築けている状態ではないかと最近は思う.信頼が築ければ,その相手を大切にするし,バカなことはやめろとも言える.そうして,自分のことを大切にしてくれる人が居ることにも気がついて,自分のことも大切にできるようになった気がする.

中学時代に,自分のことをもっと大切にしろと説教してきた先生がいたが,その時は自分のことが大切でないなんてあり得ないだろうと思っただけで,全く心に響いてなかった.しかし,3年の時の担任で生活指導から進路指導まで大きく世話になったという思いはあって,大学に受かって上京する前に会いに行ったら,当時は新聞の地方欄に大学合格者の名前が出ていて大学合格の情報は知っていたらしく,どっちに行くんだと尋ねられた.卒業して恩師に挨拶に来るような男じゃないと思っていたけどという話は余計だったが,喜んでくれて,その場で祝儀を包んでくれたのを覚えている.口うるさいおばちゃんだったが,今思えば,彼女が居なかったら全く違う人生だったと思うと,もう一度,会ってみたい気もする.今は,彼女の言葉の意味が理解出来ているだろうか,今の自分を見て彼女はなんて口にするだろうか.

ともかく,その上野の事件の夜に飲んでいた仲間で,数ヶ月前に,また同じ上野に集まって,酒を交わした.震災後,メールでのやりとりはあったが,実際に集まるのは初めてだったので,近況報告をしつつ,酒が進むと,日銀の金融政策がどうあるべきかなどと激論になったりしたが,結論が収束するわけもない.皆,ホント,変わってない.社会人らしく,家の遠い順に電車で帰っていき,最後,自分は,あれはこの辺だったよなあ,と思いながら,ホテルに歩いて帰った.

話が大きくそれたが,事件後そのグループでの宴会はしばらく禁止になった.当時,自分はM2だったから修士論文のための結果を出さねばならなかったが,この事件と無関係に,研究はうまくいかず結果が出せなくて,結局,事件前に完了していた別の研究テーマの結果をまとめて,修士論文とした.博士課程に進学して,落ち着いたとはとても言えないけれども,学振の研究員に採用され,アルバイトをする必要はなくなった(が一部,助手になるまで続けていた).進学と同時に指導教員が他学部に移動してひとり取り残されてどうしたか,という話もあるが,今回は,そんなのはもういいだろう.

話を少し戻して,入院期間は長かったものの,男は無事に退院.愚痴一つこぼさなかった.修士修了後は企業の研究所に就職.途中,筑波にあった国家プロジェクトに出向し,今は,本社の研究所に戻っているはず.昨年だったか,札幌での学会に参加した際に立ち寄ってくれたり,今でも,定期的に飲んでいる貴重な友人だ.結婚して,家庭を持ち,お互いに歳を取ってこそ発生する悩みを相談し合ったりするようになるとは全く想像しなかったが,そんな話をする時の彼は,優しい眼になっていた.

毎年届く年賀状を見るたびに「あの男がねえ」と思うのだが,話を大きく戻して,このホームページを見て「・・・していたあの男がねえ」と言った教養部時代からの同期も,その年賀状を見る時の私と同じ気持ちで言ってくれたのだと信じたい.

ここに文章を書き出してもう何年になるだろうか.学生向けのメッセージとして,研究室の学生がどのように過ごしているか,自分が大学教員としてどのような仕事をしていて何を考えているか,を伝えられればと綴ってきた.しかし,その実は,北大に移って,正直,ここは大丈夫か,と思う事が多々あって,怒りのはけ口としてきたという面もある.でも,長く居続けると,いい人もたくさん居る事がわかるようになってきたので,そういうことも積極的に盛り込んできた.

配属されてくる学生たちには恵まれていると思う.優秀なのもいれば,それほどでもないのもいる.初期の頃の学生には,本当に,厳しく接したと思う.研究も教育も一定のレベルを保たねばと頑に考えていた.そしてその厳しさにめげず,彼らは期待に応えてくれた.日常は,よく頑張ったなんて,なかなか言えないんで,それを,記録として残す場ともなっていた.

思うに,最初の頃は,上の方ばかり向いていて,力が入りすぎていたんだろう.それまでの居場所と比べて,理不尽なことを平気で押し付ける者,支離滅裂な言い訳に終始する者などの存在が気になって,どうしてこんな人が偉そうにのさばっているんだろうというような怒りをパワーの源としていたふしがある.その一方で,黙っていられず場の雰囲気を乱す自分の存在はいかがなものか,と考えることはなかった.

それが,いつしか,若者に悩み相談を受ける立場になってきて,それにつきあう話を織り交ぜつつ,自分の悩んでいる姿も積極的に公開するようになる.まあ,実質,宴会の席の愚痴を文章化しているようなものだ.泣き言を世界に叫んでどうすると忠告してくれた人もいるし,そういうことは想定していなかったが,この駄文を楽しみにしてくれている人もいるらしい.思いの外,たくさんの人が見てくれているのと,悩める若者に,彼らが何かを考えてくれるきっかけになればと今回もタイプし始めた.

いずれにしろ,説教じみた話に興味はないという人はここでページを閉じた方がいい.

まず,偉そうな事を語っている男も,これから研究室配属を目指すような君たちの年齢の頃はこんな奴だったのだ.聖人君子とはほど遠い,むしろ,バカ者と言えよう.出来事を誇張したつもりもないし,小さくしたつもりもない.その時を共有した人間なら皆が知っている事実だから,隠しようがないけれども,記憶は都合よく修正されているというから,関係者情報を仕入れて間違いがあるのではと思う方は是非知らせて欲しいと思う.いつでも修正に応じるが,もっと他に書くべき事があるだろうというのは勘弁していただきたい.

とにかく,こんな人間でも色々な人に教え諭されながら大学教員として17年ここまでやってきた.今の若者が,周りと比べて自分がどうしようもない人間に思えるとか,ましてや,大人と比べて自分はあんな風にはなれないなんて悲観する必要は全くない.自分も,若い頃にはいろいろと問題を起こしながらも,それを乗り越え,社会適応出来てきていると信じたい.

一番に強調したいのは,人間いつでも変わる事が出来て,それで,人生も変えられる,ということで,既得権益にしがみつきたいという大人はともかく,若者には自分が変われるということを忘れないでいてほしい.変わらなくちゃあ,人生,前に進めないし,楽しくない.もう日本は後進国という名前で呼ぶに相応しい状態になっているのではと言う人が居たが,何も変えずに現状維持しながら生きていける人はどんどん減っていくんだと思う.

そして,自分の立ち位置がどこかはっきりさせる.座標軸はなんでもいいが,自分の属する階層と目指す階層をはっきりさせる.1大学生のコミュニティなんて,家族と友人でほとんど閉じていて,価値観,考え方や行動様式は,非常に狭いものであり,それ以外に自分の知らない多様な世界があることを認識しよう.

喫煙マナーの例を挙げたが,ホント,当時の自分は何も考えてなかった.他人に迷惑をかけるという点で論外だと今は理解出来るが,あの頃はしつこく禁煙と明示されていない場所で吸う事になんのためらいもなかった.今では道端で吸い殻を見つけると昔の痛い自分を思い出して恥ずかしくなるが,それを拾って片付ける程には成長していない.そんなバカ者と一緒にするなと思うかもしれないけれども,多くの若者に,周りから見れば明らかなのに,本人が気がついていない変えるべき事がある.だが,それを指摘してくれる大人は数少ない.

分煙といえば,北大内では指定場所以外は全て禁煙のはず.共用スペースはもちろん,教員・学生の居室もだ.当時の自分なら,何が悪いと自分の部屋で吸っただろう.理不尽な規則に盲従するのはいかがなものかと思うが,この件に関しては喫煙者の分が悪いと思う.指導教員がスモーカーなら,どう思うか本音で話せる場所で尋ねてみるといい.その人の属するコミュニティの常識が垣間見えるだろう.若者は基本的に自分は無知だと考えて,あらゆる常識を疑ってみるのがよい.失敗しても失うものは知れている.絶えず,自分の常識の境界を少しずつ動かしてみることで,変わるチャンスが見つかるはずだ.

金を稼ぐには,大抵の場合,違うコミュニティに属さねばならない.その時に,特別に秀でた能力があるならそれをウリにすればいいが,そんなことで金を稼げる人は稀だ.趣味や好きな事を極めても,金が取れるレベルに達するまでの道のりは遠い.どのように変わっていくのが良いか,方向性を探る事になるが,まずは,理由は何でもポジティブなものにしておく方がいい.

偉くなれそうにないと,民間企業を選ばなかったと書いたが,それまでの経験から事務処理能力の低さ,特に,文章を書くのが遅い,という事を自覚していた事も理由の一つだった.それが今どうかと言えば,確かに,偉くはなっていないが,教育でも研究でもそれを下支えする管理運営業務は,事務処理そのものである.重要なものからくだらないものまで様々だが,何とか委員なんて肩書きをもらって,仕事をしていると,案外,面白い仕事があったりする.しかし,大学での事務処理は,大部分,アウトソーシング出来ると思うので,事務処理に明け暮れて教育・研究をしない教授は必要ないと強く主張したい.

文章書く事だって,こんな散文であれば,すらすらと,いくらでも書ける.自分の場合,他人に実態以上によく見せようという見栄が阻害している気がする.そうわかっていても,仕事の文章を作るのには苦労している.完璧主義はやめて,中途半端な形でも良いから,まずは,一通り内容を揃えて持ってこい,というのは研究室メンバーによく口にする台詞だが,私に書き物を求めている人は同じ事を思っているに違いない.でも,今の所,引き受けた仕事を落とした事は無いと思っている.メールを送っただけで仕事を依頼した気になっているような人とはトラブルになる事が有るが・・・.

結局,仕事が発生して,それを担える人を採用したい時に,応募する側から見れば,自分の一番アピールできる点をウリにしたくなるだろうけども,採用する側は誰にその仕事を任せるのが一番いいかと考えるので,その人がそれを得意と思っているかどうかは重要なファクターではないという気がしてきた.そうなると,自分が不得意な事で選択肢を狭めるような消去法的なやり方は決して得策ではない.その場のメンバーの中での順位は意味が有るかもしれない.でも,それはメンバーによることは分かるだろう.

研究内容の選択でも同様.高校時代に数学の研究がしたいと思ってから,紆余曲折しても,それに近い数理物理という目標をみつけ,固体物理なんてよくわからない近似がオンパレードの学問(もちろん,それは自分の理解の浅さから生じた誤解だが)は絶対やらないと決めたつもりが,今はこうだ.

進路選択でも同様.自分のそのときその時の価値観と能力のマッチングはなかなか取れていないのが普通ではないか.中学時代は手に職が付く高校に入って早く就職して自活するのがいいと思っていたし,高校時代は医者か弁護士になると叫んでいた.大学では会社に入って偉くなることを目指した.その時点の知識と経験をフルに活用して考えたつもりだった.振り返れば視野が狭かったことは明らかだが,今の若者たちの進路選択に悩んでいる様子とそんなに違いは見出せない.自分の属している小さなコミュニティにおける常識の範囲で考えているだけでは,その先に飛び込んだ新たなコミュニティにおける人生がどうなるかなんて分かるはずがない.

今の若者の大きな悩みである就職に関して,自分は企業の正規採用試験を経験していないので,それについては何も言えない.ただ,自分の周り,ここでは具体的な人を頭に浮かべ,年賀状のやり取りのある人と限定すると,転職を経験していないのは1割に満たない.もちろん,中卒から博士まで学歴は様々,年齢は,ほぼ全員,自分より上.大学教員や国研の研究者が半分ぐらいいて彼らは,全員,転職しているので,それらは除き,学歴を大卒以上で定年に達していない人に限定すると,3割ぐらいになるだろうか.大卒の3年離職率が3割とよく言われるが,皆,大卒後20年以上経過しているので,そんなものかなと思う.とにかく,多くの人は転職を経験することになる.

役に立つかどうかはわからんが,ここでは,自分のアカデミックな転職経験をずらずらと書き残しておく.

まず,前半で述べたが,学生時代,近くの研究室の教授に退官までの2年の任期でよければ助手にならないかと,自分の指導教員経由で誘いを受けたことによる.正直なところ,自分の中ではようやく研究者としてやっていける自信がついてきた頃で,特に,その2年の間に建物の改修で研究室の引越を2回することが決まっていたし,雑用を背負い込む任期付の職には魅力が薄かったが,延々と述べてきたように素行の悪さは周知の事実であって自分に声がかかるとは全く考えていなかったので,戸惑った.

後から判明した事だが,私以外に少なくとも1人声をかけられて断っている事例を知っているので,どうしても私をという話でもなかった.本人から聞いたので間違いない.何の偶然か,彼も大学に入ったとき同じクラスの麻雀仲間だった.その彼はいまは私とは比較にならないほど有名な研究者で,東大教授にもなったので,その教授の人を見る目は確かだったということだろう.自分が,何番目の候補だったかは知る由もないが,声を掛けてもらえたのは幸運で採ってくれるという誘いを断るなんてもっと結果を出してから言え,とある先生に肩を押されて決断したのが研究者への第一歩だった.

それを程なく痛感することになる.苦しみ遅れながら学位取得を確定させ,いくつかの職に応募するも,書類選考で落とされ面接すら受けさせてもらえない.関東の私立大や地方の国立大など,伝をたどって情報が取れて,出来レースでなく可能性がゼロではなさそうな所を選んだつもりで,公正な競争なのは良かったが,こっそり結果を聞くとそんな人と争って勝てるはずがない,というものだった.現実を思い知らされ,落ち込んだ.契約上は公務員なんだからクビにはなりませんよねえと相談しても,誰もそうだと言えるはずもなく,欠員が出ても講義演習の担当配置に困るから半年ぐらいなら居てもらっても良いかも,という話を聞いて,やはり,ここには居てはいけないんだと悟った.この世の中,口約束でも重い意味を持つのだと思い知らされた.

これが日本流のコミュニティの守り方だと,今は理解している.教員が辞める時は研究グループを閉じて,雇用した職員も同時に辞めさせる,というやり方は厳しいようだけれども,そこで雇用を守ることで誰もハッピーにならないことを今では理解できる.この規範が守られるような組織は,概して,研究機関としては一流であるが,実は,このやり方を維持出来る組織は非常に少ない.孤立し,自己の権利は主張するが,給料に見合った仕事をしていないと周囲に思われている人が大学には一定数存在する.大学には多種多様な仕事があるんで,うまく仕事を割り当てれば,かなりの部分は解消出来ると思うのだが,そういうことを断行出来る実行力のある大学人はほとんどいない.大学の経営は外部から人を入れた方がうまく回ると思う.

昔の大学人事は,コミュニティの中で適当な人を見つけてきて,これといった身辺調査もせず,口約束で規律を保つという採用のやり方だったのだと想像する.それが維持出来なくなってきて,基本的にどんな人でも信頼するベースで向き合うが,コミュニティに入れる時には契約で雁字搦めに,という西洋的な採用形態に移行しているが,これはこれで,個人個人の結びつきが弱くなり,強力なリーダーシップが取れる小集団が組織的に人を集めなければ,コミュニティとしての力は弱まっていくだけである.

自分には国家に忠誠を尽くすとの契約書に署名したことに伴う権利を盾に居座る勇気はなかったが,立て続けの公募落選でへこんでいたところで,研究室の教授が公募の話を持ってきた.こちらは公開情報は常にチェックしているから周知のものだったが,それに出せという.その助手を探している先生は教授に,私の先輩にあたる方が今どうしているのかと話しかけてきたらしく,その方はもう別の大学に移っていたので,その代わりに求職中の私に応募させますと返答されたとのこと.

そのように話が回ってきたのは,事情があり,応募者が少ないと見込まれてたいたことによるらしい.しかし,面識もなく,研究分野も近いようで遠かったというか,アプローチが全く違っていたし,一番中心と思われた強磁場中の電子系の研究で自分が貢献出来ることはなさそうに思えたので,選択肢に入っていなかった.周りに相談したら,無理に移る必要は無いのではという方も複数いて,より心配になった.

最終的には,教授に相談し,どんな先生ですか?と率直に尋ねると,少し考え込んで,海外で一番名の知れた物性研究者だ,という趣旨の回答だった.今思うと恥ずかしい限りだが,物性理論を専門としながら私がそんなことも知らない事を察知して,諭してくれたんだと思う.その教授も助教授の頃に在籍した研究所で,講義の義務がなく研究三昧で,応募者が少なく倍率が低そうだというならチャンスなんだから,少しぐらい分野が違うと思っても飛び込んでいけばいいと.それで,改めて推薦書をお願いするバリアも下がったので,応募すると,面接してもらえることになった.

インタビューでは自信を持っていた結果を説明すると,その先生はほとんど司会に徹していて質問はほとんどなかったのに対し,他の先生方にさんざん突っ込まれ,オリジナリティが自分にないことを指摘された上に,私の直前の講演者は動画のシミュレーション結果を派手に見せたらしく,自信を失って研究室に戻った.それで気落ちした様子を気の毒に思ったのか,なんと,教授が当日その先生に電話で結果がどうだったのか確認してくれた.通知が来るまでの悶々とする日々をスキップ出来るだけで十分だったが,採用できるだろうとの内諾を得た.教授に後光が射して見えたのは印象に残っているが,その後のことはよく覚えていない.

助手として横滑りだったが,任期は5年.こちらも(当時はであって今は違うが)紳士協定で,必ずしも,厳密に守られてはいなかったが,理論の助手は任期を越えそうになると最後は海外に出て戻ってくる時には辞めるというコミュニティルールがおおむね通用していた.六本木から柏へとキャンパスの引越があったり,大きな国際会議のプログラム委員長の秘書係となったりで,研究所は研究に専念出来るという話には騙されたと思ったものの,研究テーマは自由に選ばせてくれて,研究室王道の量子ホール効果ではなく,カーボンナノチューブ・グラフェンを研究できたのは,今思えば,幸運だった.

紳士協定とは言え,ここでもコミュニティのルールは守ろうと,4年目の秋に,公募に応募し始めようと相談に行ったとき,先生の口にした言葉に耳を疑った.自分は次年度から大学を移る・・・.そして,君はどうする?とおっしゃった.とても,即答出来ず.それで,いくつかの公募書類を出した.しかし,書類選考で全敗.ある教授に,5年任期の間はそこに1人残るのは許されるか?と尋ねるも,それで誰も幸せにならない,というのはその教授の言葉だ.年が明け1月になると4月からの異動に手続きが間に合わないからと決断を迫られ,一緒に異動することに.またもや,研究室の引越.前期の講義は免除してくれるという話だったのに,それは教授だけだと,しっかり,4月から物理演習を担当させられた.しかし,今思えば,何ヶ月もついていくのか行かないのか,あやふやな状態で,何も言わず放置してくれた,というか,こちらが黙っていたのは・・・強気すぎる.今の自分が,相談されたら,もっと早く決断しろと言うと思う.愛想を尽かして,他の人を探しに行かれても文句は言えなかった.

新たに任期は5年と言われたが,もはや.そんなことはどうでもよかった.助手を3つの研究機関で務め,研究室の引越を4回した人間はそうはいないだろう.六本木に通勤していた時は碑文谷に住んでいたのが,柏に引越し,また同じ目黒区の大岡山に通うことになるなら,引っ越さなければ良かったと思ったが,そんなことが予期出来るはずもない.ここで,自宅を引っ越してしまったら,落ち着いてしまうかもしれないと危惧して,片道2時間近くの電車通勤を選択した.

それでも公募情報のチェックは欠かさなかったが,急激な生活の変化もあって,ちょっと休みたかった.あまり気乗りのしなかった海外行きも選択肢に考え始めた時,気になる公募が2つ出た.一つは,今の北大のポジションである.もう一つは,関西に行っていた私が昔世話になった方が東京に戻ってきで研究室を立ち上げるということで,任期のない研究員を募集するというもの.どちらの先生も面識があったということだが,それはこれまでだって無かった訳ではないので,やはり,それぞれご本人の話を聞いてから考えることにした.

まず,北大の先生にはスコットランドで開かれた国際会議でお会いした.決まった人が居る訳ではない純粋な公募であることはわかったものの,基本的に中立的な対応だった.セミナーで何度かお話をきいた程度で,特に個人的な交流は無かったので,期待はしていなかった.もう一方の先生には,その後,同じ夏に広島で行われた国際会議でお会いしたんで話を聞くと,ほとんど同じ対応だった.正直,こちらの方はお互いに見知った関係だと,少なくともこちらの方は,考えていたんで,もう少し,積極的なことを言ってくれるんではないかと期待したが甘かった.どちらも,一般公募なんだから出来るだけいい人を採用しようとするのは当然だ.よく知っているからという理由で採用するなら公募の必要は無い.採用する立場を経験してみるとよくわかる.

そうなれば,こちらも通常の手続きに従う他無く,北海道には足を踏み入れたこともなかったので,後者の公募に出すつもりだった.ところが,その同じ広島の会議でボスが,その北大の公募の存在を,それに応募することを報告に来た人から知ったらしく,私に,これに出さなくてどれに出すのよ?という調子で強く勧められた.研究以外の事でこれほど断定的にものを言われたことはなかったので驚いた.2つの公募期間がずれていて,北大の方の締切が迫っていて,推薦書を2通出すのはタブーだが,意見出来る人の連絡先を伝えるだけで良かったので,そういう運びになった.

書類選考を通過し,インタビューに出向いたのが初めての札幌入りだった.ナノチューブ・グラフェンの電気伝導の話をしたはずで,特に反応がないのはGeimさんの話が出る前で慣れっこだったが,厳しいかなと感じた.これでダメでも,もう一方があるからと楽観的だったが,その応募締切前に内諾をいただき,それで今がある.後にもう一方の先生に報告すると,応募されなかったのは意外でした,と返信があり,その時は今更そんなこと言わないでよと感じたものの,それはリップサービスだったのだろう.

北大に移ってもう10年目,これまでの事はここの文章を見れば様子は分かるだろうから省略する.次の職が見つかれば,それまでの経過をいつかまた書き記す事はあるかもしれない.

自分の職探しの経過から何か教訓めいたことを引き出せるのかどうかはわからない.人によって感じ方は様々だろう.学校については,大学院に入るまでは,色々な意見は参考にしたが,最終的には自分で選択が出来た.しかし,就職は違う.ある時点で,最初に自分が良いと思った選択肢はことごとくダメだめだったし,どちらか良い方を選べるなんて状況には一度もならなかった.

敢えて言える事が有るとすれば,企業の転職における中途採用でも同じだと思うのだが,一番良いと思われる候補者1人だけが採用されるということだろうか.書いてしまうと当然の事だが,それでも,求められる要件を見て,これは自分に最適だと思っても,それ以上の競合相手が居れば負けるし,自分としては不得意だと思うことでも,それ以上の競合相手がいなければ採用だ.就職の話の前に述べた事と同じで,自己評価と周囲の評価には違いがあって,それを把握することで,可能性は広がるし,無駄な労力も減らせる.

ガチンコ対決で勝てる能力がある人はそれでいいが,1人しか勝者が居ない勝負の世界は厳しい.しかし,参加者が少ない勝負もある.最初の職は,何で自分に声がかかったのか疑心悪鬼になったけれども,周囲を見渡して良さそうな候補を順にあたったのだろう.きちんとした企業の技術者中途採用ではこのようなケースが一般的だと聞く.特定の分野の仕事内容なら,そのコミュニティに属する人材リストからまず探すのが妥当だ.残念ながら単なる学生にそのチャンスはない.まずはそのリストに載るために,その分野で仕事ができる会社に入るか,自分で起業するしか無いだろう.そして,そのリストの上位に掲載されるように着々と仕事をして名前を売っていく他無い.

次の職は,少し分野の違うところへの転職だった.ただ,それは自分の思い込みで,狭い意味で見た分野における人材リストでは下のほうにしか掲載されておらず,そこでは声もかからないし,応募しても箸にも棒にもかからない状態だったのだ.つまり,その分野では見込みが無いので,より広く職を探すべきだったと言える.むしろ,物性理論という意味では同じカテゴリーと考えて,チャレンジすべきだったのである.これは,ポジティブに捉えれば,ある分野では順位が下の方でも,他の分野では声がかかることもあると言えよう.当時の自分を知っている人ならわかるとおもうが,あの頃までは,物理で分からない事なんて無いぐらいの態度だったと思う.そう強気で居られた事で,量子ホール系の仕事は出来るとは思えません,なんて言えなくて,かえって良かったのかもしれない.

ところが,その鼻っ柱はあっという間にへし折られることになる.新しいボスはなかなか自分の説明に納得してくれなくて,わからない,という言葉を頻繁に発せられる.これには,参ったが,そのうちに出てくる彼の説明は極めて明快.何が悪かったのかは明らかで,理論研究ではある現象の物理的背景がよくわかっていなくても,適当な仮定を置いてそれを出発点として表層の式変形を追えば,結果が出てくる場合が少なくない.自分はそんなやり方をしてきて,表層的な知識は広く持っていたが,物理の理解は極めて浅かったということだ.

それで,まずは固体物理の勉強を一からやりなおすことなる.先生はそれを察せられたのか,ハリソンの電子状態の本を薦められて,あれは,真面目に勉強した.おかげで,それまで否定的な印象さえ持っていた第一原理電子状態計算の意義とその面白さも理解できたし,それよりも,自分がよくわかっている内容だけで議論が出来る事の楽しさを覚えたのが大きかった.それ以来,自分が「わからない」と連発するようになったのは彼の影響だ.分からない状態をベースにする方が楽に決まっている.ただ,それはただでさえ,遅筆の自分の論文執筆を,あれもこれも,わかるまでとよりいっそう遅らせる事になり,ボスを随分心配させた.実際,助教授の職を得るには業績が足らなかった.それでも,グラフェンの弱局在と反局在で特別な時間反転対称性が鍵になる事を発見できたのは,弱局在補正項の計算を終えてそれを単に発表するのでなく,その物理的意味を理解出来るまではと,じっくり考え続けられたからだと思っている.

そんな調子だったから,急に公募を出しても簡単に通るはずが無い.北大に応募すべしというアドバイスがなければ今の自分はなかったという観点から言えるのは,周囲の頼れる人の意見は素直に聞くもんだということか.前職でも,2人のボスのコミュニケーションがあったから応募した訳だし.自分の事が分かっていなかっただけ,と言われればその通りとしか答えようがないが,周りから見れば,それが明らかな事もあるということだろう.

北海道だから出すのを躊躇したというのは,ある程度,普遍性のある問題かもしれない.実際,コネもなく,旅行すらした事がないし,寒さに耐えられず住めそうもない,と思い込んでいる場所に転職しようと考えるのは,かなり,勇気の要る事だ.さらに,インタビューで,ある先生に,家族の了解は得てますかと尋ねられ,住み続けられなくて数年で帰っちゃう人が居るんですと釘を刺された.関係あるかどうかは不明だが,北大に私より後に着任したのに,職の横滑りで,本州の大学に移ってしまった人も確かに居た.

これは,着任してみれば,杞憂だった.札幌について言えば,本当に都会で便利だ,これほど大きな駅から徒歩圏内に大学と住居が有る環境は他にないだろう.生活費も安いし,飲み代も安く,これはうれしい,寒さについては,これは,室内に居る限り,東京よりずっと暖かい.雪も慣れてしまえばそれほど.ただし,凍結と雪解けによる悪路にはいまだ慣れない.どこに行くにも飛行機に乗る必要が有るが,東京までは前もって決めておけば,東京大阪間の新幹線よりは安く行ける.そう思えば,暮らすには悪くない所だ.住めば都というところか.実は,自分の場合,同じ職場によく知った方がいたことで,安心できたという経緯が有る.そういう伝がなければ,敬遠したかもしれない.

あちこち脱線しながら延々と続いた話も,そろそろ,終わりにしたい.

最近,就職活動がうまくいかない,会社で上司とうまくいかない,など若者達の悩みを聞く事が増えてきた.ある人は,学生時代から付き合っている遠距離恋愛の彼女がいながら卒業して3年,何もアクションがない.どうして結婚しないの?と聞くと,いつもは別の理由でごまかしていたのが,そのときは,給料が手取りでこれこれで,ボーナスも少なくて,こんなんで部屋を借りて,2人で生活出来ると思いますか?と返され,そうだねと言うしかなかった.

そんなんで,今回は,人間,考え方を変えれば,いろんな生き方が有って,結構,ハッピーに生きられるという話にしようと考えていた.実際,社会には雑多なコミュニティが有って,年収という座標軸を取ってしまえば,階層を下りる事になるのかもしれないが,そういう人生の選択だってあっていいと思う.自分の知る範囲はそれほど広いものでないかもしれないけれども,色々な収入の階層それぞれの中の様々なコミュニティに属している人を全て同列に比較した時に,自分がハッピーだと思っているかどうか,ということと,その人がどの階層あるいはコミュニティに属しているか,の間には相関がほとんどないように思える.

格差社会という言葉が流行したけれども,上を見ればきりがないが,極端な上昇志向を捨てれば,日本国内の格差なんて知れている.大卒3年離職率が3割という話をしたが,高卒5割,中卒7割と言われている.じゃあ,高卒・中卒の人々がそれほど不幸な生活を送っているかというと,そんなことはない.タクシー運転手を経て個人運送屋となった人の話をしたが,今時の言葉で言えば,起業したということで,そんなの,大企業の系列から外れた人の多くは昔からそういう道を選んでいた.

過度に頑張らなくても生きていく道は見つけられるものだし,どうしてもダメなら社会福祉に頼ればいい.結果の平等でなく,機会の平等を主張して,福祉を削ればいいと唱える人が居る.その主張には同意するが,憲法25条で保障される生存権は全国民が持つ権利であって,その内容がどの程度であるかの議論はあっていいが,それが守られなければ国家なんて必要ないと私は思う.競争は必要で,それが成長の原動力になるのだけれども,そこからこぼれ落ちたものを救うシステムがなければ,誰もが競争を避け,変化を拒み,現状を維持しようとして,その総体として,日本は沈んでいくだけだと思う.

ゴールデンウイークに新宿の紀伊国屋で洋書のバーゲンをやっていて,Sandel の What money can't buy という本を入手したので,これが良いネタになるかと思ったこともあった.しかし,読み進めると,哲学者だけあって,市場経済のモラルを問うもので,ちょっと,外れてると思ったら,副題に The moral limits of markets とちゃんと入っていた.これは使えないと思ったのと,その時に再会した昔の友人2人が充実した生活を送っている様子だったことを思い出し,彼らが苦難を乗り越えて,ここまで来た事を取り入れて,頑張れば報われる時が来るという意味でのポジティブな話にしようと気持ちを切り替えた.

ポジティブというのは,自分の一番の長所だと思っていて,少なくとも,大学を卒業してからは何事も楽観的で,後悔する事があまりない.そして,最近,複数の人に指摘されて,そうかもしれないと今更ながら認識したのは,自分はKYであるということ.実は,ポジティブに考え,空気を読まないで,人に認められるよう努力する事こそが,自分が若者達にすべきアドバイスなのかもしれない.そうすると,周りと頻繁に軋轢を生むが,自分に対する評価に応じて,相手は対応してくれるので,努力して何らかのポイントで認められれば,こうしなさいと適切なアドバイスがもらえるし,相手に興味を持たれなくても,バカだと思われて排除されるだけで,失うものはないだろう.

生き辛さの原因の多くは,些細な違いに対する,差別と偏見に繋がっていると私は思う.自分の価値観を見直して,まず内側にあるそれを捨て去ることで,人は大きく変われる.その結果,外からの扱われ方も変わって,より広いコミュニティで受け入れられるようになると思う.それなりの努力が必要だが,何人にもその人に相応しいコミュニティがどこかに存在すると私は言いたい.何歳からでも,遅くはない.誰にでも未来は平等にやってくる.ポジティブに生きよう.


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