鈴浦の個人的経験と思考を綴るブロク.更新は年に数回.助手時代と比べて学生との距離感を感じて,それを縮められれればと,学生に直接は言葉にできなかったことを告白してみたり,研究室配属を控えた学生に,私の研究グループに関する情報を与えられればと書き始めた.
最近は,距離が近づいたかどうかはわからないけれども,私がどのように指導するかは学生たちによく知れ渡っているように思え,目的は達せられた気がする.
それでも,学生と接する中で,驚かされることがあったり,こちらが学ぶことも少なくない日常に変わりはなく,これからも自分の考え方が移り変わっていくだろうから,気になることがあれば綴っていこうと思う(20160529).
卒業式シーズン.大阪で物理学会に出席し,その後,東京に立ち寄り,娘の卒業式に出席する.入学式がつい最近のようにも思えるが,この3年間の出来事が走馬灯のように浮かんできて,同じく出席していたあるお父さんが感慨深い一日だったと言っていたと友人が知らせてくれたが,まさにその通りだった.激ヤセと心配されたそのお嬢さんも,実際見ると思っていたよりふっくらしていて,むしろ,父は白髪が増え,母は痩せた印象で,苦労が多いんだろうと察するしかない.親子で家路につこうと校内を歩いていると,そのお嬢さんを含む友人3人と遭遇し,我が娘とおめでとうと言い合う様子が微笑ましかった.
そして,翌日は北大で卒業式.皆さん,きちんとした身なりで,卒業おめでとうと声をかけると嬉しそうな笑顔を見せる.挨拶に来てくれる学生も居るし,夜には大宴会で,これまで話す機会のなかった学生からいろいろな話が聞けて大変ためになった.その時代に戻ってやり直したいとまでは思わないが,若さはかけがえのないものであり,羨ましいと感じた.もう,そういう歳なんだな.
自分の卒業式は,あまり,いい思い出はない.小学校の時は,ほぼ普段着で出席したら,現代ほどではないが,皆が正装していて,正直,辛かった.一度しか着ないものを買ってももったいないと納得していたが,単に,貧乏なだけだ.そこが人生危うい道をたどるきっかけだったような気がする.最近,注目されつつある子供の貧困は,人生の選択肢を狭めるだけでなく,ほんの些細な違いが,心を傷つけることになるんで気にはなっているが,何をしたらいいのかわからない.幼い時の家庭事情がトラウマになり悩んでいるオトナは少なくない.自分が飲んだくれているのは幼少時の心の傷が原因だと助言をくれた人が居たが,それは,単なる酒好きなだけだと思う.
中学の時は,短期間だったが受験勉強に集中し,高校合格したから単純に嬉しかったが,担任のおばちゃんが,もっと上を目指せと発破をかけてくれたのが印象に残っていて,彼女の言葉が大学受験に少なくない影響を及ぼした.私立高校に行くことはあり得なかったから,合格できると確信できるところを選んだことを気にしてくれていたんだろう.教育困難校というか,そういう地域で,おそらく,大学進学率は数%.進学校に入るのは珍しかったのが幸いし,当時,相対評価だった成績は,3と4が目立っていたのが,受験の時は,ほとんど5になっていた.当時は,気を入れ替えて真面目になったからと思っていたが,今は,合格しやすいように配慮してくれたんだとわかる.
入試の成績が,2番だったのだと思う.1番の女性は,入学式で新入生代表として挨拶し,自分は始業式の在校生との対面で代表として何か話したはずだが,内容はさっぱり覚えていない.娘の卒業式での答辞や送辞を聞いていると,あまりに,立派な内容に驚き,それで,自分のことを思い出した.何かの代表になるなんて,あれが,人生最初で最後に違いない.1番の女性は名古屋大学に進学したが,彼女も同じ区の学校を出ており,学力の低さはウチと変わらないはずである.おそらく試験は満点で,実力かも知れないが,内申書の点数がいわゆるオール5に違いなく,それの意味するところに複雑な思いを抱えたことが,高校時代があまりハッピーに思えなくなる原因のひとつだ.
当時,学生名簿には住所や自宅の電話番号に保護者の名前とその職業まで記載されていた.会社員とか自営業とか適当なことを書く知恵もなく,無職としたら,自分だけである.当然か.様々なギャップに悩まされるも,気の置けない友人も見つかり,頼れる先生も居て,傍目から見れば,無難な高校生活を送り無事卒業.左翼系の教員が多く,国歌斉唱も国旗掲揚もない,あっさりした,卒業式だった.4月からどうなるかもわからず,不安な状態になりそうなところを,合格発表前なのに予備校から届いていた,授業料免除の案内が気休めになった.
大学卒業の時は,大学院に進学するし,卒業するという意識が希薄で,卒業式に出るという発想がなかった.確か,駒場で物理学会が開催されていて,それを聞きに行ったはず.誰が作っているのか知らないが,卒業アルバムの写真撮影にも行かなかった.写真がないのは,私と卒論ペアだった男と2人だけだったことが,後に,友人がアルバムを見せてくれて判明した.しかし,驚くことに,入学式の写真が多数掲載されていて,しっかり,伯父と並んで写っている写真があるのを見て,恐るべしと思った.札幌に来てからのことなので,あまりの若さと細身さに,自分にもこんな時代があったのだと衝撃を覚え,デジカメで写真を取ったはずで,ここにアップしようと思うも,探すのは面倒なので,見つかったら更新しよう.
修士の時は,改装された安田講堂で式を行うということで,KENZOのダブルのスーツで出席した.振り返ると,よくあんな派手な格好が出来たと思うが,それも若さのなせる技か.今の時代なら,あんな格好をしてるのはホストぐらいだろう.体型がさらに一回り大きくなり,着られなくなって捨てた.総長が誰だったか記憶に無いものの,一緒に出席した人々の多くは,今でも飲み友達であることもあってか,印象深い式であった.博士は中退したんで,それが最後の卒業式.論文博士の学位記にあったのは蓮見総長であったことはよく覚えている.
昨日の卒業式当日,生協で買い物して,居室に戻る途中,玄関ホールで珍しく子供が居るなあと思っていたら,その父親と思しき人から名前を呼ばれ,振り返ると,自分が4年生のときに配属されていた,今は総長になってしまった,先生の研究室の後輩だった.会社勤めも長いんで,リクルーターかと思いきや,社会人ドクターで北大で学位を取り,学位記を貰いに来たという.関係の深い人が情報の教授らしいということだが,何という偶然だろうか.
昨日の大宴会で,卒業生に紛れ,私ともう1人教員が参加していて,席が隣になった.結婚するという話を聞いて驚いたら,つい先日の飲み会で話しましたと言われ,自分の脳細胞の壊れぶりが明白に.最近,高確率で,2次会で眠り込んでいて,周りの人々に迷惑をかけているんだろうけど,その安心感は,自分としてはこの上のない幸福である.付き合ってくれる人がいるうちが華だな.結婚相手が,夏の大通りビアガーデンで見かけた人なのかが気になったが,きっとそうで前回それを確認したに違いなく,深入りしなかったつもりだけども,その後は覚えていないので,また聞いてみよう.4月から栄転も決まり,こちらとしては彼の担当していた重要な仕事の後任が見つからずダメージが大きいのだが,夫婦で新生活を始めるにはいいチャンスだから,ハッピーになってほしい.
挨拶に来た学生が読んでますというので更新してみた.皆さん,卒業おめでとうございます.今後のさらなる活躍を期待しています.近くに来たら,是非,顔を出してください.飲もう.
20170312
卒論・修論を無事に終え,一週間ぐらい打ち上げ期間を楽しんだが,新学期に向けやることが山積みであり,後期入試の行われている休日の大学に来た.いつもの日曜と変わらず,静かである.締め切りをひと月以上過ぎたシラバスの入力がようやく終わったので,講義ノートを作り始めようとするも,なかなか,力が出ない.
最近,立て続けに,自分の素朴なギモンで,周囲の人々を面倒なことに巻き込んでしまう事案が発生し,自分の中でどのように昇華したらいいのか,まだ,わからないんだけども,休みのせいか仕事が手につかず,けだるい状況の中での現実逃避として,記録に残しておく.
ひとつは,学内の学科運営に関するある委員会で,委員長として様々な改革に取り組む中で起こった.効率的な運営を目指すために,ベテランに負担をお願いする痛みを伴う改革を提案する中で,一人の委員が極めてシンプルな質問を投げかけた.
まっとうな内容だったので,委員長として事情を説明しつつ,どうしてそういうことになるのか説明してください,と担当者に回答を求めたのをきっかけに,非常に長く,正直な感想として,不毛な議論が続いた.あることの正当性を示すために,それを真正面から説明するのではなく,より上位の会議で決まったことだから,という論法で返してきて,いや決まってないでしょうと疑問を呈すると,また別の数字を出してきてこう決まっている,と来るもんだから,あとは,同じことの繰り返しである.ロジックのない人の出す数字なんてそんなもんだ.
その質問の矢面に立ち回答する羽目に陥った方とは何度も話をして,初めに受けた,こうしますという説明はもっともなものだったので,すぐに解決すると思いきや,そうは行かなかった.関与するメンバーそれぞれの意見があり,統一が難しかったということは理解は出来るけれども,途中の回答からは,そこで何が議論されたのか全くわからない.
最初の質問者は何であんな質問をするんだとか,それに対する私の返信が火に油を注いだとか,言われているらしいが,それこそ,どうしてそんなことを言われるのか,こちらには理解不能である.結局は,その最初に受けた説明通りの話が,委員会でなされ,それを前提とした委員長提案も承認されて,問題は無いんだけども,後味はよろしくない.
もうひとつは,共同研究の話.私は全く縁のなかった分野に,昔世話になった先生が関わっていて,協力してくれないかと打診が有り,手助けすることになった.究極的には,構成要素が特定されていて,大局的に何が起きているかも明確だったことから,微視的にモデルを構成し,計算すれば,結果は出てくる.
非線形性を持つ時間発展なので,非自明な結果を得るのは難しくないが,実験結果と比較しようとすると,もう少し,情報を特定する必要がある.その中で,少なくとも今考えている状況設定ではそうはなりえないと思われるデータの特徴があり,その点について何度か疑問を呈して,議論を続けた.
こちらが,計算結果を出して,この仮定ではそうはならないでしょ,とすれば説得力があったのかもしれない.しかし,こちらにはそれは自明なことに思えて,どうしてそうなるのか実験の先生に聞いて貰ったところ,きちんとした回答は返ってこず,その結果,しばらく前に,その研究は棚上げしましょうということになった.
つい先日,ある飲み会で真相が語られ,実は,実験データを取られた先生がご立腹で,そんなことを気にする人とは共同研究はできません,と言われたとのこと.NatureとかScienceの関連誌にバンバン掲載されている研究で,革新的な結果なのだとは理解していて,何かに不備があるというつもりは無かったので,少々,驚いている.結果として,間に立ってくれた先生には,大変,迷惑をかけてしまい,申し訳なかったと謝罪した.
どちらの事例も,素朴な疑問を投げかけてそれがクリアになれば進歩があるのではと感じたことに端を発しているが,どちらも,周囲に迷惑をかけただけで,結果として,私が口を出す前の状況と何も変わっていない.
個人的には意見はあるのだが,個別な事象については,生々しいので,説明は控える.ただ,これらの件は,私の社会性の欠如を表す典型例とも考えられる.まともなオトナは心にしまっておける小さな疑問を,口に出さずにはいられないという問題だ.
私と付き合う際に注意すべき点であり,学生諸君はそう理解しておいたほうが良い.ある先生に,問題があるとなると弱者でも徹底的に追い詰めますよね,と指摘され,そうですねとしか答えようが無かった.要するに,自分がオトナになれていないということか.
思い出すと,モヤッとした気分になるが,今晩は,北海道で知り合った友人宅でワインを飲む会である.美味しい料理とワインで,いい気分に浸り,明日を迎えたい.
20170128
昨年の夏に大通りビアガーデンに行く前にこのページを更新してから早半年.色々あった.
大量にアルコールを摂取している者として,いい医者がいるからと言われて,渋々ではあったが,内視鏡検査を受けることにした.毎年,人間ドックで胃カメラは飲んでいて,胃や十二指腸に潰瘍の跡がありますねと言われ続けていることもあったし,何年か前に,若い頃世話になった,4月からとある大学の副学長になる方が,大きな腫瘍を取る手術をされて,大腸は定期的に調べたほうがいいと力説された.その時,同席していた,今は東京の大学の総長をされている人も,関西の大学で副学長をされている人も,定期的に検査しているという話.彼らは私以上の大量飲酒者であるが,きちんとしたオトナは体調管理も万全なんだと実感した.それも思い出して,いい経験かと,調べてみたら,大当たり.
大腸は腫瘍だらけで,何回かに分けて,取りまくり.最初の施術で切り取った2センチ大の腫瘍のうち幾つかから,病理診断でよろしくないものが見つかって,これならがん保険認められますが入ってますか?と問われるも,普通の生命保険すら加入していない自分としては,全く嬉しくない診断である.いざという時の備えがあれば,保険はいらないですよねという慰めも虚しく,食道にも扁平な腫瘍が見つかり,やはり,病理でよろしくない診断を受け,この半年で,入院2回,日帰り1回で,上から下からあわせて,7回内視鏡を入れて,30個以上の腫瘍を取る羽目に陥った.
小さな隆起は簡単に切り取ることができるのだが,2センチ程度の大きなものや,扁平なものはそれなりに面倒らしい,一見するとなんともない消化管内皮が,染色すると,あやしいパターンが浮き出て,いかにも危ない形に見えてくる.実際には,施術中は意識がなく,あとで見せられるのだが,あそこまで詳しく解説されると,任せるしかないという気になる.
腫瘍切除後,大きな傷ができると,縫ったり,クリップのようなもので留めたりして,出血を食い止める.術後しばらくは止血剤を飲み続け,飲酒すると高い確率で出血しますよと脅されると,さすがに,我慢するしかない.施術のたびに,一定期間禁酒することになった.ノンアルコールビールも思ったよりイケてるじゃん,と飲み続けると,あっという間に体が冷え切り,アルコールの威力を思い知ることになった.
ピロリ菌感染も発覚したのだが,その除菌にも難航している.それもあって,錠剤と粉薬で,一日にのべ30種類近くのクスリを服用することになり,父が生前,クスリだけで腹一杯になると言っていた冗談のような話を,この歳で自分が経験することになるとは全く想像していなかった.それでも,慢性の胃腸炎がすっかり解消し,より酒を旨く飲めるようになったのは,良かったのか悪かったのか.
そう言えば,肺に大きなリンパ腫があり,特定疾患だと目をつけられ,眼球にも異変アリ,高カルシウム血症で,腫瘍の出来やすい体質だということを思い出した.年を取って,心機能に問題が出たら注意すべしと忠告を受けたから,そういうことも考えねばいかんのか.
とある学生が,先生がツイッター監視しているというのは本当ですか?と直接尋ねてくる事案が発生し,どういう意図か測りかねたが,その本人のアカウントを把握していたので,それがわかるような反応をしておいた.
学生の実態が垣間見えて,面白いと思うが,やはり,危うい発言も散見される.少し前の記事で,内容の信憑性は分からないが,これぐらいのことは充分あり得ると思うので,リンクを張っておく.
同時期に研究室で過ごした卒業生3人が,たまたま,関東に就職し,不定期に,年に何回か集まって飲んでいた.そのうちの一人が,大手銀行関連会社から奥さんの実家近くの地方銀行に転職したことで,その飲み会は3人で集まっていたのだが,昨年の春だったか夏だったかに連絡があり,久しぶりに,集まりましょうということになった.
ところが,こちらは腫瘍騒ぎで内視鏡手術を繰り返し,大手通信会社勤務の男が関西に転勤となり,それをきっかけに,付き合いの長い女性との結婚を決めたりと,慌ただしく,月日は過ぎ去る.
何となく,これではイカンと,スケジュール調整を試みるも,もう1人の千葉にある半導体メーカーに勤める男がなかなか返事をよこさず,ダメかとおもったが,何とか箱根に温泉宿を確保して,集まることになった.
このメンツで何をするかなんて話し合う必要もなく,新宿発のロマンスカーから3人で会はスタート.関西からやって来る男は小田原経由湯本で合流し,強羅の駅前で,必要物資を現地調達して,あとは宴会と温泉を楽しむのみ.自分が指導した最初の修士だった2人が就職して9年目とは,長い付き合いになったものだ.
毎度のごとく,こちらは途中で眠りに落ち,目覚めて回復をみせ,買い込んだものを全て消費し,再び目覚めた時は,3人はキチンと布団で眠り,こちらはテーブルの前で倒れ込んでいた.全く進歩がないどころか,もう退行が始まっている気がする.しかし,めげずに,部屋に付いていた露天風呂にお湯を張り,温泉に浸かりながらの夜明けは最高だった.
大涌谷ぐらい行くかと,ケーブルカーにロープウェイに乗車.この前いつ来たのか思い出せないが,様変わりしていた.噴火の影響はまだ残っており,煙が噴出する近くまで行ける登山道は閉鎖.ほんの短い滞在だったけれども,富士の眺めは素晴らしかった.
帰りは品川に向かうため,新宿に戻る2人とは湯本で別れ,その日は,アルコール抜きとなる.社会人としての振る舞いを身に着けた彼らが眩しいぐらいだが,これにめげず,また付き合ってもらいたい.出来ることなら,連泊してもっとダラダラしていたかった.
年末は休暇を3日つけて,家族でクリスマス旅行の予定が,大寒波で,2日続けてフライトが飛ばず,陸路も大混乱でエライ目にあった.家族には私抜きで行ってもらって,休暇返上.
クリスマスイブに独りクリスマス会と泡を開栓しようとした時,ふと,一人暮らしの学生はどうしてるんだろうと,もし予定がなければ飲みに行きませんかと誘うと即OKの返信.もう一人誘うと,こちらも悪天候の影響で予定がキャンセルとなり,合流しますと返信があり,大学に集合.札駅に繰り出す.
焼肉でも食べるかと立ち寄った一軒目は満席.その昔,クリスマスに叙々苑なんて!と怒っていた女性が居たが,いまや,高級な部類で,時代は変わった.叙々苑と同様,比較的,高めな店なので空いてると踏んだのだが甘かった.
それでも,近所の焼肉というよりホルモン焼き屋だが,空席があり,安堵.クリスマスだからと,紅白のセットを注文し,ビールを堪能.ふと,周りを見渡すと,客の多くがカップルで,男だけのテーブルは我々だけであることに気がつく.女性のみのグループも見つからず.今時のクリスマスの現実を垣間見た気がしたが,こんな過ごし方も悪くはない.
クリスマス明け仕事納めまできっちり働いた後,上京.またもや,フライト遅延に遭うも,羽田に到着すると,また別の卒業生からメールが.東京の大学院に進学し,普通なら関わることはないはずが,指導教員がよく知った間柄だったので,色々な話を聞くことになる.大変だったようだが,困難を乗り越え,修士を取り,就職したところまでは聞いていた.
もし博士課程に進学するつもりで,北大でよければ受け入れてもいいという話までしたものの,本人にその気は無いということで,私は避けられてるんだと思い込んでいたから,こちらからあえて連絡はしなかった.しかし,これまた酒の強い男で,惜しい人材だと思っていたところに,会社にも慣れ,六本木勤めで,飲める店にも詳しくなったとのメール.こちらと反対方向に移動していて,実家の札幌に戻るところで,羽田ですれ違っていたようだ.また新たな会合を持てそうで,楽しみにしている.
4日の仕事始めに戻り,帰宅すると,また別の卒業生から年賀状が届いている.2年連続で喪中となり,引っ越しの連絡がとどかず,喪中ハガキが戻って来ていたことを思い出した.この男とは,会おうとしても,すれ違いが多く,縁がないのかと思うこともある.
しかし,電子相関に興味があると,東京の大学院に進学し,偶然,私が勤めた研究所で学位を取得後,ロスアラモス留学を経て,不思議と,私とは縁の深い所に立て続けに職を得た研究者なんで,縁はあるに違いない.気長に次の機会を待とう.
彼が卒論を書いたのは10年以上前のことだが,今でも,実験の研究室の卒論や修論を読むと,彼の卒論が引用されていることがある.半導体の4光波混合の理論に関するわかりやすい文献がなく,重宝されているのだと思う.こちらの教育に大きく貢献していることを,伝えねばと思いながらチャンスがなかった.素晴らしい論文を残してくれて,ありがとう.
新年早々から,京都に研究打ち合わせに行ったり,気がかりだった食道の腫瘍を取ったりと,慌ただしく過ごして,少し落ち着いた頃に,自動車メーカーに勤める卒業生からメールが.仕事もプライベートも充実した様子で何よりだ.
こちらのホームページ更新の話を読み,身近でも同じようなことがあったと教えてくれた.あんな一部上場の企業でもあるんだから,経済的合理性に対する感覚の鈍さは,日本人全体の問題なのかもしれない.
ついでに,学生時代,プリンターのトナーが切れ,値段も気にせず生協から購入したことで私にひどく叱責された思い出が語られており,昔はつまらないことで叫びまくっていたことが思い起こされる.今もか.めげずに,そのような教育の効果があったのだと,思うことにする.
京都の帰りに,共に出張していた現役修士の学生を連れて,大阪に立ち寄り,箱根で一緒に過ごした男と,梅田で3人集まった.そのOBは経済的合理性をよく理解する男だったので,パック旅行で安いプランを探し経費節減の努力をするのは当然として,今時,銀行振込に手数料を払うなんて情弱でしょうと愚痴をこぼしてしまった.クレジットカードを持たないという主義があってもいいのかもしれないが,それも私自身は理解に苦しむし,銀行の引き出し手数料とか,振込手数料を払う状態を放置しているのはいかがなものか.
もちろん,お金を持っているものへの優遇ではあり,今話題の隠れ貧困層には無理なのかもしれない.しかし,口座さえ開設すれば振込手数料がネットなら月一回は無料というところがいくつもあり,コンビニや郵便局で,時間外でも,引き出し手数料が無料になる条件は,それほど厳しくないはず.
ネットで,儲かる方法とか,簡単に英語が話せるようになるとか,究極のダイエット法とか,何万円もする怪しげな情報商材が売れるぐらいだから,数百円の手数料なんて気にしない人が多いのも無理ないか.
偶然にも,先のメールを受け取って返信をした数日後,応物コースホームページ更新の費用が確定し,会計報告がなされた.当初予算を大幅に超えておる.これに関する経済的合理性はいかほどか,彼らの意見を聞いてみたい.
応用物理工学コース – 工学部 応用理工系学科
思いがけず,OBとの交流が続き,楽しませてもらっている.もちろん,ここを離れてから全く交流がないこともフツウだし,こちらからの連絡に無反応の人もいる.来る者は拒まず,去る者は追わず.東京に転職希望と言い続けながら,お祈りメールが続くとへこたれ,しばらく就活していない.学生は受け入れ続けているので,理論研究に興味があれば訪問されたし.
20160724
1年間続いた成績不良学生に対する補習講義を終えた.なぜこれほど力を入れられたのか,自分でもよくわからない.ただ,昨年末に父が他界してからは力が抜けた感じで,明らかに頭の回転が鈍く集中力も低下した.それでも,酒が旨く感じられたのには救われ,アルコールが入って調子の上がった状態ぐらいのほうが準備が進む仕事だったから,続いたんだと思う.
学生たちの知識不足に絶望しながらも,彼らのやる気には目を見張るものがあり,実際に,全ての学生が毎回こちらの要求した課題を完了して帰ったことには希望を見出した.正直な話,大学で教えるようになりそれなりの年月が経つが,研究室で一緒に研究する学生は別として,一般学生に対するこのような演習では初めての経験である.
これまでは,やる気のない学生に何かを教えるなんて無駄な努力で,そのような学生を切り捨てるのもやむなしと思っていた.もちろん,多くの方々の協力があってこそ実現したんだけれども,学生の自主性に任せてきたこれまでの大学教育やり方を変えていく一つの方向性になり得ると思う.
週末を札幌で孤独に過ごすと,遺骨と向き合うことになり,いまだに時が止まった感覚だ.警察で遺体を引き取り,葬儀や諸々の手続きを経て,遺品整理業者に部屋の片付けをしてもらって一段落というところで区切りをつけたつもりだが,これからどうしたらいいのかわからず,前に進めない.
いくつかの預金口座があったんだけども,思うところがあり家裁に出向いて相続放棄の手続きをした.それで義務は果たしたことにして,死亡届を出した際に,給付金が出るものもあるからという呼び水でいくつか提出せよと指示があった諸々を放置している.
様々な互助制度で死亡給付金が出るのには驚いたが,全て辞退した.ある事務担当者が本当にそれでいいのかとしつこく確認してくるのには閉口した.ここの事務は,東北の地震の際に大学で寄付を集めるというので協力したら,領収書は出ないがそれでいいかと言ってきたりする者が居たりして,放置してくれればいいのに,変わり者への対応に慣れておらず,不快な時がある.まあ,お金にうるさい先生が多くて困っているのかも.
父の最期を看取った連れ合いから,四十九日,百か日と,お寺で法要をしたと連絡があるも,こちらは何をするでもない.もともと,離れて暮らしていて疎遠だったのが,遺骨と過ごすことで,毎日,父を思い出すことになり,生前より,父のことを考える時間が増えたのは良かったと思っている.
ひとつ気がかりなことがあり,父の死を伝えるべき人にいまだに話ができないでいる.それは大きく義理を欠いた行為であるとわかっていながら,気が進まない.20年も前にその人に知らされたある事実が,その後の自分にも父にも小さくない影響を及ぼすことになったのが,父が亡くなったことで記憶に蘇り,恨めしく思え,その感情を拭い去れない.逆恨みにすぎないとわかっていても.
人を憎んだり恨んだりなんていうのは,今後はもう無いだろうなと言うぐらいの境地に達していたつもりだったのが,昇華できていない過去の記憶は恐ろしい.そういうネガティブな感情が日常に入り込むとろくなことはないと実感する.記憶をどんどん遡ると,更に闇に飲み込まれる.
この件でではないが,何が起こったかをぶちまけたくなる衝動を抑え,墓場まで持っていく覚悟が出来ないとイカンことが誰にでもあり,そんな経験こそが人生を豊かにすると語ってくれた人の言葉に救われたことは忘れないが,何事もなかったかのようにしれっと父の死を伝えられるのだろうか.訃報としては既に伝わっており,電話一本入れればいいんだろうけれども,いまだ自分の口から冷静に伝えられる自信が持てない.
親の死を誰に伝えたらいいのか,皆さんどうやって判断しているんだろうか.父がもうダメかという状態になりながら復活した時に尋ねたら,親戚関係は伝えなくていいと断言していた.こちらは父の親戚とは誰とも付き合いがないし連絡先もわからないんで伝えようもない.父子で暮らしていたころの昔の付き合いは,調べようと思えばアテはあるが,本人が希望しないなら,それでいいだろう.
最近の付き合いは連れ添いが把握しているはずだから,尋ねたけども,彼女らも葬儀への出席は遠慮するということだったので,厳密な意味の家族葬となった.後に彼女が交友のある所には伝えてくれたということなので,それは助かった.離れて暮らす親の付き合いを把握するのは非常に難しく,単なる独居老人だったらどうしただろうか想像もできない.
そもそも,葬儀が誰のためのものか,という自分の認識が世間一般と大きくずれていた.基本的には,亡くなった人のためで,副次的に,その人を慕う人のためでもあるのだと思い込んでいた.法事も,後世に名を残したいとか,死んでも忘れられたくない,などと考える人々の安心のためにあるのだと思っていた.自分にはそういう欲求はないし,死んで火葬されたら骨になるだけなんだから,自然に帰して欲しいと思うだけだ.
しかし,父の死に直面し,はい,もうこの世に居ません,と機械的に受け入れることはできなかった自分がいる.毎日,思い出すようになったといっても,一方的な思いに過ぎない.返信のないメールを送ってしまう人の気持ちが少しは理解できる.そんなメールを送ることはないまでも,メールが来たらいいのにと思うことはあるので,AIで亡くなった人のbotを提供するサービスがあれば契約してみたい.過去のメールの記録があるから,自分でつくればいいのか.
結局,様々な法要は残された人々のためにあるというのが真実なんだろう.生まれてからずっと頭のなかの一部を専有してきた記憶を消し去るなんて無理に思える.それが生きる支えになっていたとしたらなおさらだ.現実世界と脳内世界を一致させる必要はないとして,そのインターフェースとして,法事が大きな役割を果たしているのではないだろうか.日常でも,故人の記憶が失われないためになのか,新たな情報が入らないのでその穴埋めなのか,昔の記憶を呼び起こすように脳が勝手に働いている気がして,ちょっと怖い.
父の場合,後期高齢者も間近という年齢に達し,1日50錠ものクスリを服用していたような病気持ちで,ある程度覚悟ができていてこれだから,今時の学生が親密な関係にあるまだ若い親を亡くすようなことがあったらと思うと,お節介ながら,心配になってしまう.あるいは,疎遠だったからこそこうなったのか.
自分は4年生で研究室配属されてから博士課程まで進学し中退して就職するまで一度も親の住む場所に立ち寄ることがなかったぐらい疎遠な関係だった.それは極端な例としても,北大の学生が頻繁に帰省したり,親から定期的に小遣いをもらっているとか,お年玉をもらって喜んでいるなどという話を聞いたりすると驚く.
大切に育てられたというか,親の言うことを,内心どうかは様々としても,表面上は従順に聞き,正しく依存することができているのだろう.日常生活に必要な物は全て親が買ってくれるという学生も居たりするのではないか. 父子家庭だったこともあるんだろうけども中学生になってから親と買い物に行ったことなど記憶に無い自分としては,例えば,自分で着る服を親に買ってもらう大学生が居たとしたら,どういう学生なのか見てみたい.しかし,親に歯を磨いてもらっているという大学生も居たし,オープンキャンパスの保護者相談会が盛況になるぐらいだから,大学生の子供に全力投球の親も少なくないのかもしれない.
どの家庭にも,それぞれのやりかたがあり,友人たちと話をしてみると思いがけないことがあるものだ.そういう強い結び付きがあるのは,否定すべきことではないはずで,当人は幸せなことであると自覚すればいいと思うのだが,そんな強い結びつきのある身内が急死したら,というリスクヘッジが必要な気がする.
かつて,同級生や,研究室の学生,アドバイザーをしていた学生の親が亡くなった経験もあるが,彼らは気丈に振舞っていた.大変だろうなと思っていたが,こんなところで愚痴るような私とは違って,悲しみを抑えこみ耐えていたんだと今ならわかる.人生いつ何時何が起こるかわからない.その意味をよくわかっていなかった自分が言うのも何だが,大切な人との関係を意識して大事にして欲しい.
このページは,基本的には,私に指導を受けたいならそれなりに覚悟して来なさいよという学生へのメッセージで,開設してもう10年近くもなるが,その意図は正しく伝わっているように思える.その中で,配属されてきた学生たちへの言葉を綴ることも少なくない.研究に関しては,躊躇なく,口にすることは出来ても,人生の選択に関わることに意見するのは簡単ではない.その場では,大変だよな,難しいことだねと,認めるだけでお茶を濁す事が多い.
後で考えて,自分自身の人生経験から参考になる事例を思い出しそれを綴ってみたり,学生自身が奮闘する記録を残してみたりしてきた.身の上話の切り売りは,自分がどう受け止めたかという視点で述べる限りは,他人を傷つける心配が少なく,人生でそういうこともあるかもと想定したり,そんなんでも生きていけるかとか,自分はそこまでは堕ちてないと安心したりするきっかけになったらいいと思う.
しかし,世間に公開できる身の上話なんて,そんなにたくさんあるはずもなく,ネタが尽きてきた感がある.しばらく大学院生が入ってこなかったこともあるが,学生の悩みを打ち明けられることもほとんどない.学生と飲む機会は,むしろ,増えた気がするけども,平成生まれの学生たちがハッピーそうに見えるのは偏見なんだろう.単に,気が置けない関係になれないだけだと思う.
父の死を綴った文章をアップして,もうこのページの役割も終えたのではと,閉鎖しようという思いが膨らんできた時,ある方が,それを読み,直筆の手紙を下さった.個人的に本当に世話になった人で,いくつもの困難を一緒に乗り越えた同志だと勝手に思っている.お礼の返信をせねばと思いつつ,父の死を伝えるべき人に伝えるのが先だと,後回しになっていた.
この不義理をなんとかしたいが,如何ともしがたくココロの膠着状態を脱するために,ここにひとつの思い出とその後のつながりを記すことでとりあえずの返信とさせていただきたい.
ある時,その人が鞄にしまおうとしていた本が「豊かさとは何か」だった.まだ駒場に居る若かりし頃,どうして手に取ったかは記憶にないが,読んだことがあるので,私もその本読みましたと話しかけると,読み返してるんですとのことだった.その理由はここで語るべきではないだろうから,いつも通り,私自身に関わる話を綴る.
私の駒場時代といえば,日本はバブル経済まっただ中でモノとカネがあふれる世界一の金満大国であった.上から下まであらゆるセクターで,金回りがよく,そのおかげで自力でなんとかやり過ごせた.というか,そう表現してしまうこと自体が,人と人との関係を無視した傲慢さが表に出ているんだけども,当時は何の曇りもなくそう思っていたので,そういう表現にしておく.また,その思いが20年前に知らされた真実と強くリンクして,心を惑わしている.
大学3年からは,給付型の奨学金が受けられるようになり,育英会の奨学金と合わせれば,今時の学生と同じぐらい働けば,時給は高かったので,贅沢な暮らしができた.しかし.それまでは,今風に言えば,駒場時代は黒歴史.今でもたまに連絡を取り合う,良識のある仲間たちが居なかったら,大学で居場所を失って,違う世界で生きていた気がする.
インターネットはもちろん,携帯電話も普及していない時代だ.しかし,ポケベルが10桁ぐらいの数字を送れるようになっていて,公衆電話のプッシュボタンで送信する必要はあるがそれで十分連絡が取り合えた.元々は父が使っていたもので,お前も使えと貰ったものだが,父が情報に敏感だったということだろう.単に必要な時にすぐ自分を捕まえたかっただけのような気もする.
当時,大学生がポケベルを持つなんて発想はなかったし,しばらくは父からの連絡以外には役に立たなかった.外回りで呼び出しの必要な営業マンが使うんだろうぐらいの認識だったから,無駄だなあと思っていたが,使われているところでは使われていた.10桁の数字でも,事前に取り決めておけば,100億通りの情報を送れるわけだから,充分に機能する.
しかし,本体は買い取りではなくレンタルで,ある時,使用料を自分で払えと言われて,父に送り返した.それを境に,父とは連絡を取り合わなくなった気がする.どちらも会話は苦手で,必要なときだけ呼び出して,都合のいい時に折り返せばいいというシステムは好都合だった.何年か経った後に,より薄くなったポケベルを送ってきたのだが,全く使わなかった.
それからまた長い時を経て,携帯メールでやり取りをするようになったのは,あの歳にしては頑張っていたと思う.遺品の中に,携帯電話が2台あって,なぜか,1台は自分とのやり取り専用になっていた.それで,倒れた際に着信履歴をチェックされた携帯電話は別の方で,私への連絡が遅れたのは悔やまれる.
話を戻して,自分がポケベルでやり取りしていた人とも,関係は途絶えてしまった.六本木や銀座で集まっていた彼らは今頃どうしているだろうかとたまに思い返すことがある.会ってみたいような会わないほうがいいような.一時,頑張って検索したが,誰も見つからなかった.
こちらは公人だから,検索すれば簡単にヒットして連絡を取るのは簡単なはずだが,誰からも連絡がないのは,情報リテラシーが低いのか,単に私の影が薄かっただけなのか,あるいは,皆が黒歴史として封印しているのかもしれない.
その後,思いがけず.六本木で働くことになったのは何かの運命かと,当時よく出入りした店をあたってみたが,どれも違う店になっていた.フード・ドリンクチケットをどこからか大量に調達して来る人々が居て,最初は犯罪かと疑ったが,カラクリは繁盛してない店でも混雑させれば人が集まるという商法である.行列を作るバイトなんて広告に出す訳にはいかないから,人づてにしか集められない.そんなんで客を集められたのがバブルの象徴だろう.バブルがはじければ,そんな店も泡のように消えるわけだ.「豊かさとは何か」の話になったのは,その六本木勤務時代だった.
バブルのまっただ中に,環境破壊・過剰労働・受験戦争・老後不安の問題などを取りあげ,東西統一される前の,西ドイツと比較して,日本がいかに貧しいかという主張を展開していた.論旨は明確で,様々なデータに基づいた主張にはその通りと言うしかなく,間もなくバブルもはじけ,長い停滞の時代に突入した.少子化やIT化で,問題の詳細は変化したけれども,そのような変化も予見しており,そこで指摘された問題の殆どが,20年以上の時を経ても,いまだ解決されていないのには言葉も無い.もはや日本の伝統文化なのではないか.
しかし,当時の自分は,まさにモノとカネにあふれる生活を求めて,社会の底辺でもがきつつ,最高学府と呼ばれる場所に籍を得たのはいいが,それで変わるのは周りの環境だけで,自分は何も変わらず,育ちの悪さが,自分のココロの中でだが,際立ち居心地が悪い.そのようなまっとうな主張は,上から目線で遠く離れた安全地帯から物を言われているようで,素直に受け入れることは出来ず,西洋かぶれの学者の机上の空論だぐらいに思っていた.
職を得て結婚しそれなりに社会性は身についていたはずだが,その本を思い出すことになったその時もココロには響かなかった.それでも,その人がその本を読み返していた事実は私の中で強く印象に残り,それがなければ,「豊かさの条件」を手に取ることはなかっただろう.
同じ著者によるその続編を読んで,頭を殴られたような衝撃を覚えたのは忘れない.シンプルに言えば,著者は有言実行で,真っ当な主義主張を,きちんと,実行に移していた.主張には同意しながら,あれこれともっともらしく出来ない理由を並べ立てて何もせず自己肯定していた自分を心の底から情けなく思ったし,自分の卑怯さを認めざるを得ず,かなり凹んだ.
だからといって,すぐに変われた訳ではなく,社会問題に正面から立ち向かうことなどというのは今でも到底無理である.それでも,自分が自分がというのでなく,身近な問題の解決に協力することに意味を見いだせる意識の変化を生むきっかけとなったのは確かだ.それを周囲も察したのか,学内だったり,国内だったり,海外とも関わるような,公的な仕事の依頼を受けたりして,少しは社会貢献できているんではないかと今は思える.
中学・高校とそれなりに成績はいい方だったから,クラス委員とか生徒会とか,何か経験があってもよさそうなのに,全く記憶にない.クラスの図書委員とか保健委員とか,誰でも出来そうなそういうレベルもない.高校の時には生徒会役員のなり手がなく,慣例として実力試験の成績の良い人物に声が掛かるという話だったが,あっさり順番をスルーされ笑い話になった.
興味なかったし,そんなのやりたい人間がやればいいでしょと思っていたから,当然の扱いだけれども,社会的信用がゼロだったということだろう.そういう人間が変わるきっかけは色いろあり得るんだろうけども,自分の場合,教員をやっている事自体が,昔を知る人からすればあり得ないと思うだろう.大学教員採用に人間性は問われないという典型例と思われるかもしれない.
冒頭に述べた,学生への補習講義は,まさに,誰かがきちんと取り組めば解決できるであろうが誰もやりたくなさそうな問題だったが,真っ先に手を上げた.というより,誰もが問題と感じていたのに何も言い出さない所を,問題として表に晒した.どうして自分にそんなことが出来ると思えたのかは本当にわからないし,結果として,問題が解決されたとは言い難いのだが,やってよかったと素直に思える.
いわゆる進学振り分けで,人気最低学科となり,応用物理を看板に掲げながら物理をまともに理解しない学生を大量に受け入れることになる.当然,授業についていけず,かなりの不合格者を出すことになった.それはそれで仕方がないと思いつつも,別のオトナの事情で,これはマズイのでは?と周囲に聞いて回り意見が一致したので,それなら何とかしましょうと専攻会議で提案し,協力者を集め,物理と数学の再教育を始めたのであった.
平均学力が低いのは当然としても,少なくとも北大入試はクリアしてきている学生達なので,その程度の基礎学力はある.世間一般の大学生と比べれば,充分能力の高い人々であるという認識を持つべきだと思うのだが,彼らに限らず,最近の学生は,あれも出来ない,これも知らない,などと嘆く教員は少なくない.
現実には,それを把握するのが遅すぎることが問題であり,これぐらいということをわかってないと思うなら,わかるようになるまで教えればいいいのに,その気はないんだろう.学生にやる気が無いとか,勉強する気がない,などと言い出したら,もうお手上げだ.自分の言っていることが学生に理解不能である可能性に目をつぶり,どうして全て学生に非を押し付けるのか,わからない.教員のポジティブシンキングのなせるワザなのか.
もちろん,こちらの持てるリソースも有限なので,全ての学生の要望を叶えることは不可能である.自分自身も,通常の講義では,全容を理解してくれる人が数人いれば充分で,あとは,テスト問題は内容を事前に教えるので,それをまじめに勉強してくれれば単位はあげますよ,という態度だから,まあ,五十歩百歩なのかもしれない.
今回の補習では,最初の半年は希望者全員を受け入れたが,この半年は,なるべく多くの学生を引き上げるために,25人居た希望者を19人に厳選した.教える側のリソースが2倍になって2クラスに分けられたら,全員を受け入れられたと思う.
週に2回,必ず出席する応物実験が終わった後の5限の90分,与えられた問題を解くという形式で,指示された問題を全て解き,TAのチェックをパスしないと帰れない.通常講義に対する演習では,スムーズに進行した場合でも,友人の解答を写したり,何も出来ずいたずらに時間を費やすだけの学生も少なくなく,正直なところ,問題を自力で解き終えるまで帰さないというやり方が成立するとは思っていなかった.最初は,途中で解答を教えて,その後それをなぞればいいとしていたが,何回かでその必要はなく,90分フルに問題を解いてもらえばよいことがわかった.
補習といえども,あえて問題を簡単なものにすることはしなかった.難問奇問は避けるとしても,それぞれの科目で必須の内容を厳選し,重要な物理に触れながら,基礎的な計算が実行できるようになることを目指す問題づくりには苦心した.そのような問題をきちんと解けるようになるのは,TA役の先生方や先輩学生達の手厚い指導のおかげである.19人の受講生に対して,4,5人のTAが見て回り,手が止まっている学生には声を掛け,教え込んでいた.
私自身は,問題と解答例を作り,当日は,全体の様子を把握して,ヒントを黒板に書く役に徹していたが,TAの方々の教え方からも学ぶところがあった.教員も学生も,本当に教え方がうまい.人選が素晴らしかったと自画自賛したい.自分自身は,人の話を素直に聞くことが出来ないせいか,こうすればいい,ああすればいいと指示されてもそれが旨く実行できないことが多く,他人に教える時も,まず,何がわからないのと聞いて,疑問点を明らかにしないと,指示が出せない.
しかし,それは問題を深く理解していないだけで,その努力を放棄し,相手に丸投げしてサボっているということだ.このレベルでは,どこがわからないかを素早く見つけてあげられるのが良い教師である.自分の場合,効率の悪いことを避けたいという意識がそうさせるんだろう.学生を信用していないとも言える.今回は,全ての問題を自分で作成し,解答例まで用意したので,なんとか対応できた.
学生に考えさせることが大切で,やり方だけを教えて出来たとしても意味が無いと反論する人がいる.それは正論だが,物理的思考が可能になるには,その基礎となる知識があることが前提で,その知識を習得するには,一定の時間をかけて訓練するしかない.多くの先生方はその訓練に苦労しなかったか,そういう時間があったことを忘れてしまったんだろう.
学生の方も,物理をわかるようになりたいという思いがあるのは伝わってきたし,皆,本当に頑張ったと思う.問題が配られてしばらくは,さっぱりわからないという絶望した雰囲気が漂うんだけれども,解説を聞いたり,TAの指導を受けたりしながら,わからないところが理解できたという変化の瞬間から,彼らが絶望を乗り越え光明を見出した雰囲気が伝わってきて,こちらも安堵する.時間内に終わらず,15分,30分と居残りになることがほとんどだが,それでも,全員が解き終わるまで,やり遂げる様子を見届けるのは感動的である.
この補習講義で彼らの学力が向上していることは間違いないが,それを定着させていくのにはさらなる努力が必要だし,卒業研究に漕ぎ着けるまでに彼らが学ばなければいけないことはまだまだたくさんあり,問題が解決したとは到底言い難い.この補習を,単なる自己満足に終わらせないために,我々が考えなければいけないのは,まさに,「豊かさとは何か」と「豊かさの条件」が投げかける問題だと思う.
現状は,学生も教員も,効率優先の成果主義に囚われ,最低限の労力で結果を出そうとして,お互いの求めるものがかけ離れてしまっている.難しいのは,どちらもそれなりに努力しているつもりになっている点で,これ以上妥協できないという雰囲気が漂う.実際問題として,この補習を終えた今でも,彼らに卒業研究をさせて卒業論文を完成させられる自信を持てない.
それでも,こちらが真摯に指導すれば,それに応えてくれて,彼らがハッピーに感じたかどうかはわからないけれども,少なくとも自分は,まじめに取り組み結果を残した彼らに感動したし,幸せを感じることが出来た.
結局は,学生をひとくくりにして教育しようとするのではなく,個人を尊重し,顔を見ながら,人として接するべしということで,その態度が,彼ら学生にとっても,我々教員にとっても,重要であることは間違いない.クリアすべきは基礎的な知識を修得すべきということはお互いわかっている.勉強第一の生活というのは無理としても,急がば回れで,基礎からやり直すチャンスを,学生一人ひとりが見いだせるようなシステムを,我々教員が努力して作れればいいのだが.
一通の手紙に,励まされ,様々なことを思い出し.元気づけられました.心から感謝しています.一方的な思い出語りで失礼しました.読書繋がりで,最近読んだ本では,次の本が最高でした.機会がありましたら,手に取ってみてください. 正直な感想として.文章は拙く,無謀な行動にも思えますが,なんでもやってみようというのが大切だと思い知らされます.
「なんにもないけどやってみた」(bookmeterへのリンク)
仕事をしなければ,独りで過ごす週末は恐ろしく時間の過ぎるのが遅い.ワインを飲みながら,この文章をタイプしつつ,録画映像を流し続ける.ホットロードの能年玲奈がグイグイと迫っきて,ココロがえぐられ,尾崎豊にしびれた.オフコースの昔のライブ・コンサート映像を見ると,熱烈なファンだったあの人はどうしているだろうと気になる.
若いのに小田和正のファンだという学生が居て,よく飲む男で,有り難い存在だ.千葉で働く昔の学生が,今では研究室OBというよりは飲み仲間だと思っているんだが,たまたま,札幌に来ていて,大通りビアガーデンに行こうと誘ってくれた.至福の時である.昭和生まれの卒業生と平成生まれの学生とどんな会話ができるのか楽しみだ.熱力学も補習も試験の採点が終わっていないが,たまには仕事をしない週末があってもいいだろう.
20160529
今年の4年生の研究室配属は大きくもめた.ここでも,研究室配属に関わる議論は何度もしている,我々教員は,希望者が定員を超えた時に誰を選ぶべきかに成績を利用することを指示していないし,望んでもいない.そうしているのは学生自身である.
客観的な数字で判断したいというのはわからないでもないが,こちらは成績よりも熱意があることを重視していることが伝わっていないというべきか.アピールできるものが同程度なら,あとは,ランダムに決めるしかない.ジャンケンかあみだクジにしろということだ.
研究室配属前に学生が考えられることと実際の卒業研究の間には,大学生が大学入学前後に感じることと同様な,大きなギャップが有り,もし具体的な夢があるとしたら,重要なのはどこに入るかではなく,入ってからどう行動するかであることを,我々は身を持って経験しているし,多くの学生たちを見てきた結果としても確かなことである.
考えた末にここしかないというならそれを押し通すのもいい.もし,複数の候補に絞れて大きな違いは見いだせない中,ここと決めたところは定員を超える希望者が居て皆が自分が一番やる気があると主張し続けくじ引きで決めるしかないとなり,それで外れて最初に想定した範囲の他の研究室はすでに配属者確定済で入れないということになるぐらいなら,そうなる前に他の研究室を選ぶというのは,運に頼らないという意味では,良い戦略のはずなんだが,最近の学生はそうは考えないようだ.
しかし,ランダムでいいと言ってるんだから,成績で決めることにも問題があるとは,私自身は考えていない.このような場で成績しかアピールできないような学生はそのうち行き詰まる.今時は,就活で試されるだろう.
実は,今年の配属では,事前に大きな改革が提案されたんだが,結果的には否決された.その過程で,私自身も,学生が成績で決めることを望んでいるんだからそうしたらいいではないかと提案したのだが,全く受け入れられなかった.
成績で決めることのデメリットは,ここは成績の良い学生が行く研究室,あそこは悪い学生が,という印象が固定化するから,と言う教員がいて,それに賛同する者も少なくない.そういう印象が形成されるのは,そうなる原因がありその結果であって,次の機会にそこから判断するのは一定の妥当性があるはずだから,それを妨げようとする意味がわからない.
あえて言えば,原因を深く考えず成績だけを気にしてそのような表層的な情報のみから判断するような思慮の浅い学生が避けることによって,指導する方から見れば都合のいいことがあったりするのではないか.しかし,それを都合が悪いと考える教員は,臭いものには蓋をしようという発想になるのかもしれない.
情報をどう公開していくべきかという話は専攻ホームページ更新の話にも繋がる.このサイトを更新したきっかけについてはトップページから情報を辿ってもらえばわかるが,専攻ウェブサイトの更新が学生集めに必要だというけども,それに見合った金額なんだろうかと疑問を呈してみた.というか,どんな金額を出したって,中身がなければ無駄だということを強く主張したい.そして,その必要な中身は何を目指すかによって大きく異なる.
選挙権の年齢が18歳に引き下げられ,政府の広報活動が話題になっているというので,総務省の作成したサイトを見てみた.「はじめての日ムービー」は広瀬すずのかわいさでまだ耐えられた.しかし,「選挙権の変」でもうギブアップ.とても残りのコンテンツを確認する気にはなれなかった.
私のツイッターのタイムラインでは,若者を馬鹿にしているという意見と,政府はそういう表層的な情報に左右される若者だけに投票に来て欲しいんだろうという意見が多い.大学生は1年生から選挙権を得たことになるわけだが,残念ながら,北大生の中にも,そのように分類される側に属しているのではと危惧される学生が増えてきたように感じる.
北大入学者の道外出身者が半数を超え,遠方から引っ越してきた学生で,住民票を移していない学生が,最近,明らかに増えてきた.保護者を頼りにしているうちは,その方が便利なことがあるのは理解できる.しかし,それが法律違反であることを知らないと主張するのはアホだと思うので,そんな時は,お前が何か悪事を働いたと疑われ,それが濡れ衣でも,目をつけられたら住民基本台帳法違反で別件逮捕されて勾留されるぞと脅している.
もちろん,グレーゾーンもあり,例えば,国会議員は地元に住民票を置いているはずだが問題にならないのは,偉いから・・・ではなくて,生活の場は地元にあると主張するんだろう.しかし,ここで問題にしたいのは,選挙権を行使する気があるかどうかである.それこそ,北大生の民度とまでは言いすぎかもしれないが,オトナとしての思考ができるかどうかが問われているのだと思う.
ジブンが投票しても意味が無いと言い訳するのは,想像力が足りない.一票一票の積み重ねが政治を決めていることを理解できないようでは,大きなことを成し遂げるのに必要な一歩一歩の積み重ねが目標達成に繋がると思えないという思考の構造と同じではないか.
学科配属・研究室配属・大学院入試を控えた学生が何を目指しているかは十人十色.その選択がはじめの一歩だと思えば,何が重要かを見極め,必要な情報を調べ,よく考えて候補を絞ると期待する.そうでなければ,見栄えのいい情報に引き寄せられ,根拠の薄い噂話に左右されると心配する.
いったい,どんなウェブサイトを作ったら学生にそこに行きたいと思ってもらえるんだろう.中身も重要だが見栄えも大切.思いつく限りのことをやるんだな.
休日にHDDレコーダーに撮りためた映画を流しながら作業をしている.「ストロボ・エッジ」の途中から,タクミがなんていい奴なんだと,つい手を止めて最後まで観てしまい,若者たちが持つ,真面目さ,繊細さ,傷つきやすさに,それらの裏返しの格好付けなど,自分が失ってしまったものを思い出した.
ふと,もしかして,研究室セミナーで,論文や教科書を読むのにも,好きな人と接するように,真摯に向き合い,相手の言うことを繊細かつ好意的に感じ取り,意図が理解できないことに傷ついても,わかったつもりになってカッコつけて話をしてしまうのだと思えば,若者たちの発表を理解できるのか?仮にそうだとしたら,無駄は排除して本当に大切なモノを掴み取るまで頑張れ,と一刀両断してしまう短気で図太いオヤジとの溝を埋めるのは容易ではない.
何事も,権力を持つ側が,何らかの意図を持ってルール化しており,政治でも教育でも,表向きは,まるで大衆側の権利が非常に尊重されているような風を装いながら,色々な思惑が盛り込まれる.政治で言えば,監視がなければgerrymanderやspoils systemのような事が起こるわけで,大学でも学生側から声を上げることが必要な気がしてきた.
オヤジ集団が,若者たちを惹きつけようとするなら,若者の意見を取り入れるしかなさそうだ. 「はじめての研究室配属」なんて動画を配信することはないと思うが,専攻ウェブサイトの更新には学生たちの意見が取り入れられるという話なので,期待してみようか.