この研究は量子機能工学研究室における実験的研究を松田先生より教えていただき,始めるきっかけとなった. 先行する実験に関する詳細は量子機能工学研究室のホームページから得ることができる.
音波
音波とは,狭い意味では,空気中を伝わる波で人間の耳が感知することが出来る空気の振動を指す. この空気の振動が伝わる様子について考えてみる. 一般に,気体をマクロなスケールで見れば,空間的に偏ることなく分子が分布した密度が一様な状態が一番安定である. 安定な状態とは,そこからわずかに状態が変化した時,元の状態に戻そうとする復元力が働くような状態である. 声を発すると,局所的に気体の密度が乱される. 空気を口から吐き出せば,その場所の気体の密度は上がり,その密度を低下させるよう変化は進む. 分子が消えてなくなるようなことは無いので,ある場所で密度が低下すれば,その周りでは密度が上昇する. このような変化の過程を繰り返し,気体の密度変化は波として伝播していく. このような現象が生じるのは気体に限らない. 液体や固体でも疎密波は生じるし,変化を元に戻そうとする復元力を持つという観点,いわゆる,弾性は気体よりも液体,液体よりも固体の方が強いのでより多様な波動現象が存在する. そこで,弾性力に起因する波(弾性波)を,一般的に,音波と呼ぶ.
超音波
物質の弾性波を音波と呼ぶものの,音波の定義には,やはり,本来の人間の耳に聞こえる振動という意味合いを残している. つまり,振動数として人間の耳に感知できる範囲の振動とし,それより高周波の波を超音波と呼ぶ. 超音波の応用は多岐にわたる. こうもりは超音波を発しその反射波により空間的距離を把握していることはよく知られている. 海の中でもイルカは超音波により物の形状や距離を感知しているし,漁師が利用する魚群探知機も超音波を利用している. 見えないところの情報を得ると言う意味では,医療用の超音波診断技術の進歩は目覚しく,建物の老朽化の調査や,材料の内部検査など,我々の生活に密着した応用が数多く存在する. このように超音波を利用して目に見えないものを可視化する技術の限界は,超音波の波長で制限される. 単純に考えて,波長より小さなものを識別するのは不可能だ. ではどの程度まで高精度の空間分解が可能なのだろうか.
半導体量子井戸
LSI等の半導体デバイスは主にIV属元素であるシリコンから構成されるが,III族とV属の原子から成る化合物も重要な役割を果たす. 結晶中の電子状態はエネルギーバンドを形成し,状態が連続的に分布する荷電子帯と伝導帯の他に電子の存在できないエネルギー領域である禁制帯が存在する. さらに,あるIII-V属化合物半導体を別のIII-V属半導体でサンドイッチ状に挟み込んだ構造を考える. 物質が違えば,エネルギーバンド構造も異なるが,あるエネルギー領域で外側の物質では禁制帯となり, 挟み込まれた内側の物質では荷電子帯と伝導帯が外側の禁制帯に重なりを持つよう設計が出来たとしたら,内側の構造に存在する電子は外側には抜け出さないことになり, 電子を閉じ込めることが可能となる. エネルギーバンドを空間的に図示すると,外側の構造が一様に続いているとした時の禁制帯に,別の構造を挟み込むことにより その上と下に存在する伝導帯と荷電子帯が井戸状に侵入する. エネルギーバンドは量子効果に起因しており,半導体における量子効果により生じる井戸構造ということで,このような構造物質を半導体量子井戸と呼ぶ. 半導体量子構造は電子を閉じ込めた効果により,通常の結晶より発光効率の高い光学素子や,伝導性の良いデバイスの作成に利用されている. そのようなデバイスの設計には閉じ込められた電子の状態に関する情報が必要不可欠だが,物質の奥深くに閉じ込められた電子の振る舞いを観測することは可能だろうか?
電子格子相互作用
電子が安定な状態に留まっている時,結晶中の周期ポテンシャルの中でエネルギーが下がるような状態となっている. 具体的には,それぞれの原子核からの引力をなるべく享受するよう結晶中に広がるわけだが,これは,原子核の位置も合わせて最適化されていることに注意が必要である. ここで,量子井戸に光が入射して,荷電子帯の電子が伝導帯に遷移する過程を考えよう. 電子は光を吸収しエネルギーの高い状態に遷移する. この時,光励起による電子遷移は非常に速く完了し,電子より質量が圧倒的に大きい原子核はその運動に追従できない. 光学遷移による電子励起状態は永続的に保たれることはなく,やがて,光子を放出し大きくエネルギーを低下させるが,それまでは準安定状態として有限の寿命を持って存在可能である. その間,格子は電子の状態変化に合わせて,エネルギーを下げるよう位置を変えていく. つまり,電子と格子を構成する原子核との相互作用(電子格子相互作用)により,電子の光学遷移に伴い格子変形が生じる. この現象自体は物質一般で生じうるが,半導体量子井戸においては電子が数ナノメートル程度の非常に小さな空間に閉じ込められているため, 電子の光学遷移により生じる格子変形もその程度の領域に制限される. これは,ナノメートルスケールの空間変動を示す超音波が発生することを意味する. 半導体量子構造に閉じ込められた電子系の光学遷移により,電子格子相互作用に起因したナノメートルオーダーの波長を持つ超音波を発生できる, あるいは,それを観測すれば,閉じ込められた電子の空間的広がりを調べることができることになる.
卒業研究の内容
実験的には,閉じ込め電子の光学遷移により発生した超音波を,構造の厚みの変動に起因する誘電率変化を光学的に測定することにより観測しており, その実験結果は電子波,格子振動ともに線形波動と近似した解析結果とよく一致している. 本研究では,生成された超音波から閉じ込められた電子の波動関数に関する情報をどの程度取り出すことが出来るかという観点で研究を行った. 電子状態,格子振動はともに線形振動として近似するが,電子格子相互作用を考慮した時間発展を追うことにより非線形性を取り入れた. 現実的なパラメータでは非線形性は非常に弱く,基本的には光励起により生成された閉じ込め電子の波動関数の空間変化を反映した超音波がパルスが生成される. そこで,励起強度を変えた信号をスケール変換して差分を取ることにより励起強度に比例する線形成分を除去すると,非線形性を反映して,量子数の異なる波動関数の空間変動が得られることが明らかとなった. 非常に単純化したモデルによる計算であるが,線形信号を適当に除去することにより,励起状態の波動関数情報を得ることが出来ることに変わりはないであろう. ただし,光励起により生じる,正孔の存在,電子・正孔間引力による励起子効果,ナノメートルスケールの結晶サイズにおける格子の離散性など, 実際の測定と対応させるには解決すべき理論的課題が,数多く存在することが明らかとなった.
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